追憶の救世主 番外編
「旅立ち前」
アンナ・アレセントは、教室に足を踏み入れた途端、奇妙なものを目撃してしまった。
「……え? わたしに?」
視線の先に居たのは、彼女のルームメイトにして幼馴染にして親友でもある焦げ茶髪の少女。どこからどう見ても、10代半ばにしか見えない容貌だが、彼女、これでもアンナと同じ17歳である。名前はシズク。
普段ならば共通の女友達に囲まれているはずの彼女が、今一緒に居る人物はしかし、アンナにとっては予想外の者だった。それもそのはず、彼女の隣で少しだけおどおどしながら立っているのは、少年なのだから。
(確か、隣のクラスの……)
名は何といったか。ルーだかラーだか、そんな感じだった気がする。
少年は、少し引きつったはにかみ笑いを浮かべて、シズクに何かを手渡していた。むむむと眉をしかめながら確認してみると、それは何の変哲も無い一冊の本である事が分かる。ここからでは表題までは分からないが、雰囲気からして何かの物語系だろうか。
「前さ、読みたいって言ってただろ? 俺の姉貴がたまたま持ってたからさ……」
「で、わざわざお姉さんから借りてくれたの!?」
独特の色をしたの瞳を大きく見開くと、シズクは自身の手元にある本と、目の前に立つ人物の顔を交互に見比べる。嬉しさ半分、戸惑い半分といった様子だ。だが、本好きの彼女の事だ。きっとその本は、前からとても読みたかったものの一つなのだろう。やがて曖昧だった表情は満面の笑みに変わって行き、
「ありがとう! 読み終わったらすぐに返すから。お姉さんにもお礼を言っておいて」
弾んだ声で、少年にそうお礼を述べたのだ。
シズクの笑顔を受けて、少年の顔が少しだけ紅くなったように見えたのは、アンナの気のせいではないはずだ。
(ふ〜ん……)
少年がシズクに別れを告げて教室を出て行く様子を見ながら、アンナはニヤリと微笑んだ。そして、それまで少しだけ遠くからシズクの様子を伺っていたのだが、彼女の方に向かって歩いていく。
「おっはよ〜!」
勢い良くシズクの肩に腕を乗せると、楽しそうな笑顔でそう挨拶する。対するシズクはというと、「ア、アンナ!?」とか何とか叫びつつ、突然の親友からの攻撃で大きくよろめいた。何故だかアンナが上機嫌な事に気付くと、訝しがるような視線を投げかけてくる。不審そうな顔のシズクに向かって、アンナは尚もニヤニヤ顔を止めない。
「あんたも隅には置けないわね〜」
「な、何がよ……」
「何がじゃないわよ。ホラ、さっきの少年A」
ビシッとアンナが、シズクの持っている本を指差した事で、シズクにもが点が行ったらしい。あぁ、彼。とか呟きながら、少年が出て行った教室の入り口の方を見た。
「ルーク・ギエン。隣のクラスの子だよ」
きょとんとした顔で、シズクがアンナに説明し始める。先ほどの少年、ルークという名前なのか。
「この前の実習で、同じ班だったのよ。結構話が合ってさ、本の話で盛り上がった時に、わたしが読みたいって言ってた本を覚えてくれてたみたいで……」
なるほど。ルーク少年、どうやら先週の実技実習でシズクの事を見初めたらしい。ちゃっかりシズクが読みたいと言っていた本を覚えていて、それを姉から借りてくるとは。
「好みをついてアタックしてくるとは……なかなかやるわね」
顎に手を当てる体勢でアンナはそんな事を呟く。対するシズクはというと、へ? とか言いながら、全く意味がわかっていない様子だ。そんな親友の態度に、アンナは軽くため息をつくわけで……
(自覚がないってのは、罪よね)
一人、胸中で呟いた。きっと多分、アンナが予想するに、ルーク少年に勝機は無いだろう。
本人が鈍感なせいなのか恋愛オンチなせいなのか、全く自覚が無いのだが、シズクは意外ともてる。アンナに言わせると、この童顔娘の何が良いかは分からないが、人懐っこい性格が男どもの心をつかむのかも知れない。あるいは、実技でのシズクの姿に、心臓をドキッといわせてしまうのだろう。
これも更にシズク自身に自覚がない事だろうが、シズクが呪を唱えている姿は、妙に様になるのだ。魔力自体は平均以下な彼女だったが、魔法を行使する際の表情や動きなどは、不思議と他のどの生徒よりもしっくりくる。生憎そう言う部分は、試験での評価に全く考慮されないため、それが成績という形として出る事は無いのだが。
そんな事をつらつらと考えていたアンナだったが、顔を上げてシズクと目が合うと、頭に浮かんでくる疑問があった。うーんとしばし唸ってから、再び口を開く。
「シズクってさぁ……」
「何?」
「好きな人とか居ないの?」
アンナの質問に、はぁ? と大げさな声を出すと、シズクは眉をしかめてしまった。胡散臭い。というような顔でこちらを見つめてくる。
「何、突然。そんなの居るわけないじゃない。居たら真っ先にアンナに報告してるわよ」
「……だよね」
ため息を一つ落とすと、アンナは苦笑いを浮かべる。かく言うアンナ自身も、今現在これといった浮いた話は無いが、それを敢えて棚に上げて言わせてもらうと、シズクは、とことん恋愛というものに縁がない奴であると思う。
知らない訳ではない。興味が無いのだろう。
シズクと知り合って10年以上経つが、彼女の口から誰かが気になるとかそいういう話を聞いたことはなかった。
「あんたが好きになる奴って、一体どんな人間なんだろうね。っていうか、そもそもそんなの居るのか?」
アンナの言葉にシズクは、失礼な! と憤ると頬を膨らませてしまった。しかし、そんな親友の姿を見て、アンナは反対に噴き出してしまう。失礼な! と言われても、彼女の口からそいうい類の話を聞いたことがないのだから仕方が無い。
(ま、こいつが好きになるんだから、きっと、とんでもない奴なんだろうなぁ)
考えると益々笑えてきてしまい、シズクの機嫌を更に悪くする要因になる。
「ったく……時がくれば、わたしにもそういう人が現れるわよ。今はその時期じゃないのよ、きっと」
まだ笑っているアンナを睨みつけながら、不貞腐れたようにシズクは言い捨てた。
「時が来れば、か……」
そんな時が、来るのだろうか。シズクの隣に、共に歩む男性の姿を見られる日が。
(でも)
その日が来ても、今の自分とシズクとの関係は、変わらないままで有りたいなぁと思った。
離れ離れになって、お互いいろいろな部分が変わってしまったとしても。彼女にとっての親友でありたいと思う。
「……何よ、なんでそんなに笑うの?」
そんな事を考えている自分に照れて、アンナの口からはそれまでとはまた少しだけ違う種類の笑みが零れ落ちた。だが、くすくすと笑いやまないアンナに、シズクは益々不機嫌さを強めたようだ。腰に手を当てて仁王立ちになると、もうとか何とか言い始める。
「なんでもないよ」
笑いながらそんな事を言っても説得力などない事は分かっている。ほら、やっぱり彼女は不機嫌そうに拗ねる訳で……
(変わらないでいようね)
――お互いの隣に、いつかそれぞれ違う男性の姿が現れたとしても。
始業前の教室にて。シズクの旅立ちまであと3ヶ月。
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