+ 追憶の救世主 +
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第1章「イリスピリア」
1.
うららかな陽光が窓越しに部屋の中へと入ってくる。どちらかというと、厳格で硬い感じのする部屋に、日の光は柔らかさと華やかさを与えてくれていた。
日向は、ぽかぽかしていて居心地が良い。ふかふかのベッドで昼寝なんかをしたら、とても気持ちがいいのではないかな、といった状況だ。
だが、昼寝などしていたら勿体無い。せっかくのチャンスを逃すわけには行かないのだ。
「…………」
周囲に誰もいない事を確認すると、彼女は部屋の豪奢な窓を音もなくゆっくりと開けた。開けると同時に、花の香りが混じる柔らかい風が頬を撫で、蜂蜜色のウェーブがかった髪がかき上げられていく。
「――――」
呼吸を始めたばかりの赤ん坊みたいに大きく息を吸うと、彼女は窓の外へと足を踏み出した。部屋唯一の窓は、バルコニーに繋がっているのだ。数歩歩いて細やかな模様のフェンスに両腕を置くと、目の前に広がる景色を視界いっぱいに入れる。
5階という高さも手伝い、眺めは良好。眼下にはレンガ造りの丈夫そうな建物がいくつか立ち並び、その周囲には良く手入れされた広大な庭が広がっていた。そして――
視線を少しだけ上げると、大きな町が周囲に形成されている事が確認できる。色とりどりのレンガ造りの屋根が連なる様は、遠くから眺めると、巨大なモザイク画を見ているようだ。絶景と呼べるものだった。町は視界に収まりきらない程大きく、境目はぼやけてよく分からない。
大陸随一の広さと繁栄を誇る、イリスピリアの首都、イリスだ。
そして彼女が今居るここは、イリスピリアの中核であるイリスピリア城だった。
城の5階に吹く風は、塔が多いイリスピリア城の特徴らしく、割と激しい。先ほどから、彼女の髪やスカートは風にいいようにされている状況だ。高所恐怖症の人間などはおそらく、立っていることすらできないのではないだろうか。
だが、彼女――リサは、ここからの眺めが好きだった。
リサがこのバルコニーに出る事は、大げさすぎるくらいの勢いで、人から止められる行為の一つであった。
風に煽られたりでもしたら危険だからというのが理由らしいが、リサにとっては別に。といった感じだ。逆に、強い風が気持ちいい。この風があるから、ここはリサにとってのお気に入りの場所なのだ。
「退屈ねぇ」
ほうっと盛大なため息をつくと、リサはそのまま頬杖をついた。
退屈。本当に退屈だ。今日が休日なのがその事に余計に拍車をかけているのかもしれない。変わり映えの無い日常は平和の証だが、同時にとてつもなくつまらないものなのだ。少しくらい変化がある方が、刺激があって楽しい。退屈しのぎに読書に興じていたのだが、それもそろそろ飽きた。
「外に出たいのよ、外に」
言って、片手を町の方角へと差す。大都市イリス。あそこには、たくさんの刺激と娯楽がつまっている。休日の今日ともなると、あちこちで催しが開かれている事だろう。
町を散策したい。ぶらぶら歩き回って、露店で素朴なアクセサリーを買い、出店のお菓子の甘い香りにつつまれたい。
心の中ではやりたい事がたくさん広がるのに、それをリサは実現できない。なぜって? 彼女が城から出たがっても、なかなか容易に許可が下りないからだ。たとえ下りたとしても、厳つい顔をした同行人が数人つく。あんな強面を見ながらの散策は楽しくないだろうし、目立つので周囲からも退かれてしまう。だから、散策するなら断然一人きりがいい。
「何なら、この間みたいに抜け出そうかしら。でもなぁ……」
見つかってしまったら、こっぴどく叱られるのだ。この間がそうだった。城を抜け出すまでは非常に上手く行ったのだが、いつも城にいるはずのリサが居ないと、城内の者たちはどうしても気付いてしまう。結果、町に憲兵隊が現れる始末。先日はイリスの町の住人に、多大なる迷惑をかけてしまった。
「気付かれずに抜け出す方法って無いのかしら。たとえばそう――」
「何をよからぬ事を考えていらっしゃるんですか、リサ様!」
声は、背後から突然かかった。少ししわがれた男の声。いきなりの事に、リサは思わず飛び上がってしまう。そしてそれは、今一番聞きたくない声だった。
びくりとしながら、リサは後方を振り返る。声をかけられるまで、その場所に気配は全く感じられなかった。しかし、今確かに彼はそこに居る。いつの間に部屋に入ってきたのだろうか。空間移動でもしたのかと錯覚するくらいの忍び足だ。
「ネイラス!」
声の主の名を紡ぐ。
窓辺に肩を預け、呆れた様子で腕を組む中年の男。ネイリムスフィン・イルスィードというのが、彼の本名であるそうだが、長ったらしいのでリサを含む城の者は皆彼をこのように愛称で呼んでいる。
一見どこにでもいそうな渋顔の男なのだが、ネイラスはこの国、イリスピリアの重臣の一人なのだ。
しっかし、相変わらずの神出鬼没っぷりである。伊達にリサが幼い頃から彼女の教育役をやっている訳では無い。
ネイラスは、大げさなため息を一つ落とすと、軽くリサを睨みつつ言葉を紡ぎだす。それはもう、弾丸のような勢いで。
「まったく、目を離したらこれでは困りますな。別に、町に出るなとは言っておりません。気分転換も必要ですからね。しかし、それでも貴方のようなお方には供の者は必要なのです。それを……脱走計画などと! 分かっておりますか? 貴方は仮にもこの国の王女であるのですぞ! 王が知ったら――」
「あーもう、分かった分かった」
まだ何かを言おうとしたネイラスの言葉を遮って、リサが気だるそうに言った。
彼の言葉の続きは分かっている。『王が知ったら、さぞかしお嘆きになりますぞ!』だ。いつもお決まりのフレーズである。
――リサ・E・ラグエイジ・イリスピリア。
そう、リサはこの国の王女なのだ。
すなわち、この世の奇跡、絶世の美姫と讃えられる、イリスピリアの第一王女その人だ。
確かに、彼女はその名に恥じぬ大美女ではあった。明るい金の髪も、エメラルドグリーンの瞳も、王女としての風格を醸し出すのに一役買っている。ほんのりとピンクに色づいた白い肌などは、国中の女性の憧れの的だ。
しかし、見るもの全てを虜にする女神のほほ笑みの裏に、別の性格があるという事を知る者は少ないだろう。
何を隠そう、世間の噂を木っ端微塵に砕いてもまだ足りないほど、リサの性格はとことん王女らしくないのだ。おてんばで済まされるなら良いが、ネイラスや王の嘆き様を見る限り、そんな生易しいものではない事はお分りいただけるだろう。
だが、リサ自身はこの性格は絶対に血筋だと言って譲らない。事実、父である現イリスピリア王も、リサくらいの年齢の頃にはいろいろとやんちゃをはたらいていたらしいし、今現在だって、療養や静養などと理由をつけて、1年に1回の1週間くらいは絶対に国外逃亡するのだ。
そんな父の子だ、おしとやかに育つはずがなかろう。嘆くなんて筋違いである。おてんばに育った理由のほぼ9割は、他ならぬ父のせいであるのだから。まぁ、幼い頃に亡くなった母に似たところで、おてんばは変わらなかっただろうが。
「――であるからして、って……聞いておりますか! リサ様!」
リサが一人思考を巡らしている間にも、ネイラスは彼女に説教を垂れていたらしい。あさっての方向を見ているリサに気付いて、またもや注意してくる。
「ごめん聞いてなかった。ところでさ、私の部屋に来たって事は、何か用なの? 用もなく無断でレディの部屋に足を踏み入れるだなんて、紳士らしくないわよ?」
ネイラスの言葉を軽くあしらってリサが返す。リサ様! とまたネイラスが怒鳴る声がしたが、気にしない事にする。
「19にもなるのにおてんば王女のくせして何がレディですか! それに、無断ではありませんよ。何度もノック致しました。本来ならば応答が無かった場合はまた時間を置いて来るべきでしょうが、他ならぬ貴方様が、彼らが到着したら何が何でも知らせてくれとわたくしに申し付けたのですよ。わたくしは、それを守っただけです」
「来たの!?」
肩をすくめて、嫌味たっぷりな言い方をするネイラスの言葉に、普段のリサならば腹を立てるところだったが、今回は違った。目を大きく見開くと、その表情は歓喜の色に染まったのだ。まるで子供が待ちわびた誕生日のプレゼントでも貰った時のように。
まぁそれも無理も無い。予定よりも遙かに遅れて、待ち人がやっと到着したのだ。
「えぇ、水神の神子、セイラーム様が先ほどお見えになりました。お弟子のアリス様もご一緒です」
自分の手柄のように、ネイラスは得意げな笑顔で言う。世界的有名人である水神の神子がやって来たという事は、どこでもやはり大ニュースなのだ。それは、大国イリスピリア城とて例外ではない。
リサはもちろんの事、ネイラスも、水神の神子のあの性格を多少なりとも知っている。しかし、それでも喜ばしい事であるようだった。
だが、リサの関心は更に別のところへ移ってゆく。
「って事は、あいつも帰ってきたって事よね。しかもしかも! 情報によると、新たに女の子を連れて来ているらしいじゃないのよ!」
言って、リサの瞳はこれでもかというくらいに輝きを放つ。何も知らない人が見れば、一瞬で惚れ込むこと間違いなしのビューティフル・スマイルだ。しかし、ネイラスはこの笑顔が一種の企みが含まれたものだという事を知っている。
やれやれ、と肩をすくめる仕草をすると、彼は今度は穏やかな笑顔になると、こう言った。
「えぇ、貴方様の弟君――リース王子もお戻りになられました」
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