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第2章「イリス魔法学校」


3.

 「本当に、ありがとうございました」

 目の前に佇む老人に向けて、シズクは深々と頭を下げつつ、そうお礼の言葉を述べた。
 「なぁに、気になさらないで下さい。こちらこそ、年寄りの気まぐれに付き合って頂けて楽しかったですから」
 「わたしも楽しかったです。お城の中も大体把握できて。もう、次は迷わず歩けそうです」
 にこにこ笑顔を崩さぬままのパリス老人に、シズクもにっこりと微笑み返す。
 場所は、城の出入口付近の廊下だった。等間隔に設けられた窓から見える空は、既に夕焼けており、オレンジ色の柔らかな光が二人の間に差し込んでくる。早々に仕事を切り上げた者達が、徐々に帰宅の徒につき始める時間だった。そんな時間帯まで、シズクがこの老人と行動を共にしていたのは、他ならぬ彼からの申し出が発端である。
 パリス老人に話し掛けられたとき、シズクは最初、城の出入口の場所を尋ねるつもりだったのだ。そしてそのまま、イリスの町へ散策に出るつもりだった。ところが、城内を未だによく把握しきられていないシズクを見かねたパリス老人が、城の内部案内を嘗て出てくれたのだ。
 シズクとしては、予定とは異なるがこれはかなり嬉しい申し出だった。だが、いかに隠居の身といってもパリス老人には仕事が無いわけではないだろうと思い、一度は遠慮したのだ。そこを外ならぬ彼自身に押し切られて、現在に至る訳だ。
 年の功と言うべきか、パリス老人の城内案内はかなり的確で、シズクのような初心者でも非常に分かりやすいものだった。それに、建造物としての美しさの評価も高いイリスピリア城は、歩いて見るだけでも十分楽しい。イリス観光以上に有意義な時間が過ごせたと言っても過言ではないのだ。
 「またお会いできたら良いですな」
 エメラルドグリーンの瞳を薄めて、パリス老人が言った時だった。

 「シズク様!」

 後方から、声が掛かったのだ。自分の名を呼ばれた事と、それが様付けである事とで、二重に驚きながらシズクは振り返る。視界に現れたのは、昨日王座の扉の前で出会った、壮年の男性の姿だった。名前は確か――
 「えっと、ネ……ネイリ……」
 「ネイラスでよろしいですよ。シズク様」
 シズクの様子に、ネイラスはふっと瞳を細めると、まるで微笑ましいものでも見るかのような調子でそう言った。対するシズクはというと、ネイラスの名前を覚えていなかった気恥ずかしさと、様付けにされる事への違和感から、ぎすぎすした笑顔なってしまう。しかしネイラスはそんな事は気に留めなかったらしい。自分の任務を思い出したのか、突然真顔に戻ると、会話を再開させる。
 「どちらへ行かれていたのですか? 部屋をお訪ねしたらいらっしゃらなかったので……探していたのですよ」
 「すみません。あの……パリスさんに、城の中を案内して貰っていたんです」
 「パリスさん?」
 「はい、彼に――」
 そう言ってシズクは、先ほどまでパリス老人が居た方を振り返る。しかし、
 「え……」
 思わず間抜けな声が出てしまったのも、無理が無いというものだろう。
 そこにはもう、全身白尽くしの老人の姿は存在しなかったからだ。別れの言葉もなく、パリス老人は忽然とどこかに消えてしまった。ネイラスと話し込んでいるシズクの邪魔をしないよう、こっそり去って行ったのだろうか。せめてあと一言くらいお礼を述べておけば良かった。
 「?」
 立ち尽くすシズクに、ネイラスは怪訝な表情を露にする。おどおどしているシズクの態度が余計にそれに拍車をかけているのだろう。
 「え、えっと……そんな事より。ネイラスさん、わたしに何かご用だったんですか?」
 ごまかすように苦笑いすると、シズクはとりあえず話題を切り替える事にした。パリス老人の事は少し心残りだったが、ネイラスがシズクに声を掛けてきた理由の方が気になる。そういえば先ほどネイラスは、シズクの部屋を訪ねたと言っていたが、何かシズクに用があっての事だろうか。
 「おお、そうでした! お尋ねしたい事があったのですよ」
 シズクに言われてネイラスも気付いたのだろう。両手を打つとシズクと目を合わせた。澄んだブラウンの瞳がシズクの目を釘付けにする。
 「シズク様は、オタニア魔法学校の高等部第二過程を履修中だったのですよね」
 「? はい、そうですけど……それがどう――」
 「イリス魔法学校に、しばらくの間だけ編入してみませんか?」
 満面の笑みと共にネイラスが紡いだ内容は、とんでもない申し出だった。







 「それで? ネイラスさんの申し出、了承したの?」

 目の前で、ただでさえ大きな瞳をめいっぱい広げて、アリスが問うて来る。驚き半分、興味半分の表情だ。目と鼻の先まで接近されて多少怯むが、彼女の質問に、シズクはゆっくりと頷く。
 「うん……特に断る理由も無かったし。あぁ、ちなみにネイラスさんの申し出じゃなくて、王様からの提案なんだって、これ」
 「おじ様の?」
 シズクの言葉に、それまで興味津々だったアリスの表情が突然曇る。そうしてうーんと唸りだしてしまう。
 「妙ね、それって」
 「何が?」
 「何がって、おかしいと思わない? 昨日シズクにあんな態度を示しておいて、その翌日には『魔法学校に少しの間だけ編入しないか』よ? おじ様にしてみれば……言い方は悪いけど、シズクには一刻も早くこの国から去って貰いたかったんじゃないのかしら? それが、突然のご丁寧な申し出よ」
 「確かにちょっと変だなぁとは思ったけど……」
 気にしすぎだ。とシズクはアリスに向かって苦笑いした。
 夕方、城の出入り口付近でネイラスから申し出を受けたとき、シズクも今のアリスと同じような事を思った。昨日さんざん拒絶をしておいて、ここにきて手のひらを返したような対応である。何か裏があるのか、何かの罠か。様々な憶測が頭の中に巡ったが、考えても答えは出るはずは無かった。それに、シズクがイリス魔法学校に通うことで、王に何か利益がある訳でもなければ不利益を与える訳でもないだろう。要するに、シズクが編入する事と、イリスピリア王には直接的には何の関係もないのだ。
 「セイラさんは会議とかで忙しそうだし、アリスもそのお手伝いがあるでしょう? リースは、国立学校に通ってるらしいし。わたしも何かする事があった方がいいなって思ったの」
 それはシズクの本心だった。
 今日の朝にしても、本当はアリスに城内を案内してもらうつもりで、アリスの寝室を訪ねたのだ。ところが、セイラの手伝いで手が離せないらしい。とアリスの部屋付きの侍女に言われてしまった。リースに至っては、彼はこの国の王子様だ。一般人のシズクは、お近づきなる事はもちろん、彼の部屋がある場所すら知らない。旅をしている時は、とても近い存在だった人達が、とても遠い存在に思えて、胸に風穴が開いたような気分だった。知らない土地で、一人になるのは正直寂しい。だから、何かやる事を与えられてそういうことを考えずにいられる方が楽だと思うのだ。
 「シズクがそれで良いって言うのなら、私は何も言わないけど……」
 口では何も言わないと言っているが、ひそめられた眉は、アリスがまだ納得していないという事をシズクに知らせていた。
 「ところでさ、わたしに何か用事だったの? アリス、突然部屋に訪ねて来たけど」
 話題を変えるためにも、シズクは敢えて笑顔でそう言う事にした。シズクとしては、いつまでもイリスピリア王の話題を引っ張りたくなかったのだ。昨日の今日で立ち直れるほど、シズクは強い人間ではない。
 アリスがシズクの部屋を訪ねて来たのは、つい先ほどのことだった。朝からずっとセイラの手伝いで、疲れているだろうに、少し慌てた様子でやって来たのだ。
 「あ、そうだった」
 シズクの言葉で、アリスは本来の自身の目的を思い出したのだろう。ぱっと目を見開くと、腰につけたポシェットへ手を伸ばしたようだった。
 「これを、師匠から預かってきたの」
 そう言って、シズクの手をとるとポシェットから取り出した何かを手のひらへと乗せてくる。ころんと。手の上で転がったのは、小さな青い石だった。
 「……? これは?」
 「リオの欠片だって。肌身離さず持っておくように。お守りらしいわよ」
 「リ、リオの欠片!?」
 アリスの言葉の内容に、シズクは思い切りむせてしまう。そうしてずずいっと、アリスの顔ギリギリまで自分の顔を寄せて行く。信じられなかったのだ。
 「それって、偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)の……あの石の欠片って事!? あの石を、削ったって事?」
 手の上で輝く青い石とアリスの顔を交互で見つつ、シズクは言った。確かにこの輝きには見覚えがある。昨日アリスがリオに頼まれて持ってきたリオの本体という石。その輝きと同じものだったからだ。リオの欠片。と、先ほどアリスは言った。要するに、あの石を削って小さな欠片を作ったという事だろう。神の力を宿す国宝級の石に傷をつけたという事だ。いかに水神の神子といっても、それはさすがにマズイのではないか。
 「あー大丈夫。なんでも、リオ自身がやったみたいだから。師匠の杖には見た目上傷一つ無かったし、リオによると、今までに何回かこういう事をやってるらしいから」
 まぁ確かにあの師匠なら、そういう事やったと誤解されても仕方ないけど。と苦笑いしながら、アリスが弁明してくる。
 「欠片だから、本体ほどの魔力は持っていないけど、それでも時々ならリオと交信できるみたいよ。しばらくなかなか会えなさそうだから、困った事があれば、この石に話しかけてみて。だって」
 「へぇ……」
 アリスの説明を聞きながら、シズクは感心した表情で青い石へと視線を注ぐ。指でつまんで部屋の明かりに透かしてみると、不思議な蒼が目に飛び込んでくる。神の力を宿す石。
 だが、こんなものをセイラがシズクに託してくる事に、少し不安も覚えた。リオやセイラが、シズクにこんな物を渡さなければいけない何かが、起ころうとしているのではないだろうか。考えすぎだと良いが。
 「そういえばさ、セイラさん一体イリスピリアに何の用事だったんだろうね。イリスに来れば分かるって言ってたけど」
 石を明かりに透かしながら、シズクが徐に口を開いた。
 ジュリアーノを発つ夜、セイラは確かそんな事をシズク達に語っていたと記憶している。水神の神子本人が、ほとんど極秘同然に動く用事だ。きっと何かとても重要な用件なんだろうと予想される。イリスに来れば分かるといった割に、今のところシズクは何にも知らされていないのだが。
 「さぁ。私も、手伝いといっても肝心な部分は、何にも教えてくれないのよね。ただ……そう言えば、今日は随分と機嫌が悪かったかな」
 「セイラさんが?」
 アリスの言葉に、シズクは意外そうに呟く。いつもへらへら笑顔のセイラが、ご機嫌な斜めな姿はシズクにはちょっと想像できない。
 「師匠の場合、機嫌悪いと笑顔に出るのよね。朝から怖いくらい満面の笑みなの。すぐに分かったわ」
 なるほどね、とシズクは噴き出す。笑顔でセイラの機嫌の具合を判断できるあたり、アリスはさすがセイラの弟子なだけある。シズクも旅の中で大分その辺のスキルは身につけていたが、まだアリスには遠く及ばないなと思った。
 「セイラさんが機嫌悪いなんて、よっぽどの事があったのかな」
 「さぁねぇ。師匠、意外と気が短いところもあるから、分かんないけど。ため息混じりに、『四面楚歌からの逆転はなかなか難しい』とか何とか言ってたような……」
 「四面楚歌?」
 その言葉に何故か心が、ざわりと震えたのを、シズクは確かに感じていた。






 翌日の昼、シズクはネイラスに呼ばれ、イリス魔法学校まで赴く事となる。
長い歴史を持つ、伝統あるイリス魔法学校。その噂に違わず、長い年月をかけて凝縮された、独特の雰囲気が漂う場所だった。シズクが訪れた時間は、魔法学校自体がまだ授業中の頃であったので、生徒達の姿はほとんど見られなかったが、休み時間ともなると廊下は生徒達の談笑で賑わうのだろう。
応接室のような部屋まで案内され、何をされるのかとどぎまぎしていたシズクだったが、知らされた内容は、何のことは無い、魔法学校に編入する前に行う、至極当たり前の事だった。ただ、シズクにとっては地の底よりもっと深くまで、気持ちが沈んでしまう事でもある。なんたってそれは――
 「では、こちらで測定をなさって下さい」
 エンジ色のローブに身を包んだ、教官と思しき女性から手渡された物を視界に入れ、シズクは思わずため息を付いてしまう。今自分の手の中に納まっているもの。それは、『魔力計』だったからだ。
 (そうだよね。編入する前に生徒の魔力を把握しておく事って当たり前だよね)
 心の中でひとり、泣き言を言う。
 編入する前に自分の魔力を測られるのは、当たり前と言えば当たり前の事。今の今までその事を考えに入れていなかった自分に、呪いでもかけてやりたい心境になった。軽い気持ちでネイラスの申し出を承諾してしまったのだが、こんな事なら承諾するんじゃなかったとまで思えてきてしまう。
 言わずもがなだが、シズクの魔力は、お世辞にも褒められたものではないのだ。魔力計が示すランクは『凡人+α級』。国立の魔法学校に入学できた事すら怪しいレベル。しかも、ただでさえ恥ずかしい魔力なのに付け加えて、今はすぐ隣にネイラスが居るのだ。彼は、
シズクがティアミスト家の血を引く人間だと知っている。リオやセイラから聞く限り、ティアミスト家の人々は、誰もがずば抜けた魔力を持っているらしいではないか。そんな人達とシズクが同等であると、ネイラスはきっと思っている。だから、正直魔力計で自分の魔力が示されてしまうのは非常に気まずい。
 「…………」
 しばしの間だけ躊躇したシズクだったが、訝しげにこちらを見やる女教官の視線に耐えかねて、意を決した。
 (えぇい、もうどうなってもいいや!)
 そう心の中だけで叫んでおいて、魔力計を小脇に挟んだのだ。
 心臓が奇妙なリズムで鼓動を打っているのが分かる。体が熱い。これが体温計ならば、間違いなくおかしな数値が出てしまうところだろう。だが、今計っているのは魔力を測る魔力計なのだ。現代の魔法知識全てを凝縮されたマジックアイテムが、間違った値を示す事など絶対に無い。
 「そろそろよろしいですよ」
 一分ほどして、目の前に居る女教官が優しくそう告げてきた。シズクとしては、このまま永遠に魔力計を小脇に挟み続けたい気分だったが今更仕方が無い。震える手で魔力計を引き出すと、表示されたランクを見る事無く、素早い動きで教官にサッと渡した。ネイラスに見られたくなかったからだ。
 魔力計を手渡された女教官は、表示されたランクを視界に入れたようだった。
 「……まぁ!」
 目を丸くすると、彼女は息を呑んだようだった。そんなにショックだったのだろうか。確かに、世界最高峰のレベルを誇るイリス魔法学校に、シズクのような魔力の低い生徒は相応しくないかも知れない。『凡人+α級』の表示を、この教官が教師生活の中で目にした事があるのかすら怪しい。
 はぁっとため息をつき、疲れた表情を浮かべるシズクの耳にしかし、飛び込んできたのは意外な言葉だった。
 「素晴らしいわ! さすが、陛下がご推薦される生徒さんなだけありますね!」
 「……へ?」
 瞳をキラキラ輝かせると、シズクに向かって、教官はそのようにのたまったのだ。対するシズクはというと、さっぱり訳が分からない。『凡人+α級』は、どう考えても『素晴らしい』ものではないし、シズクが素晴らしい魔力を持っている事など、更にありえない事だったからだ。
 不思議に思ってシズクは、魔力計のランク表示を確かめるために教官に詰め寄った。突然のシズクの行動に、教官も、後方に控えるネイラスも驚いたようだったが、今はそんな事は気にしていられない。教官の隣に寄ると、彼女の手に持たれた魔力計に視線を注ぐ。
 「……はい?」
 しかし、シズクの視界に飛び込んできたものは、もっと驚くべき光景だったのだ。

 『エルフ級』

 確かに魔力計の文字盤には、そう表示されていたのだから。



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