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第4章「決壊」




9.

 「魔力の、世界?」

 パリス老人の言葉を鸚鵡返しのように呟き、その一方でシズクの頭の中は未だに混乱し続けていた。
 魔力とは大なり小なりこの世界に生を受けたものならば誰しもが持っているものだ。魔道士や呪術師が術を使う要になるものであり、それ以外にも幅広い分野で必要とされる能力の一つである。頭ではそんな知識がぽんぽん浮かんでくるが、その知識と、今のこの状況とを結びつけて考えられるかというと否だった。
 シズクの混乱を悟ったのだろう。パリス老人は慈愛のこもった笑みを浮かべると、小さく息を吐く。
 「――あの球体に、触れたのでしょう」
 「球体?」
 言われて浮かんできたのは、先ほどの殺風景な部屋に設置された、青い、魔力を宿す水晶玉の事だった。禍々しくは無い。むしろあれは神聖な何かであると本能的に悟った。だが、そこから発せられる魔力の奔流は普通ではなかった。
 「あれはね、イリスの結界を形作るための、いわば装置のようなものですよ。いつ作られたのかは分からない。神から与えられたものか、あるいは、魔力に最も精通する者達が残した遺品か……」
 「…………」
 「数年に一度、結界の張りなおしの儀式が行われる折に、魔力が特に優れた者があれに触れ、結界に魔力を注ぎ込むのですよ。並大抵の魔力ではいけないのです。それ相応の者が触れねば、あの球体はその者の魔力どころか、精神までもを引きずり込んでしまうから。ここは、そのようにして、引きずり込まれた者のみが見ることが出来る世界」
 パリス老人が落ち着いた口調でそう告げてくる。言われてシズクは、なんとなく今のこの状況を理解し始めていた。
 精神は魔力を使役するのに必要なもの。肉体と常に共にあり、決して離れる事はないもの。離れてはいけないものだとされている。だが、時として不幸にも肉体と精神が切り離されてしまう状況が生じてしまう。今のように。
 要するにシズクは、あの球体に触れた折に、魔力を吸い取られきったついでに、精神までも一緒に引きずられてしまったという事だ。どれほどの魔力が結界を構築するのに必要とされるかは測りかねるが、シズクの魔力などでは到底及ばぬ程なのだろう。
 魔力の世界。とパリス老人はこの場の事をそう表現した。ここは、結界を構築するための魔力が溢れる場所。そこに精神ごと連れてこられてしまったという事だろう。
 途方も無い話だったが、辻褄は合う。だが、もし本当にそうなのだとしたら、これはシズクにとって由々しき事態でもあった。

 ――最も残酷な死に方って、何かしら?

 先ほど、ルビーとすれ違った時、彼女にかけられた言葉を思い出す。
 肉体から精神が抜き取られた状態が長く続けばどうなるか。そんな状態になった人間自体、数える程しかいないだろうが、彼らがどうなるかは記録として一部の書物に残されている。
 『精神が失われた肉体はやがて死を迎え、朽ち果てていく。逆に精神は肉体から放たれて半永久的に残り、悠久の時をさまよい続ける事になる。まさにそれは、生きながらの死と呼ぶのに相応しい』
 昔、授業で習った一文を思い出してシズクの背筋に冷たいものが舞い降りていた。あの部屋に置いてきたシズクの肉体が死を迎える前にここから抜け出さなければ、シズクもおそらく、そうなってしまうのだろう。
 「…………」
 「そう、あまり時間はありませぬぞ。だがしかし、焦りは禁物です」
 一気に青ざめるシズクの隣で、飄々と言ったのはパリス老人だった。この状況下で、そんなに明るい声を出せる事に呆けてしまうシズクだったが、ふと、ある一つの事が引っかかり眉をひそめた。
 パリス老人はシズクと共に、彼の言うところの『魔力の世界』に存在している。ここは、魔力と同時に精神まで引きずり出された者のみが、来る事が出来る場所ではないのだろうか。例の秘密会議の夜、彼に関する謎は一気に深まった。だが今、更にそれが増していくのがシズクの中で確かに感じられる。パリス老人、彼は一体、何者なのだろうか。
 しかめ面のシズクの真意を悟ったのだろう。老人はくすりと笑い声を零すと、若葉色の瞳を優しく細めていた。
 「私? 私にはもう、時間はありませぬよ。私の肉体はとうに滅んで無いのですから」
 「――――」
 重々しい内容を告げるにしては、彼の口調は軽やか過ぎた。だが、あまりの内容に、シズクは息を呑む。そうして目を見開いて、目の前の老人の姿を見た。悲しそうでも、辛そうでもない。ただ悠々と佇んでいる。悲哀という感情は、既に彼の中から欠落してしまっているのだろうか。
 「何故? と問いたそうな顔ですな」
 絶句しているシズクに苦笑いを向けると、パリス老人は少しだけ疲れたように息を吐く。そうして、徐にイリスの町を見渡し始めていた。
 つられてシズクも、眼下一杯に広がるイリスの町を見る。夜も更けてきていたため、最も賑わっている時間帯に比べると若干町の光は少なめだったが、それでも人の温かな生活のしるしがあちこちに見て取れた。『光の町』イリス。こんなに広大で、多くの人が暮らす町を、結界は守り続けていたという事か。そう考えると、ふわりと、場に満ちる魔力が僅かに優しく動いた気がした。
 「事故でも、陰謀でもありませぬよ」
 パリス老人の言葉が再開されたのは、そんな時だった。イリスの町へ向けていた視線を引き戻すと、シズクは目の前に佇む白い老人を見る。その時には彼の視線も、シズクの方へ戻ってきていた。
 「私は自分自身の意思で、望んであの球体に触れたのですよ。そうしてイリスピリア城内をさまよう、亡霊になった」
 「どうして……?」
 考える間もなく、シズクの唇からはそんなかすれた声が飛び出していた。
 「どうしてそんな事を?」
 精一杯青い瞳を見開いて、問いただすように老人の顔を見る。
 何故彼は、そんな事をしてしまったのだろうか。永遠の命とは訳が違う、文字通りこれは、生きながらの死であるはずなのだ。生きる事も出来なければ、死ぬ事も出来ない。望んでそんな存在になる者など、この世に存在するはずがない。
 「姉を守ってやれなかった分、せめて姉の血を受け継ぐ者達を見守りたかった」
 「姉?」
 「そう、たった一人のかけがえの無い姉。シーナ」
 え、とシズクが声を上げたときにはもう、パリス老人は笑顔の絶対防御で、これ以上の質問を拒む体勢を作ってしまっていた。悲痛な顔になるシズクをなだめるように、彼はその大きな右手で頭を撫でてくる。頭の皮膚を通して伝わってくる彼の体温が、無性に切ない。肉体はここには無い。自分は今、精神だけの存在であるのだ。だからこの体温も大きな手の感触も、全てはかりそめに過ぎないのだろう。頭ではそう分かっても、彼がもうこの世には存在しないのだという事が信じられなかった。
 「けれども、見ているだけでは、結局己の無力さを痛感させられただけでしたな。いくら魔力と近しい存在になったところで、自分に出来る事はあまりに少ない。だから今……貴方の力になる事が出来そうで良かった」
 頭を撫でるのをやめ、ぽんと、彼はシズクの両肩に手を乗せてくる。そうしてまるで、幼子に親が何かを諭すような目で、こう告げてくる。
 「本当はもっと良い道があるのやも知れませぬが、私から貴方へは、二つの選択肢しか与えられませぬ」
 「選択肢?」
 そう、選択肢。と言ってからパリス老人はきらりと瞳を輝かせた。知性の光だ。
 「一つは、私から貴方に敢えて何もしないでいる方法。このままここで己の精神が擦り切れるまで、永久の時をさまよい続ける道」
 このままの状態が続けば、やがてシズクもパリス老人のようになるのだろう。シズクには、この選択肢しか残されていないものだと思っていた。だが、パリス老人は、二つ目の可能性を自分に与えてくれるのだという。
 「そして二つ目は――私が貴方に対して唯一出来る方法。イリスを包む、この結界を完全に張りなおす道です」
 パリス老人が告げた言葉に、シズクは一際大きく目を見開いていた。
 (結界を、張りなおす?)
 文字通りそれは、そのままの意味なのだろうが、まったく不可解だった。結界を張りなおしたところで、シズクに一体何が起こるのだと言うのだろう。そもそも結界の張り方など、シズクは知らない。アンナやナーリアならそういうのに詳しそうだが、てんで学術の面で駄目だったシズクには専門外もいいところである。
 渋い顔になるシズクに、微笑ましいものを見つけたのだろうか。パリス老人は少しだけ笑いを零した。
 「あの部屋の球体は、この国の結界を張りなおすための物ですよ。数年に一度の儀式の折、あれに魔力を注ぎ込む。それだけで結界は見事に再構築される。触れた者から、結界を形作るのに必要な魔力を吸収する事があの球体の機能なのです。だから、結界を形作るのに不十分な魔力の者が触れると、精神までひきずりこまれるのです」
 そこまでは納得できる。あの部屋にあった球体に触れたせいでシズクはここへきてしまったのだから。
 「では……例えば、引きずり込まれた後で結界を張るのに十分な魔力を、今ここで放出したらどうなるか……十分な魔力を得た結界は再構築され、それと同時に貴方の精神は魔力にはじき返されて元の身へ戻れるのではないですかな」
 「そんなに上手く行く訳ないです! そもそも、結界を張るのに不十分だからわたしはここに来たのでしょう? だったら、ここから抜け出せるほどの魔力なんて、放出できるはずは――」
 「ティアミストに例外は無いと、言ったはずですぞ」
 言われてシズクは、びくりと肩を震わせた。躊躇いがちに老人の顔を見上げると、彼はいつになく真剣な色をその瞳に乗せている。決して冗談などで言っている訳ではないのだと、シズクは思った。
 先日の夜、彼は確かに語っていた。シズクの中には、大きな魔力が眠っているのだと。シズク自身が気付いていないだけで。それは以前、リオにも言われた内容だった。だが、シズク自身としては、まったくそんな気がしない。自分は魔法より棒術の方が得意な、何の変哲も無い魔道士見習いのシズク・サラキスなのだ。そうであるはずだったのだ。
 「魔力を支配するのが精神。それを制御するのが肉体の役割。ここは魔力と精神が極めて近い場所。そして、精神と肉体が完全に切り離された場所でもある。魔力の枷を外すのに、ここより相応しい場所など無いでしょう」
 ただし。とパリス老人は突然厳しい顔つきになって言う。
 「難点が一つ。この方法は正攻法ではないのです。無理矢理と言ってもいい。ですから貴方の強大な魔力を呼び覚ませたとして、その後、それが肉体に与える影響については、私にはまったく予想が出来ない。最悪の話、耐え難い苦痛が、貴方を襲うかも知れない」
 「耐え難い、苦痛?」
 言われて背筋に冷たいものが走り抜けるのが分かる。絶えられないほどの苦痛とは一体、どんなものなのだろうか。痛い思いなら今までに何度か経験した。旅の間でも擦り傷切り傷はしょっちゅうだった。だが、命に関わるような怪我や苦痛など味わった事が無い。痛みとは違うが、昔の自分を思い出した時の悲しみも、壮絶ではあったが耐えられない訳ではなかった。
 「生半可な気持ちでは、魔力の暴走を引き起こし、貴方の身体はおろか、この城にまで甚大な影響を及ぼしてしまうかも知れない。だから私は、貴方に問うのです」
 ぴっと人差し指を立てると、パリス老人の指先はシズクの額に向いた。神妙な面持ちでそれらを見てから、シズクは再び老人の顔を見る。
 「…………」
 剣技と英知に恵まれた偉大なる王、パリス・ルルフォス・ラグエイジ・イリスピリア57世。文献にはそう、彼の事が記されている。心優しく、公平な賢王。まさにその通りだと、シズクは胸中でそんな事を零した。
 「このまま現実から逃れ、悠久の時を過ごしますか? それとも……現実を見据え、苦しみに耐えつつも、生きていたいと望みますか?」
 まるで、最後の審判を下されているような心境だった。それまで聞いた中で最も硬質な響きを宿すパリス老人の声。彼に示された道は、たった二つだ。どちらも共に、茨の道である事は間違いないだろう。
 「わたしは……」
 シズク自身は、一体どうしたいのだろうか。自分に問いかけるも、心の中はごちゃごちゃで、荒波が渦巻いているようだった。そこから返事はなかなか返って来ない。
 このままここで、精神だけの存在になって朽ち果てていくのもぞっとするほど恐ろしかったが、現実に戻ったところでそれは、自分にとっていい事であるとは思えなかった。シズクにとっての現実は、気が重くなる問題で埋め尽くされている。無事に戻れて、パリス老人が言うような耐え難い苦痛が襲ってきたとして、果たして自分は自分のままでいられるのだろうか。自分というものを手放してしまったりはしないだろうか。その時自分は一体どうなってしまうというのだろう。

 ――水神の予言。イリスピリア王達の思惑。救世主。王家の影。ティアミスト家。シーナ。

 様々な事が頭の中に浮かぶ。イリスピリアにとって、自分は厄介な存在であるのだとしたら、このまま自分は居なくなってしまった方が良いのかも知れない。
 (それで全てが、丸く収まるんじゃないのかな……)
 考えれば考えるほどに、ずるずると心の暗い部分に沈んでいくのが分かった。ネガティブな方向に、結論が傾きかけている。結局自分は、楽な方向に逃げたかったのかも知れない。そんな事を思って、ゆっくり目を閉じたときだった。

 (――――)

 閉じた瞳の先に、様々な人達の顔が、浮かんだのだ。
 オタニアで別れっぱなしになっているアンナにナーリア、カルナ校長。帰ったら顔を出せと言っていた魔法屋のノートルの厳つい顔も忘れられない。イリス魔法学校のクレアにジャン。……ミレニィはあの後無事でいるのだろうか。ルビーに酷い事をされていないだろうか。リサ王女とも、結局あまりお近づきにはなれていない。
 たくさんの友人達が居た。まるで走馬灯のように、それまでの数々の出会いが頭の中を流れていく。そして――

 (セイラさん、アリス、リース)

 それらの名を心の中で呟いて、じわりと涙がこみ上げて来るのが分かった。
 世界がどうのとか、王家やティアミスト家がどうのとか、そういう難しい問題とどのように関われば良いのか、自分には未だによく分からない。けれども、出来る事ならもう一度、彼らに会いたいなぁと。暗雲立ち込める心の奥底から、そんな声が聞こえてきたのは、紛れも無い事実だった。

 「……答が、出たようですな。いや、そもそも初めから、決まりきった答だったでしょうかな」

 涙目のままぱっと目を開くと、老人の顔からは裁判官のような厳しい表情は去っていた。代わりにそこにあったのは、慈愛を称えた若葉色の瞳に、柔和な笑顔だ。それきり黙り込むと、彼はシズクの方へ向けたままにしていた人差し指を、彼女の額に完全にあてがった。そう指示された訳ではなかったが、何故かそうした方が良い気がして、シズクは自然に再び瞳を閉じる。
 「――――」
 ふらりとした浮遊感がやってきて、胸の中からちりちりと熱い何かが湧いてくるのが感じられた。更に不思議なのは、瞳を閉じているというのに、シズクには眼下のイリスの町が鮮明に見えていたという事だ。視覚という概念は精神だけの存在であるシズクには通用しないものかも知れない。イリス上空をすうっと流れ星のように飛んで、光り輝く町を眺めて居ると、先ほども感じた柔らかな魔力が身体を撫でるのが分かる。イリスに張り巡らされた結界には、優しい魔力が満ちていた。これを張った人物は、本当にイリスを愛していたのだろうと思える。

 『13年前、最後にこの結界を張ったのは、貴方のお母様ですよ。シズクさん』

 耳元をパリス老人の声が通り過ぎた。ちくりと一瞬胸が痛むが、ああだからかと心のどこかで納得する。この優しい魔力は、母のものなのだ。13年もの長い間、イリスを守り続けていたのは母の残したものだったのだ。

 『レナにマルク、アイウェン、セリア、レヴェン……キユウ。一人ぼっちの500年ではありませんでしたよ。傍らには、ティアミストの魔道士達が居てくれた。そして、シズクさん。貴方が最後で、本当に良かった』

 顎を伝った涙が、雫となって零れ落ちたのと、彼が言ったのとはほぼ同時だった。涙は、暖かな光が包む、イリスへと静かに落ちていく。だが、涙の行く末を見届ける前に、シズクの意識は真っ白になって途切れていた。






 その晩、イリスの町には流星群のようなきらめく光が、幾筋も落ちた。それを目にしたイリスの住民達は、口々にこう言ったものだという。
 「『星降り』なんて……あぁ、懐かしいわね。前に見たのは10年以上昔だったかしら――」



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