+ 追憶の救世主 +

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第1章「イリスピリア」


5.

 「…………」
ふぅ、とシズクは小さなため息を窓に向けて放った。
 目下に控えるのは、広大な庭。青々とした芝生は細部まで手入れが行き届いており、散歩用に設けられた小道の両脇には、春の花々が可憐に咲き乱れていた。先手が欠かされる事はないのだろう、形の整った木々の枝では小鳥達が戯れているのが見える。素人目でも、一流の庭師によってその場が管理されているのは一目瞭然だった。他でもない、イリスピリア城の中庭である。
 その中庭が一望できる位置に、シズクが今居る部屋はあった。毛並みの整った落ち着いた色の絨毯に、センスの良いソファ。部屋に一つのベッドには、なんとまあ天蓋が取り付けてある。おそらく客人用の部屋なのだろう。シズクのような一般人が踏み入れるのは申し訳なくなるくらい上品なしつらえである。
 セイラがイリスピリアに滞在している間は、シズクはこの部屋で生活する事になる。そう先ほど、案内の女性から言われた。
 いかにも王城といった周囲の状況に、いつものシズクならば、どぎまぎするなり興味津々に瞳を輝かすなりするのだろうが、今は違った。シズクは難しい顔を作って、先ほどから黙してしまっているのだ。

 ――何故ここに居る?

 先ほどのイリスピリア王の言葉が、頭の中で何度も何度も再生される。光を宿さない冷たい瞳。あれは、どう贔屓目に見ても、シズクを歓迎する言葉と態度などではなかった。それよりむしろ、拒絶の意が込められたものだった。
 正直な話、シズクは王に歓迎されると信じていたのである。母はイリスピリア王と知り合いであったはずだ。それも、助けを求めろとまでシズクに言うのだから、かなり信頼の置ける仲だったのではないだろうか。ネイラスも言っていたではないか。ティアミストの来訪を王は、喜ぶだろう、と。勇者シーナの血をその身に宿す一族、ティアミスト家。言ってみればそう、ティアミスト家とイリスピリア王家は、遙か昔は一つの一族だったはずなのだ。
 滅亡したといわれてから10年以上も経て、今更ティアミストを名乗るなと言いたかったのだろうか。それまでずっと忘れていたくせに、のこのこ出てきてその存在を認めろというのは虫が良すぎると思ったのだろうか。
 (そんな事言われても……)
 眉間の皺を更に深めて、シズクは胸中で零す。
 (わたしは別に、ティアミストとして認められたい訳じゃない)
 シズクとて、先日知ったばかりの自分の身分を受け入れられるかと言うと、到底無理な話なのだ。皮肉な事に、確たる証拠はそろってしまっている。リオやセイラが言うように、自分は確かにこの身にシーナの血を持つ人間なのだろう。だが、シズク・サラキスとして生きてきた年月の方が明らかに長いのだ。ティアミスト家の一員として過ごしたであろう当時の記憶も無い。それに、受け入れるにはあまりに大きすぎる身分である。いきなりお前はティアミストという一族の最後の生き残りで、古の勇者シーナの血を引く者だ、と言われても、やっぱりしっくりこないというのが本音だった。もっとも、それを知りたがっていたのは他ならぬシズク自身であるので、今更誰にも文句は言えないのだが。
 「ここではもう、わたしはティアミストだった人間としてしか見られないのかな……」
 言葉に出すと、益々それが本当にそうであるような気がしてきてしまい、余計に心がしぼんだ。シズクという人間は、ティアミストという大きなものの前にあまりに無力だ。飲み込まれてしまいそうになる。いや、もしかしたらもう、飲み込まれているのかもしれない。
 自分という人間が、こんなに希薄に感じられたのは初めてだった。強い風を受けて、所在なさ気に揺れる薄布のような心境だった。
ひょっとしたら自分は、知らなくても良い事を知ってしまったのかもしれない。知りたがって教えてもらったはいいが、途方にくれている自分が、確かにここにいるのだ。
「…………」
悶々とそんな事を考えていた時だ、部屋の扉がノックされた。咄嗟のことだったのと、慣れない部屋だったせいもあり、シズクは言葉が出なかった。だが彼女の視線の先で、扉は静かに開いて行く。

 「ちょっと、いい?」

 ゆっくりと開けられた扉の前には、少し遠慮がちな表情のアリスが立っていた。






リサは昔から、納得がいかない事はとことん追求する癖がある。分からないまま放っておくのは、まるで喉に何かが引っ掛かってとれない時のような気持ち悪さを生む。それを放置するのは、彼女の主義に反するのだ。
 その異常に強い探求心は、プラスの方向に発揮される事がほとんどだった。無鉄砲ともいえる性格から誤解される事が多いが、リサ王女はイリスピリア屈指の切れ者なのだ。
 弟のリースは、学術においても剣術においても、国では右に出る者が居ないと噂されるほど長けている人物であった。だが、こと学術においては、彼女は弟の上を行く。その容姿の美しさも手伝ってか、かの勇者シーナの再来か、と囁かれるほどである。
 が、やはり時々はその探求心がマイナスの働きを示すときもあった。
 そう、例えば今この時のように――

 「どうしてなんですか!」

 ばんっと重い音を立てて机が鳴った。他でもない、リサが体重をもって両手を叩きつけたからだ。だが、机の方とて負けてはいない。スレンダーなリサの体重などで揺さぶられてたまるかとでもいうように、彼女に両手を叩きつけられても机はびくともしなかったのだ。さすがは王の執務室にある机なだけはある。

 「……何がなのだ? リサ」

 眼前に詰め寄る愛娘の顔を、難しい表情のまま、イリスピリア王は見つめている。突然やって来たリサに対して、仕事の邪魔をするなとでも言うような様子だ。
 彼とてこの国を治める者である。仕事はそれこそ山ほどあるのだ。実際、今も執務室の机上にはあれやこれやの書類が散乱している。
 「何故あの子にあんな言葉を投げつけるの? 初対面なはずよ。お父様らしくもない」
 父王を目の前に、リサは彼よりも難しい顔を作って言った。
 リサにとって、初対面の人間に冷たい態度を取るイリスピリア王の姿など、考えられない事だったのだ。彼は厳格ではある。だが思慮深く、民を愛している。そういうところをリサは尊敬していたのだ。
 ところが、先ほどのシズクへの態度はどうだ。初めて会ったはずの少女に、侮蔑ともとられかねない言葉を投げつけたのだ。納得が行かない。
 だが、苛立つ彼女に対して、イリスピリア王は落ち着いていた。軽く息をついて仕事の手を止めると、リサの瞳を真っ直ぐに見つめる。
 「あの子とは、先ほどのティアミストの娘の事か」
 「ティアミスト? 違うわ。あの子はシズク。シズク・サラキスよ。そう彼女が名乗ったのだから」
 「……そうか、それが今の彼女の名前か」
 ふと視線をリサからはずすと、王はどこか遠くを見るような顔をした。まるで何かを懐かしむような。それでいてどこか、悲しみを含んだような瞳。だが、それも一瞬の事で、すぐにまた先ほどまでの難しい顔へと戻ってしまう。
 「お前は知らなくても良い事だ。彼女とは関わり合いを持とうとするな」
 眉間の皺をより深く刻み込んで、彼は言った。
 「……何故そんな事を言うの? 私が誰と関わろうが自由でしょう」
 目を見開いてリサは呆れたように言う。イリスピリア王の言葉が益々信じられなくなる。関わろうとするな、とは。それまでリサの人間関係に口出しなどしてくるような父ではなかったのに。
 王女という身分のリサだが、身分が違う者とも気さくに話し合う。それを見て渋い顔をするどころか、良い事だと褒めたのは、他ならぬ目の前のこの人ではなかったか。

 ――ティアミスト。

 その単語がリサの心に引っかかる。この言葉を紡ぐときの父は、えらく苦しそうな顔をするのだ。
 「それは、あの子がティアミストとかいう者だからなの? たったそれだけの事でお父様は、彼女を一人の人間としては見られなくなるの?」
 「…………」
 「ティアミストとは、一体何?」
 詰め寄るように、リサは目の前の父に向かって言った。それきり両者の間に降りる、重苦しい沈黙。
 父との間にこれほどの壁を感じたのは、リサにとって初めての事だった。もちろん、リサが納得できる内容で彼が口をつぐむのなら、不服は不服だがまだ許せるだろう。だが、今日のこの出来事はどう考えても納得できない事だった。いい年をした大人が自分の子と変わらぬ年齢の少女に辛く当たるのだ。理由も無いのに。……いや、理由はあるのだろうが、それすら説明してくれない。
 ふぅっと、疲労の篭ったため息が聞こえた。リサが放ったものではない。他ならぬ目の前の父が放ったものである。
 王はゆっくりとした動作で両の手を組むと、静かな光を称える瞳をリサに向けた。
 「……リサ。世の中には、生涯知らない方が良い事がいくつかある。知ればたちまち、その者の世界を変えてしまう知識や情報がそれだ」
 もともとそれほど広くない部屋だ。しんとした執務室の空気に、王の声はよく馴染む。
 「あの娘はイリスピリアを乱す。それだけ知っておけば良い。お前はそれ以上何も――」

 ――ばんっ!

 王の言葉に割って入ったのは、机が力強く打ち付けられる音だった。他でもない、リサが全体重をかけて打ち付けたのだ。今度はさすがの机も耐えられなかったらしい。ゆさゆさとわずかに揺れた。
 それきり王は黙り込む。執務室には二度目の沈黙が降りた。
 「全くの詭弁ね」
 幾分冷気を含んだ声が、沈黙に舞い込む。リサは冷ややかな目線を、彼女と全く同じ色をした瞳に合わせた。押し黙ったイリスピリア王に動揺の色は見えない。娘のささやかな反抗程度でうろたえるようでは、この国の王は務まらないのだろう。リサとてそれを分かっていない訳では無かった。だが、それでも彼女が動いたのは持ち前の探求心の強さ故だろう。それに――彼女はシズクという少女を、既に気に入ってしまっていたのだ。
 「人を変えてしまうほどの知識や情報? それをお父様は、私に知らなくても良いと?」
 ふっと、嘲りを含んだ笑みを浮かべる。このような表情、王女が父王に浮かべるべきものではないのだろう。
 だが、彼女はイリスピリアの王女だ。遠い昔、己の力だけで国を統一した、覇王たる初代イリスピリア王の血がこの身に流れているのだ。気の強さと頑固さは筋金入りである。目の前の彼女の父がそうであるように。
 「じゃあ、あの子は――シズクちゃんは一体どうなるのかしら? 彼女に、知らない方が幸せな知識で出来た感情を押し付け、受け入れさせようとしているのは誰かしら?」
 語気が徐々に荒くなる。冷気を含んでいた声は、やがて怒気を含むようになった。

 「自分の娘の世界は変えたくないのに、そうでない娘の世界は進んで変えようとするのね」

 リサの、怒りを内包した言葉を、イリスピリア王はただ黙して聞いているだけだった。


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