蝉時雨が終わる頃

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 ――それは、九月の初旬の事だった。

 夏と秋のせめぎ合いが始まり、日によって気温の変化が激しくなってきた。けれども、その均衡もここ数日で徐々に崩れつつある。暑さで眠れなくなる日は無くなり、半袖では肌寒いと思うことも増えて、夏は確実に季節の座を秋に明け渡しつつあったからだ。
 そして、夏の間あれだけやかましく鳴いていた蝉の声が、ここにきて突然、その数を減らしていた。



 私はあの日、会社の昼休みを利用して、オフィス街の真っ只中に存在する、公園に散歩に来ていたのだ。人工的ではあったが、都心の中に咲く緑は、すすけた心を洗い流してくれるには丁度良かった。秋口にしては汗ばむ、夏が盛り返したかのような陽気。公園の真ん中に鎮座する噴水が、とても涼しげに目に飛び込んでくる。
 「……?」
 そんな時、ふと、私はある一点で、突然歩みを止めた。それは公園の中ほどに立つ、大きな老木の前だった。人の手で創られた公園にしては、野生的な存在感を放つ木である。どっしりと丈夫そうな根を張り、悠々と構える老木。その根元に、不思議な光景を見つけたのだ。

 一人の老人と、一人の若い女性の姿。

 老人は、木の根元にゆったりと腰掛け、女性はその彼に向かい合う形で佇んでいる。長い髪が邪魔して女性のその表情までは分からなかったが――泣いている? 直感で私は、そう感じた。
 女性は、何かを老人に告げているようだった。それほど遠くには居ないのに、彼女の声は風でほんの少しも流れてさえ来ない。対する老人は、優しそうな、悲しそうな瞳でその女性の言葉を胸に留めているようだった。
 あまりに不釣合いな組み合わせである点と、何故女性が泣き、一体何を老人に告げているのかという疑問にさいなまれて、失礼と思いつつ私は、その場を動く事ができなかった。しかめ面を作ると、ぼんやりと、まるで夢でも見るかのように、二人の様子を眺めていた。
 やがて、女性は何事かを老人に告げ終わったのだろう。きゅっと口を固く結ぶと、緩やかな動きで頭を下げる。挨拶だろうか。
 そして――

 「あ!」

 私は思わずそう叫び、駆け出してしまっていた。女性が頭を下げ終わったかと思うと、ふらりとその姿が揺らぎ、地面にぱったりと倒れこもうとしたからだ。
 しかし、数歩ほど駆け出してから、今度は私は、言葉を失ってしまう。
 倒れようとしていた女性が、ふわりと風に巻かれたかと思ったら、舞った地面の砂とともに消えてしまったからだ。
 人が消える? 私は白昼夢でも見ているのだろうか。
 「…………」
 言葉を失ったまま立ち尽くしていたが、老木の根元に腰掛ける老人がこちらを振り返り、目が合って、私は仕方なくそのまま彼のほうに向かって歩き出した。
 今しがた起こった事の正体を知りたかったからだ。もしかするとさっきのは、この老人が私一人だけに見せた、不思議なマジックショーなのかも知れない。

 「御覧になられたのですな。先ほどのを」

 穏やかな声と表情で、老人は歩み寄る私に声を掛けてきた。顔中しわしわで、何歳なのか検討もつかない概観の人だったが、不思議と彼の瞳には力があった。見つめたまま、すぐには目が離せない。
 「い、今の女性は?」
 木の根元まで辿り着き、さきほど女性が佇んでいた位置で足を止めてから、私は老人に聞いた。きょろきょろとあたりを見回してみるが、女性の姿はもちろんあるはずもなく、マジックの仕掛けになるような物すら無かった。しかめ面になる私に、
 「あの女は、私に頼みごとを託していかれたのですわ」
 少し、寂しそうな声で老人は言った。
 「頼みごと?」
 「もういかなければならないから、後の事は頼む、と。ここに全部残して行くからとね」
 「……?」
 そうなんですか。と言って、私は老人に向かって呆けた声で返すしか出来なかった。彼の言葉の意味するところが、少しも理解できず、不可解だったからだ。
 そんな私の心情を悟ってくれたのだろう。老人は優しく微笑むと、再び口を開いた。
 「あの女は、蝉の化身なのですわ。この木で生まれ、この木の根に守られて育った」
 「蝉?」
 私の言葉に、老人は穏やかな顔で、そう、蝉ですわ。と呟く。
 何かの比喩なのだろうか。それとも、本気で言っているのだろうか。彼の紡ぐ言葉が、ますます分からなくなり、私は混迷を深めた。この老人は、ひょっとしたら呆けてしまっているのではとさえ思う。だが、呆けているにしては、彼の瞳には爽やかな光が満ち、彼の周囲には、仙人のような雰囲気が漂っている。
 「そうしてあの女は土から這い出し、短い夏を終えた今、新しい命をまた、この木に宿したらしい。だから、よろしくと私に頼むのですわ」
 混乱している私に気付いているのかいないのか。ぼんやりとした声でそう言うと、老人はふうっと視線を空へ向けた。つられて私も視線を上に上げる。
 秋らしい、天井の高い空が広がっていた。地上では夏と秋がせめぎあっているが、空の上はもう秋の天下だ。
 季節は巡る。
 むせ返るような灼熱の夏は去り、季節のバトンは、人々が気付かないうちに、秋へと受け渡されていたらしい。
 「毎年このように、私に頼みごとを残して上へと上っていく女達を見送るのですが、その度に気持ちが沈みますわ」

 ――命短き者は、儚く脆いものですなぁ。

 最後の老人の言葉は、直接耳に届いたと言うよりは、頭の中に響いたような感覚だった。
 はっとして私は空を見上げていた視線を、再び老人に戻そうとした。
 「え……」
 だが、老人はもう、木の根元には腰掛けてはいなかったのだ。音も無く、姿を消してしまった。
 しばらく私は、呆けたまま立ち尽くしていた。何かに化かされたような、なんともいえない感覚が胸に満ちていく。
 『蝉の化身』と、老人は、倒れて消えた女の事をそう表現した。その女達に頼みごとをされるというあの老人は、一体何者だったのだろうか。
 「――――」
 ふと、足元に目をやると、そこには蝉の死骸が一つ。ころんと、寂しげに空を見上げて転がっていた。この木で生まれ、この木で育った蝉は、短い夏を終えた後、最後もまた、この老木に抱かれて、眠っていったのだろうか。

 それは、九月の初旬の事だった――



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