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第4章「決壊」




6.

 イリスピリア城は広さの面において、世界屈指の規模を誇る城である。行政機関以外に二つの学園と広大な国立図書館、更に魔道研究機関までをも備えるのだから当たり前の話であるが、初めて城を目にした者は皆口を揃えてこう言う。「イリスの街に、もう一つ町があるようなものだ」と。
 当然の事ながら、不慣れな者は城の構造を把握するのに苦労する。長年通いなれた学園の生徒達ですら、学園エリアには詳しいが、それ以外のエリアに関してはさっぱり明るくないというのが常であるらしい。だから、たった一、二週間城で過ごしただけのシズクが城のほとんどを知らないのは別に不思議な事でも何でもないのだ。



 夜の城というのは、何度見ても不気味なものである。等間隔に設置されたランプが、温かなオレンジ色の光を供給してくれているが、それだけではおどろおどろしい雰囲気を払拭するまでは至っていない。少しだけ早足であるために、反響を繰り返す足音もせわしなかった。魔法学校のローブを纏った少女が二人、王家の居住エリアをうろちょろしているのだ。目立つことこの上ない。見回り中の警備の者に見つかってもおかしくなかったが、幸か不幸かそれはなかった。
 (…………)
 不安そうな瞳で、シズクはすぐ目の前を歩く金髪の少女を見る。部屋を出てからというもの、ミレニィは一切口を開こうとしないし、こちらを振り返る事もなかった。だが、その歩みだけはしっかりとしている。金色のふわふわした頭髪が、規則正しく上下運動している様子をぼんやりと視界に入れつつ、シズクは小さなため息を零した。彼女がどこへ向かうのか、シズクには皆目検討がつかない。だが、ミレニィが行き先をしっかり見定め、そこへ確実に向かおうとしている事だけは分かった。
 前述の通り、シズクはイリスピリア城の構造を把握するにはまだ至っていない。部屋を出てからしばらくは、何とか今が城のどの部分か理解できていたが、数分歩いた所でそれもさっぱり分からなくなった。分かる事といえば、この場所に全く見覚えがないという事と、自分達が地下へ下りているのだという事くらいだ。先程からしばしば、ミレニィは階段を下りている。いくらか下りた辺りから窓も見当たらなくなってきたので、ここは地下なのだなと推測された。人の気配は全くと言ってよい程感じない。ひょっとしたらここは、普段は人が立ち入らない場所か、立ち入りを禁じられている場所なのかもしれない。
 「…………?」
 階段をまた一つ下りきった時だった。悶々と考え続けるシズクの目の前で、ぴたりと、それまで迷いの無い動きで歩いていたミレニィが、突然歩みを止めたのだ。ミレニィに習って立ち止まると、辺りをぼんやりと眺めてみる。
 これより地下に続く階段が見当たらない事から、ここが城の最下層なのだろうと思った。そんな所まで連れてこられた事に驚きつつも、前方を見据える。最下層と思われるここは、ちょっとした広場くらいの空間になっており、その先の行き止まりには仰々しい装いの扉が鎮座していた。それほど大きいわけでもない、普通の部屋に用いるよりは大きな灰色の扉。上の方にイリスピリア国の紋章が刻まれ、それを取り巻くように繊細な線がいくつも走る。美しい扉だった。だが、一目でこれは、尋常なものではないと知れた。
 (これは……)
 眼前に広がる光景に、シズクは思わず固唾を呑んだ。
 灰色の扉には、何重にも渡って鍵と鎖がかけられており、更にはその扉を発生元として冷たい魔力まで感じられるのだ。間違いない、封印のようなものが施されているのだろう。本来出入りするための構造物であるはずの扉が、その役割を完全に放棄してしまっている訳だ。侵入者を頑なに拒んでいるように、威嚇とすら思えるような格好で佇んでいる。そんな扉で守られた部屋に、一体何があるのか。想像もつかない。
 眉をしかめて、不審極まりない扉と睨めっこしていたシズクだったが、ふと、ミレニィがこちらを振り返った事で、視点をそちらへと持っていく。持って行って、今度は間抜けに目を見開いた。

 「私……何でこんなところに」

 部屋に訪ねて来た時の、何処を見ているのかよく分からない虚ろな瞳はもうそこにはなく、ミレニィの瞳には生気が戻って来ていたからだ。ぽかんと不思議そうに、シズクと辺りの様子を交互に見渡している。
 「……覚えてないの? ミレニィ」
 シズクの質問に、ミレニィは困惑気味に頷いた。
 「わからない。何も覚えてない……目の前が白くなって……」
 瞳を泳がせつつそう呟く。
 突然の彼女の変化に、毒気を抜かれたような気分になるシズクだったが、事態を整理する余裕はまだあった。要するにミレニィは、正気に戻ったという事なのだろう。紅いクリスタルから感じられた禍々しい魔力も、ここにきて突然消えてしまった事からも、そう考えるのが妥当であろうと思える。
 それだけ考えると、シズクは肩の力が抜けていくのが感じられた。ミレニィの不審な行動の原因は気になったが、とりあえず彼女自身が正気に戻ったのだ。何かが起こったらどうしよう。という心配はひとまず無くなった訳だ。
 「私……どうして」
 「大丈夫だよ」
 未だ混乱し続けるミレニィに、シズクは優しくそう言うと、淡く微笑みかけた。
 そう、もう大丈夫。
 笑顔を向けられた事で、ミレニィも少しずつ落ち着いてきたようだった。強張っていた口元は緩み、比較的しっかりとした瞳でシズクを見つめてくる。
 今ここが何処だかはさっぱり分からないが、もと来た道を逆にたどれば、知っている地点には出るだろう。再びミレニィがおかしくなってしまう前に、この場を離れた方が良いと思われた。そうしてその足で、魔法学校の教官に相談を持ちかけよう。彼女のネックレスがおかしい事はもはや明白で、疑いようのない事だったからだ。
 「とりあえず、ここから――」
 そう言って、シズクはミレニィに右手を差し伸べようとした。だが、その手をミレニィが取る事は、叶わなかった。
 刹那。
 ぞくりと体中に悪寒が走り、本能的にシズクはミレニィに覆いかぶさって、転がっていたからだ。



 「ぇ……」



 耳元を困惑気味のミレニィの声が撫でる。今何が起こったのか、彼女は理解が出来て居ないのだろう。咄嗟には分からないかもしれない。今、彼女に身の危険が迫っていた事を。
 それまでミレニィが居た場所を、何かが薙いだのだ。空気が一瞬だけ金切り声を上げたのを、シズクは確かに聞いていた。
 「――――っ!」
 右肩に鋭い痛みが芽生えるが、今はかまっていられない。即座に体勢を立て直して、呪を唱えようと意識を集中させる。しかし、それも次の瞬間には無駄な事であると知れた。



 「残念だったわね」



 チャキン。と、妙に涼しげな音がすぐ耳元で聞こえる。目で確認しなくても、首筋に感じる物凄い殺気から、音の発生元が何であるか理解できた。剣だ。鋭い切っ先が、シズクのすぐ喉元で、まるで焦らすようにして停止している。それはぎりぎり、肉を裂かない程の限界の距離で。
 「…………」
 目の前で驚愕の表情を浮かべるミレニィが気になったが、こうなってしまってはどうにも出来ない。シズクは観念して唱えかけていた呪を完全に放棄すると、両手を挙げて降伏を示すと同時に、慎重な動きで殺意の元を振り返った。
 振り返った先で、視界に赤が飛び込んでくる。自分に向けられている剣は、刀身から何から全て、血のような赤だったのだ。装飾の施された、戦闘に使うというよりは儀式や飾り物に使われるタイプの剣。だが、見た目とは裏腹に、そこから放たれる殺意と魔力は相当な物だ。
 呼吸を落ち着かせながら、シズクはぬらぬらと光る刀身の、先に居る人物へゆっくり視線を注ぐ。剣をシズクに突きつけながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべる妖艶な女。燃えるような赤髪に、釣り上がった瞳は魔族(シェルザード)である事を示すあの青色を称えていた。ジュリアーノを発つ前日の晩、シズクを襲った女に間違いが無かった。
 「ルビー」
 全力で睨みつけながら、シズクは赤髪の女の名を紡いだ。先日、クリウスから教わったものである。
 シズクに名前を言い当てられて、ルビーはいささか目を見開いたらしかった。だが、それが動揺へ転じる事などない。すぐに表情を元に戻すと、あの時と同じく、嘲るように口端を釣り上げていた。
 「……クリウスね。最近ちょろちょろと変な動きをしていると思ったのよ」
 フフッと不適に笑う。まるで、クリウスの裏切りなど彼女にとってどうでも良い事のようである。
 「…………」
 一方のシズクはというと、ここに来てようやく肩の痛みが現実味を帯び始めていた。そこにもう一つ心臓が出来たみたいに、どくどくと波打つ。ミレニィをかばって跳んだ時に、この紅い剣がシズクの右肩を裂いたのだろう。
 「っ!? 血が!」
 後方からミレニィの悲痛な叫びが聞こえる。あいにく視線はルビーから外せないため、目で確認する事は出来なかったが、ぬるりと妙な感触が肩を伝っている事からして、出血しているのだろうと思った。幸い、深くはない。エレンダルの城で、リースが自分のせいで負った傷に比べれば軽いものだ。
 痛みが、忘れかけていた緊張感を思い出させてくれる。ついこの間まで自分が包まれていた、命を懸けた戦闘の雰囲気。イリス魔法学校に編入してから、自分はその世界とは別れを告げたものだと思っていた。だが、全くもってそんな事はなかったのだ。シズクがティアミストの娘である限り、そして、この全容の知れない事件が解決しない限り、決して完全な平穏など戻ってこないのだろう。
 「怪我してるのよ!? ねぇ! 早く手当てを――」
 「煩いわよ、お嬢ちゃん。一度この子に助けられた命を手放したいの?」
 視線だけを後方のミレニィに向けて、ルビーは言う。それほど大きい声ではなかったが、人を怯ませるのに十分な迫力をもった響きだった。それでなくても、その鋭い眼光に当てられては普通の者なら身動きなど取れなくなってしまうだろう。
 ルビーの狙い通り、ミレニィはすくみあがったようだ。ひっと小さな悲鳴が耳に届くと、それきり何も物音がしなくなる。その様子に満足したのだろう。再びルビーの視線がシズクに戻ってくる頃には、また例の不適な笑みが彼女の表情に戻ってきていた。
 「安心して。殺しはしないわ、シーナ。まだ、ね」
 「シズク・サラキスよ。……人の名前は正しく呼びなさいよね」
 降参のポーズを取りつつも、シズクの唇から飛び出る言葉は反抗的なものだった。シーナ。その名前を聞いただけで、虫唾がはしる。一体彼女が何だというのだ。自分は一体何をしたというのだ。彼女と自分とを結びつけて見られるのが、今はたまらなく嫌だった。
 「貴方の名前なんかに興味は無いって言ってるでしょう。でもそうね……最後なんだから特別に覚えてあげる事にするわ」
 冷たい笑顔で、ルビーが言い放つ。それと同時に、戦慄が走る。まだ殺さない。そうは言っても、十中八九、ルビーは自分を殺すつもりなのだろう。心拍数が一気に上昇し、呼吸が苦しくなった。きっとそれは恐怖から来るものなのだろう。だが、怯んではいけない気がした。相手に自分の恐怖を悟られないよう、シズクは無我夢中でルビーを睨み続ける。
 「面白いものを見せてあげる」
 実に楽しそうに瞳を薄め、ルビーはそれまでシズクの喉元に向けていた殺意を弱めると、視点を斜め前方、すなわち例の謎の扉へ向かって据える。あの扉の先に、ルビーの言う面白いものとやらは眠っているのだろうか。
 そんな事をぼんやり考えていたシズクだったが、

 「この扉を開けなさい、シズク」

 ルビーが口走った言葉の内容に、耳を疑った。夜の湖面を思わせるブルーの瞳をこちらに向けて、ルビーはそんな事を言ったのだ。
 「?」
 シズクは、あからさまに怪訝な表情を浮かべて目の前で不適に微笑む女魔族(シェルザード)を見る。扉とはもちろん、目の前に鎮座する仰々しい封印が施されたこの扉の事だろう。だが、これを開けろとはどういう事だろう。これほど厳重な封印が施されている扉を開けられる技術など、シズクはもちろん持ち合わせていない。ルビーとてそんな事くらい容易に予想がつくだろうに……。
 「魔力は全然足りてないようだけど、貴方、仮にもティアミスト家の人間なんでしょう? だったらこの扉、開けられるはずよね」
 いいから開けなさい。有無を言わさない響きでもってルビーは告げる。真っ赤な刀身は、それに答えるかのように怪しく光を反射していた。
 意味が分からない。ティアミスト家だから開けられる扉。そうルビーは言うが、そんな、誰かでないと空けられない扉など、聞いたことがなかった。
 だが、このままここで突っ立って居ても状況は悪くなる一方だろう。ため息をつきつつシズクは、ルビーが促すままに扉の方へと近づいていった。それまで上げていた両腕を下ろすと、一際鋭い痛みが右肩に走る。思わずしかめ面をしてしまったシズクだが、右肩の様子を自分の目で確認して納得する。ローブの色がその部分だけ変わるほどに、出血しているのだ。
 扉に向かう途中で、泣き顔のミレニィと目が合ったが、どういう顔を向けたら良いのか分からず、曖昧に微笑むのが精一杯だった。ルビーが出てきた以上、明らかに今のこの状況は自分のせいで作り出されたものだ。ミレニィを巻き込んでしまったという事なのだろう。ずきりと、肩ではなく胸に痛みが走るのが分かった。自分が居る事で彼女達に迷惑がかかるのだとしたら、自分はここに居ない方が良かったのだろうか。
 (馬鹿シズク……今は、そんな事を考える時じゃないって)
 心の中でそう言って自らを叱咤してから、シズクは扉のまん前付近で立ち止まる。顔を上げて全体を見渡すも、ヒントになりそうなものは何も見当たらない。灰色の扉は何も語らず、ただ頑なに侵入者を拒んでいるようであった。シズクが何かをしたところで開きそうには無い。だが、開けねばならないのだろう。どうにかして。
 (――――?)
 そんな時だ。ふと、鎖だらけの中に、あるものを見つけて、シズクは目を見開いた。たくさんある鍵の中に、一つだけ鍵ではないものがあったのだ。獅子の形をした、石造りのエンブレムのようなもの。鍵穴のようなものはもちろん存在せず、ただ鋭い目を扉の中へ侵入しようとする者達へと向けていた。
 「…………」
 扉の事など知らないし、開け方も分からない。ティアミストの魔道士達なら知っていたのかもしれないが、シズクは生憎当時の記憶を失っていた。仮に覚えていたとしても、当時幼かった自分にそんな重要そうな事項を教えるとは思えなかったが。
 しかし、獅子を視界に入れて、漠然とシズクは悟ってしまっていた。知らないはずなのに、分からないはずなのに、体は意志とは無関係に動き出す。左手の人差し指で、右肩の傷口付近をなぞる。一瞬だけ鋭い痛みが走ったが、すぐに気にならなくなった。
 「いい子ね……」
 ルビーの嬉しそうな声が聞こえる。



 ――『豊饒の鬣(たてがみ)、金色になびく。空を宿す眼光、国を律する。イリスピリアの守人よ、覇者の証をその身に受けん』
 鍵になる言葉ですよ。



 耳鳴りのように、そんな言葉が聞こえた。否、聞こえた気がしただけで、それは単に頭の中で響いただけだ。聞き覚えなど無いのに、随分昔に聞いた気がして、わけの分からない切なさが胸を突く。奇妙な感覚がシズクを支配し始めていた。
 シズクはゆっくりと扉へ接近していき、例の獅子のエンブレムを眼前に据える。そして、自身の血が付いた指で、獅子の舌の上を撫でたのだった。



 ――すなわち、貴女の血。イリスピリアの覇者たるイリスピリア一世の血脈を受け継ぐ者の血を、イリスピリアの守人たる獅子に捧げると良いのですよ。今はその必要はないけれど、いずれきっと貴女がそれを担う日が来るわ。だからよく覚えておいて、シーナ。



 頭の中で響いた言葉の内容にはっとして、シズクは我に帰る。今自分は何をしたのだろうと咄嗟に左手を見るが、指先に少しばかり付着した血液はもうほとんど固まりつつあった。
 「…………」
 シーナ。
 何故この名前はここまで自分に付き纏うのだろう。外見は酷似しているかもしれない。だが、自分は古の勇者シーナなどではないのだ。それなのに何故、その名で呼ばれてしまうのだろう。
 様々な事がシズクの頭の中を乱したが、それも長くは続かなかった。微量の魔力の流れを感じた直後には、目の前にある扉の鍵と鎖が一斉に外れていったのだ。



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