鳳凰
※この作品は、合唱曲「鳳凰」の二次創作作品です。

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 いつの時代かはとうの昔に忘れられてしまったが、とある国に一人の老いた男が居た。
 ――男は、彫り師だった。
 十五から志したこの道は、今年で六十年目になる。寄る年端に体力は年々奪われて行ったが、まだまだ若いものには負ける気がしない。それに、腕は確かだった。
 都一番の彫り師の名を欲しいがままにし、人々の心に深く彫り込まれるような、ど偉い名作を数々世に送り出してきた。
 もともと金銭目当てで彫り始めたわけでは無かったものだから、男はその名作どもを高値で売ったりはしなかった。全て、男が気に入った人間に、爪の先程の値で売っていたのだ。中には、無銭でやったものまである。
 そんな訳だから、暮らし向きは決して裕福とはいえないものだった。貧乏と言ってしまっても間違いではない。
 だが、男には誇りがあった。自分の信念に従い、その一刀一刀を刻む。そうして出来上がった作品を眺めるだけで、心が満ち足りていくのだ。

 そんな男だが、今の自分に満足しているかというと、決してそうではなかった。
 男は隠居を考えていた。しかしその前に、自分の生涯最高にして、最後の作品を作る事はできぬか、という気持ちに駆られていた。





 ある晩の事だった。男は夢とも現実ともつかない、不思議な光景を目にしたのだ。今にして思えば、おそらくそれは、夢だったのだろう。あのような光景、この世のものとは思い難かったからだ。


 ぽっかりと浮かんだ真ん丸い満月の夜だった。山間の湖の水面に、満月とは違う何かが映し出されていた。何かと思い、男は空を仰ぐ。
 するとそこには、二羽の美しいつがいの鳥がいた。
 ちょうど鶴ほどの大きさだったが、鶴など足元にも及ばぬ程、完璧なまでに均整のとれた身体。大きく広げられた羽は、七色にも輝くのだった。
 二羽は、まるでお互いが唯一無二の自身の片割れであるかのように、慈しみあい、身体を重ね、神々しいまでの舞いを舞う。しなやかな舞の軌跡は、砂金を空に流したようだった。
 互いを呼び合うように鳴くその声は、どんな楽器を持ってしても奏でることはかなわぬだろう。気高く、夜を包み込むようなものだった。
 雄鳥は凛々しく、精悍な顔立ちをしていた。
 雄鳥より少し小柄な雌鳥は、柔和な菩薩の様な瞳だった。其を見て男は、随分前に先立っていった女房を思い出した。
 異様ともいえる美しい光景を前に、不思議と穏やかな気持ちになれる。濃い甘酒を喉に流したような、甘美な感動が男を酔わす。
 ――いつまでも眺めていたい。
 そう思ったが最後、次の瞬間には目の前は真っ暗闇になり、次に目を開いた時には、夜はすっかり明けた後だった。





 以来男は取り付かれたように彫るようになった。目の色が変わり、熱に浮されているような表情でひたすら何かを形作ろうとする。食べ物さえ喉を通さぬ様子で、次第にやつれていく。だが、ぎらぎらとした瞳の輝きだけは衰える事はなかった。
 周囲の者達は、とうとう気がふれたかと気味悪がる半面、この彫り師を大層心配した。気難しい質だったが、信念を貫き、堅実に生きる男を皆は好きだったからだ。
 だがある日、突然男は彫るのをやめた。
 ついに男の最後にして最高の作品が完成したのかと、都中から人が大勢訪ねてきたが、男は一人浮かない顔で「まだだ」と答えるだけだった。
 人々が訝しがりつつ去ると、男はしかめ面で一人、部屋に佇む。そして目の前に立つ影に疲れた視線を浴びせた。目の前にあるのは、今にも動き出して飛び立ちそうな、二羽の鳥の像だった。夢に見たあの比翼の雌雄を、男は彫っていたのだ。
 それは、間違いなく男の最高傑作と呼ばれてもおかしくない代物だった。
 だが、どうにも納得ができない。自分の全身全霊を込めて彫ったのに、男の心は、いつも作品を彫り上げた時に感じるような満足感で満たされる事は無かったのだ。何かが足りぬのだ。あの夜見た、二羽の舞いをこの世に作り出すには、大切な何かが抜け落ちているのだ。
 うんうん唸りながら考えるうちに、男はとうとう完全に彫るのをやめてしまった。狂ったように彫り続けていた二羽の鳥の像を置き去りにして、じいっと黙ったまま、日々を過ごすようになった。
 この変わり様はなんだと、周囲は益々男の身を案じるようになる。いつでもどこでも彫る事を第一に考えていた男が、全く彫らなくなったのだ。いよいよ気がふれてしまったのかと人々は噂した。
 だが、男は彫る事を諦めたわけではなかった。ただ、待っていたのだ。再びあの幻の光景を目に出来たなら、足りない何かを知る事が出来るのでは、と。
 そうしていく晩か過ぎたあと、突然にその日はやってきた。


 男はまた、あの光景を夢に見たのだ。


 真ん丸の満月が湖面に揺れ、たぷたぷとした水音が耳に涼やかだった。風が少しある。運ばれてくるのは、森林の豊かな香りだ。あの時と全く同じ光景だった。だが、空に霊鳥の姿はない。
 その時だ。けえんと透き通るような気高い音色が空に響いた。聞き間違える筈が無い。あの鳥の声だ。悟った男は、胸を躍らせて声の元へ歩みを寄せた。声はまるで、男を呼ぶように何度も何度も夜に木霊する。導かれるように男は、どんどん足を進めていった。
 やがて辿り着いたのは、湖のほとりだった。
 目の前には、老齢な桐の巨木が聳え立っていた。どっしりと枝葉を張った見事な木だ。けえんとまた、鳴き声がする。桐の枝に影をみつけて、男は上空を仰いだ。そこに立つのは美しい鳥。しなやかな均整の取れた身体に、翼は七色。だが、一羽だけだ。二羽目はどこにも見当たらない。
 鳥は男と目が合うと、鳴くのをやめて男を黙って見つめるようになる。精悍で凛々しい顔つきは、間違いない、あの雄鳥だった。


 「もし。もう一羽は、どうされた」


 男は居ても立ってもいられなくなり、とうとう口を開いた。鳥に言葉が通じるかどうかは分からなかったが、聞かずにはおれなかったのだ。だが、男の言葉に、雄鳥は落胆したように瞳を伏せるのだった。


 『――妻は、のうなりました(なくなりました)』


 心に響くような、不思議な声がした。はっとなって男は、まじまじと枝に立つ鳥を見た。鳥は微動だにしない。だが、瞳だけは寂しそうな色でこちらを見つめていた。
 この雄鳥は、口を利くのだ。


 『過日の契りが、最期だったのです』


 また声がすると、枝にとまった雄鳥の瞳からは一滴の涙が零れ落ちた。あの晩はあれほど雄大だった鳥が、今はどうにも小さく儚く見えてならない。けえんとまた、悲しげな鳴き声が夜に響いた。


 「それではあの舞いは……あの比翼の舞いは」


 震える声で、男は鳥に問う。その問いに雄鳥はゆっくりと首を振ると、


 『妻なき後、どうして舞う事などできましょう』


 そうして項垂れ、また一声、鳴くのだった。


 男は愕然とした。もう一目見たいと望んでいた舞いが、二度と見れないというのだ。




 がばりと布団から跳ね起きた時、男は涙を流していた。
 「なんと憐れな」
 涙は後から後から湧いて出て、留まる事を知らなかった。若くして女房を亡くしていた男には、あの雄鳥の気持ちが痛いほど分かったのだ。何とかしてやりたいという思いが男を駆り立てた。まだ外は薄暗かったが、寝巻きも着替えずに布団から飛び出すと、男はあの鳥の像の元へ走った。
 一心不乱に刀を振るうと、一気に像は更に優美な姿へと形を変えた。それだけでは飽き足らず、男は都中を駆けずり回って金銀と五色の粉を集め、余すところなくそれを散りばめていった。そうして男の手によって、あの夢の姿はそのままこの世に現れたのだ。
 遠巻きに男を見ていた近所の者どもは、夕刻には事の大きさに気付いたようだった。群れを成して押し合いへし合いしながらやってくると、その優美な二羽の姿に大きな感嘆のため息を漏らした。それを横で見ていた男の着衣と頭髪はえらく乱れ、ほとんど裸同然の有様だったが、誰もそれをとがめる事は無かった。




 男の作ったこの像の話は、瞬く間に都中を駆け巡った。毎日のように像を一目見ようと町人が男の家を訪れ、比翼の姿を瞳にいれると、感動に涙を流して帰っていった。そのうち、この像を買いたいと言い出す者たちが出てきた。皆が皆、目の玉が飛び出るような値を口にし、自分の家の棟にと男に詰め寄った。普段の男ならここで頑として譲らず、その辺の気に入った庶民にでも譲ってしまうところだったが、今回だけは違った。この都一番の長者の家に、二束三文の値段で売ってしまったのだ。驚いたのは周囲の者達のみで、当の本人はというと、非常に晴れやかな表情で二羽の像が棟に凛々しく掲げられるのを見上げていた。




 その夜、男はまた夢を見た。ぽっかり浮かんだ真ん丸お月様を背に、比翼の雌雄が舞う夢を。
 二羽は再会にむせび泣き、幸せそうに身を寄せ合うと、一際気高くさえずりあって飛び立った。一層優美に身体を重ね合い、どこまでもどこまでも空高く上っていく。
 それを男は、満足げにずうっと見送っていた。




 翌日の事だ。男の像が掲げられていた棟から、二羽は忽然と姿を消した。
 何しろ都一番の屋敷の棟だったものだから、どえらい大騒ぎになった。屋敷の周りに人だかりが出来ると、人々はもう二度とあの優美な姿が見れないのだと落胆のため息を零した。あれほど見事な物だったのだから、盗人が盗って行ってしまっても無理が無い。主である長者は、悔しさに涙を滲ませたとか。
 ただ、人々の間では密かに囁かれるようになった噂があった。二羽の像が消えたあの夜、南の空高くに上っていく二つの光があったと。
 「鳳凰やけん、二人空高く飛びとうなったんやも知れん」
 都人の一人がそう呟くと、周りに居た者達も上空を仰ぐ。けえんと、気高い鳴き声が空に上がったような気がした。



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