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第2章「イリス魔法学校」


2.

 水神の神子一行がイリスピリアに到着した翌日の朝の事。イリスピリア城の中を、きょろきょろと不安げな表情で歩く一人の少女の姿があった。こげ茶髪を一つに束ね、不思議な色彩を宿したその瞳は、先ほどから所在無さ気に宙を泳いでいる。幼い顔つきは、実年齢より彼女を幾分年下に見せる効果をもっていた。傍から見たら、まるで迷子のようだ。
 ――他でもない、シズク・サラキスである。
 朝のイリスピリア城内は、行き交う人々で混雑していた。一見すると、ここが城である事を忘れてしまいそうになるくらいの混雑具合だ。実は、大国イリスピリアの象徴的存在であるこの城は、単に王族達が住むだけの場所ではない。国の重要施設や機関として、国の要を担う機能も持っている場所なのだそうだ。
 城は主に3つのゾーンから構成されている。一つは、王族や国の重臣達が生活し、国の行政が行われるゾーン。二つ目は、学者や魔道士達が様々な研究を行う施設が密集しているゾーン。そして、三つ目が、イリスピリアという国を『あらゆる学問の集積地』と言わしめる要因となっているゾーン。――すなわち、世界最高峰の教育施設であるイリスピリア国立学校と、イリス魔法学校が存在する場所である。
 それらの事をアリスが教えてくれたのがつい昨日の夜の事。半端じゃない広さだから、いきなり一人で出歩くと、間違いなく迷う。だから、慣れるまでは城に詳しい者と一緒に行動した方が良い。そう忠告もして貰った。大人しくアリスの忠告を守っていたら良かった、とシズクは今更ながら後悔している。そう、彼女はただ今、どうしようもないくらいの勢いで迷子中なのだ。
 「…………」
 忙しなく行き交う人々の装いから、今居るここが王族の居住ゾーンでない事だけはうかがい知れた。皆一様に同じ服。つまりは制服を着ているところから、ここは国立学校の近くだろうか。もう間もなく朝の授業が始まるのかも知れない。少年少女達は、談笑交じりで歩きつつも、その足取りは遅刻しまいと少しだけ早足だった。
 正直、こんな場所に来るつもりではなかったのだ。シズクはただ、城の出口を探していただけなのだ。セイラの用事が終わったらイリスを去らなければならない。その前に、せめて少しの間だけでもイリスの町を散策してみたかった。無断で城を出るのが良いのかどうかは分からなかったが、出入り口の門番にでも声を掛けておけば良いと思ったのだ。ところが、足の赴くままに歩くうち、こんな場所まで来てしまった。辺りを見渡してみるものの、周辺地図などという便利なものは、もちろん存在しなかった。
 ならば道行く人に聞けばよいだろうと思ったが、朝のこの忙しない時間帯に、学生達の登校を遮ってまで出入り口に案内させる気にはなれない。もちろん、シズクに声を掛けてくれる人など皆無だった。なんだか一人取り残されたような気持ちになり、途方にくれかけていたシズクだった、が――



 「お嬢さん。道に迷われたのですかな?」



 声は、突然後方からかかった。
 「え?」
 思わずそう漏らして、シズクは足を止めると、声のした方を振り返る。朝の一番忙しないだろう時間帯に、よもや自分に声をかけてくれる人が居るとは思っていなかった。驚いたせいで、少しだけ心臓のリズムは速度を上げている。
 振り返った先に居たのは、一人の老齢の男性だった。老人にしては長身で、ゆたかな髭はサラサラと胸元くらいまで伸びている。髪の毛も髭ももちろん白。そればかりか彼が着ている衣装までもが白づくめで、彼の姿を視界に入れた瞬間シズクは少し目がチカチカしてしまう。唯一彼に色を添えているものは、優しそうに薄められた瞳だけだった。――新緑を思わせる、明るいエメラルドグリーン。
 先日まで一緒に旅をしていた少年の瞳と、その色も、雰囲気もひどく似ていて、シズクは一瞬どきりとした。イリスピリア人には、こういう色の瞳を持つ人が多いのだろうか。
 「国立学校の生徒さんでも魔法学校の生徒さんでも無いとお見受けしますが、城のお客様ですかな? 何かお探しですか?」
 「あ、はい。えっと……城の出口を……その、探していて……」
 老人の瞳の色に見入っていたシズクは、再びの彼の言葉に返事が一瞬遅れてしまう。しどろもどろにそう答えると、自分が焦っている事を誤魔化すため思わず苦笑いを浮かべた。そんなシズクの姿を、老人はしばしじいっと見入って居たが、やがて朗らかに微笑むとこう続ける。
 「ほっほ、出口ですか。確かにこの城は広い。初めての方ならば迷われても仕方ありません。それに今は朝だ、道行く者達は皆忙しないし、誰も声すら掛けてくれないでしょう?」
 「はい、全くその通りで……」
 ずばり今の自分の状況を言い当てられた気恥ずかしさで、あはは、と苦笑いを浮かべるシズク。すると、老人は突然その身をずずいっとシズクの方へ寄せてくると、小声で囁きだす。奇妙な老人だ。
 「でも、これにはね、理由があるのですよ。国立学校の学生も、魔法学校の学生も、皆遅刻すると酷いお仕置きを受けてしまうのですよ。全国的に見てもイリスの遅刻ペナルティは特に厳しい。一回遅刻しただけで、反省文1000文字に、放課後の掃除当番。あとは鬼教官からの説教。……もう、わたしがここに在学していた頃からの伝統でね」
 「反省文1000文字……」
 老人の言葉に、シズクは一種の眩暈を覚える。シズクの通っていたオタニア魔法学校でも遅刻の罰則は存在したが、さすがにここまで酷くは無かった。ナーリアあたりに説教をくらって、あとは少しだけ課題が増える程度だ。イリス魔法学校は世界随一のレベルの学校であるというが、どうやら罰則の厳しさも世界随一らしい。
 それにしても、この老人。どうやら国立学校か魔法学校の卒業生らしい。卒業生といっても、見たところ相当な年齢である。彼が現役学生だった頃とは、一体何十年昔の話なのだろうか。というか、そもそもこのおじいさん。何者なのだろう。
 じいっと老人を見つめるシズクの視線に気付いて、老人はまた、ほっほと笑った。
 「これは失礼。自己紹介が先でしたな。わたしはパリス。昔はこの国の政治に携わっていた者ですが、今じゃしがない隠居の身です」
 「パリス……さん」
 その名を聞いて、シズクの胸は嫌な音をたてて鳴った。

 (――パリス・L・ラグエイジ・イリスピリア57世)

 それは、ティアミスト家の先祖であるシーナ姫の弟の名前だから。それまで魔道の才を持つ者が王になるのが当たり前だったイリスピリアで、初めて魔道の才なく王の位についた人の名前。
 ――ティアミスト家とイリスピリア王家の関係の始まり。

 (……いや、しばらくはもう、考えるのは止そう)

 そう結論付けると、シズクは暗い方向へ向きかかっていた考えを中断した。そして、パリス老人に心中を悟られないよう曖昧な笑顔を作り、彼のエメラルドグリーンの瞳を見つめながらシズクもまた、自己紹介をする。
 「シズク・サラキスです。オタニア魔法学校の生徒で、今は依頼人の付き添いとしてここに滞在しているんです」






  「――ねぇ、あれってリース様じゃない?」

 声は、忙しなく歩く生徒の一人からかかった。その声が引き金になって、登校中の生徒達は一時だけ足を止め、ある一点を凝視する。彼らの視線の先には、目が眩むほどの美貌を備えた二人の人間の姿があった。
 一人は絶世の美女と謳われるこの国の王女、リサ・ラグエイジ。そしてもう一人は、ここ一ヶ月程国を不在にしていたリース王子であった。
 彼ら二人もまた、普段はここ、イリス国立学校で勉学に励む生徒の一人である。だが、ことリース王子に関しては久しぶりの登校であった。

 「戻ってきてたんだ。なんでも、王様の言い付けでレムサリアまで行ってらしたみたいよ」
 「へぇ。一体何の用事なんだろうね、王子が動く程の用事って」
 「いいじゃないそんな事。きっと私達の様な平民にはあずかり知らないような事よ。私にとっては、リース様の姿をまた毎日見られるようになった事の方が大事ね」
 「あ、それ思う思う! 目の保養よねー」
 口々に囁かれる会話の中に、次第にそんな黄色いものが混じりだし、それと同時に漏れる乙女達の憧れの溜め息。
 この国の次期後継ぎと言われ、その言葉を裏付けるかのように、ずば抜けた才気と剣の腕を持つリース王子。更に、姉に負けず劣らずの整った容姿を持つものだから、学校中の乙女達を夢中にさせてしまうのも無理がない訳だ。
 だが、こと本人にとってそれは、なんとも居心地の悪いものであるらしい。



 「……久しぶりの登校っていうのに、相変わらずモテモテねーあんた。さっすが次代のイリスピリアを背負う者ってか?」



 周囲の様子を確認した後で、隣を歩く弟へ向けて面白がるような調子でリサが言う。対するリースはというと、眉間に皺を寄せて、これでもかというくらいに不機嫌な表情を浮かべている。
 「まだ別に俺が王位継承者って決まってるわけじゃねーだろう。あんたにも継承権はあるんだから」
 「あら、私は絶っ対女王になんてならないわよ、面倒くさい。何なら今ここで継承辞退を宣言しても良いくらいだわ。というか、姉を『あんた』呼ばわりするのは感心しないわねー」
 唇をとんがらせて不服そうな表情を浮かべるリサ。そんな姉の様子に、リースは学校へと続く廊下を歩きながら、深い、本当に深いため息を一つ落とした。
 「そんな事よりも、だ。なんで俺の後を着いてくる! いつも一緒に居る女友達はどうしたんだよ」
 先ほどよりも更に不機嫌そうな顔で、リースは乱暴に言い捨てる。
 そうなのだ。普段ならばリサは、学校の女友達と行動を共にしているはずなのである。それに、たとえその女友達が学校を欠席していたのだとしても、彼女は絶対に弟であるリースと行動を共にするはずはない。二人一緒にいると、いろんな意味で目立つからだ。リースとしては、今すぐにでもどこかに追い払いたい。
 「エリザには先に行ってもらったわよ。何よその態度は。つれない男ねー! 『シズクちゃんを助ける同盟』を結んだ仲とは思えないわ!」
 「そんな同盟いつ結んだんだよ! 俺はそんなの――」
 「じゃああんたはこのままでいいと思ってるの?」
 「は……?」
 突然姉の表情が真剣なものへと変化したものだから、思わずリースはその場で足を止めてしまった。
 「…………」
 二人が急にその場に立ち止まった事に、周囲の生徒たちは一瞬怯んだ様子だったが、すぐにまた、何事もなかったかのように朝の行進を再開し始める。ただ一点、リースとリサの周囲を残して、朝の忙しない雰囲気が流れていく。取り残されたリース達の周囲はというと、少しだけ何かが張り詰めたような空気。
 「このままで良いって……何がだよ」
 「シズクちゃんよ! このままじゃあの子、セイラ様の用事が済んだらここを出て行っちゃうのよ? そしてきっと、二度とここへはやって来られないでしょうね。もう会えなくなるかも知れないのよ? それでいいの?」
 少し怒ったような口調で言われて、リースは怯む。彼女の言葉に、ぎくりと胸が鳴ったのは気のせいだろうか。

 ――残された手段は、そう多くないですね。

 シズクがイリスピリア王に拒絶された以上、彼女がこの国に居続ける事は得策ではない。セイラのここでの用事が終わったら、きっとイリスを出るのがシズクにとって一番良い方法なのだろう。昨日セイラが言っていたように、東の森の魔女に預けられるか。シズク自身が希望するのならオタニア魔法学校に帰るのかもしれない。そんなこと――
 「……別にいいじゃねーか」
 「は?」
 「あいつがここに居ることに、何か大きなメリットがある訳じゃないだろ? どうせ遅かれ早かれ、あいつはセイラと一緒にこの国を去る予定だったんだし」
 呆けた状態のリサの方へ向き直ると、不機嫌な表情はそのままにリースは言った。
 そう、シズクがイリスに滞在する事に、何か大きな意味があるかというとそうではないのだ。ここで彼女が何かをしなければならない訳でもなければ、誰かと会う予定も無い。せいぜいイリス観光くらいが彼女にとって重要な問題だろう。
 ティアミストの事について知りに来たという面もあるだろうか、昨日の件でひょっとしたらその気を無くしてしまったかも知れない。それに、リース個人としては、深くまで知らないほうが良いとさえ思う。知らないほうが幸せな事が、世の中にはたくさんあるのだ。
 「いい訳ないでしょう! あの子と二度と会えないなんて私は嫌よ! せっかく私好みの義妹候補が出てきたのに、このまま指をくわえて見てるだけなんて絶対嫌」
 「誰が義妹だ! 勝手に決めるなって! それに、どうせあいつは――」
 「違うわよ! 私が聞きたいのは、シズクちゃんがどうとかそういうんじゃない。リースがそれで良いと思ってるのかどうかよ!」
 「――へ?」
 (俺が?)
 目の前で恐いくらい真剣な表情で、毅然と言い放つ姉の姿を、今度はリースが呆けた顔で見る番だった。ふんぞり返って息を荒げると、リサは更に言い放つ。
 「リースはシズクちゃんと二度と会えなくなっても良いの? このまま後味悪く、彼女がこの国を去ることに納得できるわけ?」
 「…………」
 「私は納得できないわ! いくらティアミスト家とイリスピリア王家との関係が訳有りでも、お父様が昨日のような態度をシズクちゃんにとった事は許せないし、お父様の訳の分からない態度が原因でシズクちゃんに迷惑がかかるなんて、娘として恥ずかしいったらありゃしないわよ。なんとかしなきゃ!」
 そう言って、リサは右手で握りこぶしを作ると、やる気満々の表情でうんうん頷く。シズクをこのまま帰らせてなるものかと、戦闘態勢である。この姉は、やるといったら絶対やる人だ。少々の壁や敵は、あっさりと打ち抜いてしまいかねない。今回は敵が、少々どころかかなり強大だとは思うけれど。
 「…………」
 俄然やる気の姉に対して、リースはというと気だるそうに瞳を閉じると、ため息を一つついた。
 (シズクと二度と会えなくなる、か……)
 一ヶ月弱だけだったが、シズクとは随分内容の濃い関わり方をしたと思う。平気かどうかというと、そりゃぁリースだって彼女と別れる事に寂しいと感じなくも無い。昨日の父親の態度にしたって不服だし、納得できているかと聞かれれば、ノーと答えるだろう。
 だが――



 「……どうにも出来ないだろ、俺達じゃ」



 深いため息を一つ。
 たとえリサが、シズクがこの国を去る事に反対で、それを引きとめようとしたところで、自分達に出来る事は少しも無いのだ。確かにリサとリースはこの国の王女と王子だ。だが、そういう大層な肩書きが表面的に存在するだけで、結局はまだ子供なのだ。父親であり、この国の指導者である王に逆らうことは出来ない。何の発言力もないし、自分達が何らかの行動を起こしたとしても、それに同調して動いてくれる人間の数などたかが知れている。
 どうにもならないのだ。相手が悪すぎる。
 もう一度ため息をついて、隣に佇む姉を見ると、彼女は表情というものをその整った顔から完全に消し去って、ただ真っ直ぐにこちらを見つめていていた。
 「……リース、それって何ていうか知ってる?」
 重苦しい沈黙を裂いたのはリサだった。瞳を細めて、リースを睨みつける。表情の無かった彼女の顔に、徐々に感情が浮かび始める。決してリースに対して友好的ではない感情が。
 「『逃げ』って言うのよ。そんな様子だと、あんたもさぞかし、ご立派なイリスピリア王というやつになれそうね」
 それまでとは違う、冷ややかな視線をリースに浴びせてくると、とどめの一撃とばかりに最後にこう言った。

 「私は納得できるまで逃げたりなんてしないないわよ」



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