追憶の救世主

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第4章 「乙女の消える町」

9.

 板張りの床に、不自然なほど足音は、大きく響いた。その音以外に、耳を支配するものはない。
 静かな夜だった。
 耳を澄ませば、月明かりが降り注ぐ音が、聞こえてくるんじゃないかと思うほどに。
 今や雨は、その姿をすっかり潜ませている。夕方のうちに止んでしまったのだ。残念ながら、宿の主人の天気予報は大ハズレに終わったらしい。

 シズクを不安定にさせる雨は去った。
 それなのに……未だに胸がざわつくのは何故だろうか。

 「なぁ……」

 少し控えめな声が耳に届いた。気だるい沈黙が降りていた廊下に、張り詰めた何かが舞い降りる。
 その声に、シズクはうんざりした動きで足を止めた。

 「なによ」

 振り返り、そして、声の主であるリースに疲れた目線を向けた。視線の先で、彼は幾分怯んだように見えたのは、気のせいだろうか。
 窓から月明かりが漏れる。その明かりに照らされたリースは、酷く憂いを帯びていて美しかった。銀の光が、まるで彼をなで上げるかのようにその輪郭をなぞっている。
 見る人が見ればそれは、絶世の美しさと言うのだろう。あのクリウスのような派手な美しさは無いが、それとは対照的に、独特の落ち着いた光がリースを包んでいるように思える。タイプは違うが、彼がクリウスに並ぶ美少年というのは、変わらない事実だ。
 「…………」
 だが、シズクはそんなものはもう見飽きたとばかりにため息をつくと、面倒臭そうに、体ごと彼のほうに向き直った。
 美人は三日で飽きるとは本当の事かもしれない。昔の人は、上手い事を言ったものだ。……まぁシズクの場合、リースの内面も知っているからこそそう思うのだろうが。
 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、リースはなんとも複雑そうな表情でシズクの方を静かに見つめていた。

 時刻は夕食時が過ぎたくらいだろうか。さきほどまで食堂から聞こえていた談笑は、今はすっかり姿を潜めてしまっている。昨日まで居た騒がしい格闘家は、もうこの宿屋を出たのだろう。

 先ほどのクリウス来訪の一件の後、三人は今後の方針について話し合った。その結果、三人の意見は『罠と分かっていてもエレンダルの元へ行く』ということで万条一致だったのだ。
 そうと決まったら行動は早いほうが良い。向こうとしては、アリスはセイラとの大事な交渉道具なのだろうが、それでも彼女に何の危害も加えないとは限らないのだ。
 そういう訳で、今日のところはとりあえず寝て、明日の早朝にエレンダルの屋敷に向けて出発。というはこびとなったのだ。
 それが決定されたのが、つい先ほどの事。時間的には、まだ彼らと話をしていても良かった。
 しかし、シズクは昼間の疲れがあったし、それに、ゆっくり考える時間も欲しかった。だから、そのまま真っ直ぐ部屋に向かうことにしたのだ。
 ところが、である。
 そこでリースが、送る。と柄にも無い事を言ってこうして付いて来たのだ。
 男部屋と女部屋は、誰かが送らなければいけない程離れている訳でもなければ、部屋との間の廊下に、もちろん盗賊が出るわけでもない。普段のシズクならば、大地震でも起こるんじゃないか。とよからぬ心配をするところだったが、今回は違った。
 なんとなく彼がそんな事を言い出した理由が分かっていたからだ。二人きりになりたかったのだ。と言っても、二人きりの時間を楽しみたいとか、そう言うロマンチックな物と思ってもらっては困る。それだけは断じて違う。二人きりになりたい理由が、彼にはあったのだ。
 おそらく――

 「あいつとの間に、何かあったのか?」

 重い声が廊下に響く。意を決したような、そんな声色。
 やっぱり。とシズクは心の中で呟いた。
 リースは、昼間――アリス誘拐直後の事だ。その時のシズクの様子がおかしかった事が、クリウスと何か関係があると思っているのだ。その事を聞き出すために、わざわざ付いて来たのだろう。
 「……別に何もなかったわよ。アリスをあいつが連れ去った、ただそれだけ」
 そう言って、小さくため息をついてやる。しかしそれを聞いたリースは、怪訝な表情を余計に険しくしただけだった。
 「何も無かった? じゃあ何であの時――」
 「言わないで!」
 リースの言わんとしている事を、シズクは鋭い声で遮ってから彼を睨みつける。月明かりを浴びたシズクの瞳は、なんとも不思議な色を帯びる。シズクは、それを知っていた。彼女の思惑通り、その色はかなりの迫力を伴ってリースの目に映ったようだった。彼は一瞬たじろくと、動きを止めた。そして、言葉は無いまま、不満そうにシズクを見る。
 しばらく視線の攻防が続いたが、先にそっぽを向いたのはシズクだった。これ以上リースと目を合わせていたら、何かをぶつけてしまいそうで、不安になったのだ。
 胸が異様にざわつく。
 先ほどリースが言いかけた言葉の先は、予想が出来てしまっている。おそらくこう続くのだろう。
 何であの時泣いていたのか、と。
 どうして泣いていたかなんて、何故そんな事を知りたいのだろうか。

 「…………」
 気まずい沈黙が二人の間に漂い始める。両者とも全く動かず、何にも言葉を発さないのが、更に雰囲気を悪化させる要因となる。
 今思っても、リースの前で泣いてしまったことは軽率だった。この年になって涙なんて、人には見せたことが無かったのに――
 「……今日のお前、なんか変だぞ」
 沈黙を破ったのは、リースのそんな発言だった。彼にしては控えめな言い方だ。心配と畏怖がない交ぜになったような。なんとも形容しがたい声色だった。
 混乱しているんだろうな、とシズクは思った。
 急に怒ったかと思うと、次に顔を合わせたときには雨の降りしきる中、ボロボロに泣いていたのだ。訳が分からないというのが彼の正直な気持ちなのだろう。あるいは……心配してくれているのかもしれない。
 「言われなくたって分かってるわよ……」
 リースに背を向けたままで、シズクは声のトーンを落として言った。声は、静かな廊下に小さく響いたが、やがて消えてしまう。
 背中越しに痛いほどリースの視線を受けている事が分かる。居心地が悪い。早く自室に行ってしまいたい。気まずい静寂の中で、この場から逃れるための口実を必死でひねり出そうとしている時だった。
 「――魔族(シェルザード)」
 「――――!?」
 びくり、と。反応したくないのに、その単語にシズクの体は否応無しに勝手に反応を示してしまう。静寂を破ったリースの言葉に、体が一気にこわばった。
 「始まりは全部、魔族(シェルザード)からだ」
 リースの声は、いくらか怒気を含んでいるように思える。いや、実際に彼は怒っているのかも知れない。一歩、リースがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
 「俺達をオリアの街中で襲撃したのも魔族(シェルザード)」
 また一歩、リースが歩み寄る音が聞こえる。
 「セイラが急に態度を変えて、オタニアの魔法学校を訪れた原因も魔族(シェルザード)」
 更にもう一歩。もう彼の気配はすぐ後ろに感じられる。背中に突き刺さる視線が――痛い。
 「その後、俺達を相次いで襲撃したのも魔族(シェルザード)の仕業だろう?」
 魔族(シェルザード)。この単語を聞いたのは、今日で一体何度目なのだろう。聞くたびに気分がぐらつく。今まで自分とは程遠い存在だった彼らが、今は確かに、自分とごく近いところに存在している。
 「終いにはあいつら、アリスを誘拐して行きやがった」
 嫌だ。――聞きたくない。
 「一体目的は何なんだ? 奴らがエレンダルに与して、セイラの杖を狙う目的は?」
 「そんなの、わたしに分かる訳無いじゃない!!」
 たまらなくなって、とうとうシズクは大声で叫んだ。それと同時に、リースの方を振り返ってしまう。しかし、振り返って、これが一種の罠だと言う事を悟ってしまった。
 「あ――」
 リースと、思いきり目が合ってしまったから。
 怖いくらいに真剣な彼の瞳に射抜かれて、シズクは動けなくなってしまう。
 「……お前の旅立ちの理由も魔族(シェルザード)。そうだろう? カルナ校長に旅立ちを説得されたとき、魔族(シェルザード)の関与を知った途端、お前の顔色が変わったからな。それに、昼間お前の様子がおかしかったのもクリウスと会って、何かがあったからだろう? なぁ、お前にとって魔族(シェルザード)とは一体何なんだ? これだけは分かるはずだよな」
 堰を切ったようにそれだけ言い切って、リースは再び沈黙した。目線はシズクの方を向いたままで。考えなくても分かる。シズクの返事を待っているのだ。
 「…………」
 シズクは、リースの言葉に異論を唱える事は出来なかった。全部当たっている事だったし、とても誤魔化せそうな状況でもなかったから。
 このまま永遠にここで立ち尽くすことになるんじゃないかとさえ思えた。シズクにとっては、この沈黙がそれくらい長い時間に感じられたのだ。永遠に。そう、あの時の様に――



 「――助けられたのよ、昔。……魔族(シェルザード)にね」

 「え――」
 シズクの返答に、リースは少し驚いたように目を見開いた。こんなにも早く返答が返ってくるとは思っていなかったのかも知れない。それくらい、彼にしてみれば沈黙の時間は短かったのだろう。
 「命を助けられたの」
 ぽつりと言葉を零す。
 「だからわたしは、魔族(シェルザード)を探しているのよ。旅立ちの原因の一つはそれ」
 そう言ってシズクは、どこか遠くを見ているように目線をずらした。きっと、ひどい顔をしているのだろうとシズクは思った。旅立ってから……いや、物心ついた時から笑顔第一。を主義としていたシズクにとって、泣く事もそうだが、こんなに虚ろな表情はしてはならないものだったから。
 しかし、リースはシズクの言葉に対して怪訝そうに眉をひそめていた。納得できないといった表情だ。
 「……それなら……なんであいつに会って泣いてたんだよ。嬉し涙って感じには全然見えなかったぞ。あれはむしろ――」
 「そう。憎んでいるわよ。魔族(シェルザード)を」
 やけに冷たい声で、シズクはリースの言葉の続きを言った。
 だからクリウスに会って、泣いたのだと。あの涙の中にあるものは、恐怖なのだと。暗にそう示すために。
 こんなに冷たい声も、もしかしたら初めて出したのではないのだろうか。本当に、今日の自分はおかしい。明日になったら……穏やかな日の光を浴びたら、元の自分に戻るだろうか。ぼんやりそう思った。
 「え?」
 しかし、リースにとってはそれで余計に訳が分からなくなったようだ。まぁそれも当然といえば当然か。魔族(シェルザード)に命を助けられたというのに、その魔族(シェルザード)を憎んでいるというのだから。
 助けられて、その相手を憎む事など普通ならば有り得ない。
 シズクは、今度は少し間を持たせると、決心したようにリースを見据え、真剣な顔で言った。

 「わたしの住んでいた町を襲ったのも、魔族(シェルザード)よ」



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