追憶の救世主 番外編
「幸せのかたち」
珍しく寝坊してしまったのは、決して昨日夜遅くまで書物を読んでいたからではないと思う。
「…………」
むっくりとベッドから起きだして、セイラは一人、寝起きの頭で考えた。今朝方見た夢が、脳裏に焼きついて離れてくれない。酷く現実味を帯びていて、まるで本当に目の前で起こったことのようだった。ふんわりとした花の香りが、未だに自分の周囲に漂っているような錯覚まで起こす。
現実であるはずは無いのに――
一瞬だけきゅっと胸が締め付けられた。だが、窓の外を見た瞬間、そんな気持ちは一気に吹き飛んでしまう。なんてことだ。太陽が既に高々と昇ってしまっているではないか。朝の礼拝をサボってしまったことになる。さっと青ざめると、セイラは考えを中断して、あわてて朝(とは言えない時間だったけど)の身支度を整え始めていた。
◇◆◇
――セイラーム・レムスエスは、今年で5歳になる少年だ。大陸の北の果て、レムサリア国の水神の神殿に住む僧の一人。その証拠に、レムサリア国民特有の透き通るような白い肌と黒い髪、そして夜を思わせる漆黒の瞳を持つ。容貌は決して整っているとは言えないが、この年で既に誠実そうで温和な雰囲気を従え、賢人を思わせるような英知の色をその瞳に宿していた。
セイラは水神から選ばれた、『水神の神子』を継ぐ人間なのだそうだ。左胸に水竜のアザ、手に水竜のクリスタルを携えて生まれ落ちてきたらしい。それが水神の神子の後継者を示す事だと、まず初めにそう教えられた。だからセイラは、生まれ落ちたと同時に両親から離され、水神の神殿に引き取られたのだという。
両親から貰ったものは、この命とセイラームという名前だけ。抱擁や、手や胸のぬくもりなどは与えてはくれなかった。いや、ひと時の間だけでもくれたかも知れないが、そんなものセイラの記憶に残っているはずもなかった。
世界のバランスを保つため、水神からの神託を聞ける唯一の人物。それが水神の神子。世界中の人々の幸せを運ぶ人物らしいが、神子本人はというと、全然幸せではないと思う。もちろん、生活に苦労はしないし身分も高いのだろうが、それでも、誰しもが当たり前のように与えられるものが、神子には与えられたりはしない。
だからセイラは、水神の神子なんて嫌いだった。そんな身分を作った水神が嫌いだった。いつか自分が継ぐ番になったって、一月くらい駄々をこねてやろうと思っていた。そのあたりの思考回路は、まだ年相応である。
「サーニャ様! 申し訳ありませんでした!」
震える声で、セイラはそれだけ言って素早い速度で頭を下げた。磨きこまれた床石に自分の顔が写りこむが、それは青ざめ、酷く狼狽している表情だった。
朝の礼拝を忘れたことなど、これまでただの一度も無かった事だ。だが、神殿の他の僧達が礼拝に遅刻してしまった際、神官長がこっぴどくその者を叱り付けていたのを見た事があるのだ。同じ事をしでかした自分の処遇は知れている。
怒られる前に謝れば、少しは罪は軽くなるかも知れない。だからセイラは今こうして、サーニャ・レムスエスの元を訪れたのだった。
サーニャは現水神の神子。つまりはこの神殿の最高権力者であり、セイラの上司にあたる人物でもある。もう齢70を過ぎた老女で、昔は黒かっただろう頭髪は既に白く、青い髪飾りで後ろで一つにまとめている。
サーニャはセイラの声を聞くと、執務机に向けていた視線をのんびりした動きでもって、幼い彼女の後継者へと向けた。
「……おや、セイラ。よく眠れましたか?」
身構えていたセイラだったが、かけられたのは穏やかな声だった。きょとんとして、執務机からこちらを見つめる老女と視線を合わせる。
てっきり、怒られるとばかり思っていたのに……。
老眼鏡から覗く彼女の黒瞳は、慈愛に満ちて優しく輝いていた。年はいっていたが、人を纏める手腕は未だに彼女の中に健在。紛れも無く彼女は、水神の神子なのである。そして、セイラがこの神殿の中で最も信頼を寄せる人物でもある。
「あの……申し訳ありませんでした」
「いいんですよ。貴方を寝かしておいてあげてと頼んだのは、私ですから」
「え……」
目を丸くしてその場で固まるセイラを、微笑ましいものでも見るかのように見つめ、サーニャはふふっと笑った。まるで、悪戯を企んでいる子供のような笑顔だ。
「起こしに行ったのですがね、あまりに貴方が幸せそうな顔で寝ているものだから」
そう言って彼女は、また笑う。だが、対するセイラはというと、途端に腹の中におもりでも入れられたような気分になった。幸せそうな顔で眠っている自分を想像して、情けなくなる一方で、切なくなってしまったからだ。
「良い夢でも見ていたんですか?」
まるでセイラの心の中を見透かしたように、サーニャがそう言ったものだから、セイラの心臓は弾け飛びそうなほどの鼓動を打った。極力自分が焦っている事を表情に出さないようにして、彼女の方を見る。視線の先で、サーニャは少しだけ首を傾げていた。
良い夢。確かにあれは、良い夢だった。誰だか分からないけれど、花の香りのする優しい女性が「愛しているわセイラ」と言って自分を抱きしめ、頭を撫でてくれたのだ。その隣には男性が居た。彼は微笑みながら自分達のところまで来ると、セイラを抱きしめる女性を、セイラもくるめて抱きしめたのだ。
夢は所詮、見る者の想像や記憶の産物である。だから、この良い夢を見て、その夢に満ち足りている自分自身に気付いて、セイラは酷く恥ずかしくなった。自分が何を欲しがっているのかが、あまりにも分かりやすく示されてしまったからだ。
全部、この身分のせいだ。水神なんかが居るせいだ。
「僕は……水神なんて嫌いです」
思考の果てに、それだけが言葉となってセイラから飛び出した。それきりむっつりと黙り込むと、セイラはまた、ぴかぴかに磨きこまれた床の大理石に視線を寄せる。
「おや、一体どうしてかしら」
大した間をおかずに、サーニャの質問が飛んだ。至って穏やかそうな、疑問も怒りも内包していない声。次期水神の神子が発した禁句ともいえる言葉に、彼女は何の非難も浴びせなかった。むしろ、セイラとの会話を楽しんでさえ居る。
「水神はずる賢い。自分が果たせば良い役割を、水神の神子なんて役職を作る事で押し付けて、本人はきっと、今頃あぐらでもかいてのんびり僕らを傍観してるんです」
それだけ言うと、本当に企み笑顔を浮かべながらゆったりとあぐらをかいている水神レムスが想像されて、セイラは益々不機嫌になった。「ほらお前達、俺様の仕事の続きはどうした」と、セイラに向かってはやし立てる声まで想像出来てしまい、額に青筋が浮かぶ。
セイラの言葉を聞いていたサーニャはというと、またそれほど間をおかずに、今度はくつくつと笑い始める。老人特有のしわがれ声だったが、セイラは彼女のこの声が好きだった。聞いていると穏やかになれる。だから、彼女の笑い声を聞いて、少しだけセイラは落ち着きを取り戻した。そうして視線を再び上に上げると、未だおかしそうに笑っている水神の神子へと視線を寄せた。
「……僕、何か可笑しな事を言いましたか?」
あまりにサーニャが笑うものだから、少し拗ね気味の表情でそう言った。
「いえ、そんな事は無いわ。……実はね、私もずっと昔から、水神レムスはずる賢いたぬきじじいだと思っていたから。貴方が同じ事を考えているのが可笑しくって」
「た、たぬきじじい……?」
「神官長には内緒ですよ」
まだ笑いの収まらない表情で、サーニャがおどけた様子で言った。対するセイラはというと、いつも丁寧で誠実なこの老女の口から、よもや『たぬきじじい』という言葉が発せられるとは思っていなかったので、呆けてしまう。
「貴方は賢い子ね。セイラ」
呆けているセイラの耳に届いたのは、今度は穏やかな声だった。それまで笑ったせいで涙が浮かんでいたサーニャの瞳は、もうこの時は潤んではいなかった。慈悲を称えた瞳。
自分に母と呼べる人が居るとしたら、それは彼女の事ではないだろうかと思う。
「この神殿に来てから、一度も貴方は実のご両親の事を知りたがったりしないのですから。本当はきっと、とても知りたいに違いないのに」
ふっと柔和な笑みを浮かべると、サーニャはセイラに問いかけるような視線を寄せてくる。
「…………」
生まれて一度も、神殿の者に自分の両親の事を尋ねたりした事はなかった。両親が居ない事に疑問を抱きだす前に、自分の立場を理解させられたせいかもしれない。それに、聞いてはいけない気がした。そして、聞いてもきっと誰も教えてはくれないと分かっていた。
今朝見た甘美な夢の事が頭に過ぎり、優しい香りが思い出されて、胸がまたちくりと痛んだ。
「……それは、サーニャ様もそうだったのでしょう?」
「さぁ、どうだったかしら。もうそんな昔の事、忘れてしまいました」
セイラの問いかけに、サーニャはまた柔和な笑顔を浮かべ、くつくつと笑った。
「では、両親が居ない事を寂しいと思ったことはおありでしょう」
セイラは、サーニャに誤魔化された気がして、少しムッとする。それを目にしたサーニャは、今度はすうっと双眸を薄め、穏やかに笑んだ。からかうような表情は消えていた。
「……そうですね。寂しいと思ったことはありました。でも今は、そんな事を考える事も無くなりましたね」
そう言って、幸せそうに笑った。
「考えなくなる……僕にもそんな日が来るでしょうか」
ぽつりと零す。
実を言うと、今のセイラは、しょっちゅう両親の事を考えてしまっている。今朝の夢も、悶々と両親への思いを馳せた結果、生まれた産物だろう。それを考える事がなくなる日。セイラには来るとは思えなかった。
「必ずしも考えなくなる事が良いとはいえませんよ。要は貴方の心の問題です」
しかめ面のセイラを、少しだけ気遣うような声でサーニャは言う。
「セイラ、私はね、こう思うのです。誰から守られる事も幸せの一つ。でも、自分が誰かを守る時の方が、守られる時よりもずっと幸せを感じられる、と」
「……自分が守る方が?」
馬鹿な、と思う。人を守るには力が必要なのだ。自らの身を削って誰かを守る事は、酷く骨の折れる作業であると思う。その中に幸せを見出す何があると言うのか。
「私達神子は、両親という存在を持たない。それは、不幸な事です。だけど、誰かを守り慈しむ素晴らしさを知って、私はとても素敵な事だと思った。私達は私達を守ってくれるべき大きな存在を一つ持ちませんでした。でも、誰かを守る事は、誰からも咎められない当然の権利として、ちゃんと持っているんですよ」
ゆっくりとした調子でそれだけ言うと、サーニャの瞳は、セイラを慈しむように優しい光を放った。彼女が慈しむ存在、それはセイラを含む、この神殿の人間達の事かもしれない。
だが、セイラにはどうにも納得出来ない事だった。当たり前である。大人びた知性を持ったセイラであるが、まだ5歳。彼は、慈しみ、守り、育ててくれる存在に囲まれて生きている。人に守られている彼は、人を守る喜びを理解できるにはまだ早い。
サーニャはしばらく黙り込んでセイラの方を見つめていたが、やがてとびきりの笑顔になると、
「貴方にも、きっと分かる日が来ますよ。セイラ」
そう言って、ふふっと声を上げて笑った。
――24年程前のよく晴れた日の午後の出来事。
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