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第3章「秘密会議」



6.

 頭の中を思い切りかき回されたみたいに、思考がまるでまわらない。混濁する意識のままで、時々足を引っ掛けて転びそうになりながら、シズクは城の廊下を駆けていた。何処をどう走ってきたのかも分からない。また、自分がこれから何処へ向かおうとしているのかも考えていない。とにかくあの会議室から出来るだけ遠く離れたかったのだ。
 はあはあと息が切れる。やがて、走る事にもいい加減疲れて、シズクはよたよたとした動きで城の石壁に手をついた。重い倦怠感が身体に纏わりついてくる。冷静になろうとつとめても、シズクは動揺しっぱなしだった。考える事すら、今は出来ない。
 右の手のひらから伝わってくる、石壁のひんやりした感覚だけが現実味を帯びる。未だ激しく鼓動を打ち続ける心臓をおして少しずつ歩き出すと、ようやくシズクは、今自分が何処に居るのか確認するだけの余裕を持ち始めていた。
 王家の居住エリア自体、自室付近以外はうろついた事がないために、全くここが何処だかは分からない。天井がやけに高い。おかしな事に、先ほどまでシズクが居た廊下には、飾り窓や明かりを入れるための窓が多く設けられていたのに対して、今居るこの廊下にはそれが全く存在しなかった。廊下を照らす唯一の明かりは、等間隔に置かれたランプだ。赤々とした光を放つ、一般に多く使われているランプとは違い、見回す限りの場所に取り付けられたランプから漏れる光は薄青かった。そう、魔法の光である。それだけでも十分異様なのに、この妙な閉塞感は何なのだろう。まるで、長期間開けられた事がない扉を開けた後のような――
 (ここは?)
 この場の異常さを感じ始め、不安でシズクはきょろきょろ付近を見回った。丁度その時だ。カツンと、靴音が石壁に響いたのは。



 「えらく、動揺されているようですな」



 声のした方を、シズクはゆっくりと振り返る。靴音と共に現れたのは、白い老人。瞳には、こちらを気遣うような色が見受けられた。
 「パリスさん……」
 「ご自分の置かれている立場。少しは理解出来ましたかな」
 全身白づくしのパリス老人は、シズクの目の前まで辿り着くと歩みを止めた。魔法の光に照らされた老人の姿は、シズクの瞳に少しだけ不気味に映る。彼に誘われるままに来て、先ほど目撃した光景に、まだ心臓は早鐘を打ち続けていた。シズクは、パリスに不信感を抱いてしまっているのだ。一体この老人は、何者なのだろう。と。
 薄青い光に照らされて、普段は生き生きとした若葉の色を称える老人の瞳は、今は濃いブルーに怪しく光る。

 「……何故、わたしなんですか」

 予想していたものより、唇から飛び出した声は遙かにか細かった。気がつけば、全身震えが止まらない。
 「何故、何の力も持たないはずのわたしが?」
 言って、シズクはパリス老人をゆっくりとした動きで見上げる。
 シズクは、魔力を下ろす器は馬鹿でかいが、魔力が低く、勉学に関してもさっぱりで、魔法学校においてはいわゆる落ち零れの人間だったはずなのだ。得意なものといえば体術面で、魔法が苦手で棒術が得意な魔道士なんて。と、よくアンナに苦笑いされていたものだ。だから、自分が勇者シーナの末裔だと知っても、いまいちしっくり来なかった。未だになにかの間違いではないかと思う事もある。絶世の美女と言われる勇者シーナのように自分は美人ではないし、彼女のような優秀な魔道士にはなれそうにないからだ。そんなシズクが、一体何故、水神に予言されてしまったのだろう。
 「ティアミスト家の魔道士達に、例外はありませぬ。貴方の内に眠る魔力もまた大きく、お母様であるキユウ殿に勝る程だ。貴方が気付いていないだけで」
 ほとんど泣きそうな状態で見つめてくるシズクに、パリス老人は切なげな苦笑いを返す。
 「それだけではない。歴代のティアミストの魔道士達とは決定的に、貴方は違っている」
 そうして、彼は、シズクとは視線を外して、廊下の続く先を見た。
 「貴方は……似ている。似すぎているのですよ」
 「え?」
 (似ている? 誰に?)
 パリス老人の不可解な言葉に、シズクは声を漏らして顔をしかめる。だが、白い老人はそれきり何も言わない。代わりに、廊下の続く先を、まるで何かにとり憑かれたかのように見つめ続ける。ここから見える彼の横顔は、酷く悲しげに見えた。
 不思議に思って、シズクも彼の視線を追う。未だ混乱する頭で、それでも必死に廊下の続く先、パリス老人が見つめる先を振り返った。

 「――――」

 その瞬間、心臓がもてる限りの力を振り絞って鼓動を打ったようだった。そうしてそれを皮切りに、拍動は一気にスピードを上げる。血流がすぐ耳元を、波打つように過ぎていった。
 視線の先には、小さな部屋のようなものがあった。石壁はそこで行き止まりである。そして、青白く輝く石壁の上には、一枚の絵画が飾られて居たのだ。
 (まさか、そんなはずは)
 全身から汗が噴き出していた。疲労で重みを感じる身体をおして、シズクは絵画のほうへと足を踏み出す。絵画が徐々にはっきりと見えるようになってくると、いよいよシズクの緊張はピークに達していた。歩みも徐々に速度を上げる。
 カツンッと靴音を響かせて立ち止まった時、シズクは絵画のすぐ目の前に立っていた。呼吸が荒い。さび付いた人形のようなぎこちない動きで、首を上げる。
 絵画は肖像画だった。それも幼さが残る少女のものだ。鮮やかな青い瞳に、流れるような長い髪の毛の色は金。清楚なドレスに身を包み、その額には銀色の細い輪がかけられていた。王女の証だ。だが、そんな事は大して問題にはならない。最も問題なのは、肖像画の少女の容姿にあった。
 (まさか)
 少し緊張した面持ちで、凛と微笑む少女の顔は――まさに今その絵の目の前に佇む、シズクと同じ顔をしていたのだから。
 呼吸が荒い。必死で空気を吸っているはずなのに、ちっとも楽にはならない。それどころか、ますます気分が悪くなっていく。
 「……誰?」
 こんな肖像画、自分は知らない。描かれている少女は、容姿以外の特徴から言っても間違いなくシズクではないだろう。だが、逆を返せば、容姿だけをとると、全くもってシズクそのものなのだ。そっくりなどという次元ではない。瓜二つという表現が、最もふさわしい。
 「これは、誰なんですかっ!?」
 殆ど悲鳴のような声で、シズクは必死でパリス老人に問いかける。答を知りたいと思うと同時に、知りたくないと心が泣き声を上げた。自分が今思っている事を、目の前にいるこの老人に完全に否定してもらいたい。だがきっと、パリス老人はそうしてくれないだろう。正しい答を、シズクに言ってしまうのだろう。



 「少女の名は、シーナ」



 声は、重々しくシズクの耳に飛び込んできた。
 「シーナ・レイシャナ・ラグエイジ・イリスピリア王女。歴代最高といわれるほどの魔力と学力を持ち、王位には彼女しか居ないと言われていた人。そして……500年前、世界を救った悲しい救世主でもある」
 部屋に、パリス老人の声は朗々と響いた。カツンカツンと、彼がシズクの元に歩いてくる音が聞こえる。やがて老人は、シズクのすぐ隣までやって来ると、魔法の光を受けて怪しく輝く瞳をこちらへ向けて、再び口を開く。
 「ティアミスト家の祖。シーナ・ティアミスト。金の救世主(メシア)。……シズクさん、貴方はシーナに似すぎている」
 パリス老人にそう言われた瞬間、荒く呼吸を繰り返す喉から、ひっと空気が漏れる音が響いた。悲鳴にならない悲鳴を上げて、次第に目の前が白くなっていく。
 「――――っ」
 ふぁさと倒れゆくシズクの身体をパリス老人が受け止めた時には、彼女は既に気を失った後だった。






 「……光でもあり、闇でもある。か」

 肖像画の中で微笑む少女に向かって、パリス老人はぽつりと呟いた。そうして、普段は若葉の色をしているはずの瞳を、すうっと薄める。それは、過ぎ去った何かへと向ける、憧憬の眼差しであった。
 老人の腕の中では、焦げ茶髪の少女が眠っている。肖像画に描かれた少女――シーナと、全く瓜二つの顔を持つ少女が。その寝顔には、濃い疲労の色が満ちていた。そっと額を撫でてやると、汗をびっしょりかいている事が分かる。今頃夢の中で、うなされているのかもしれない。
 「悪い事をしてしまいましたな……」
 『全くその通りね!』
 その時だ。独り言のつもりで零したであろう言葉に、鋭い突っ込みが飛んだ。それまでパリス老人とシズク以外、存在しなかった空間に、新たな声が現れたのである。
 「…………」
 だが、老人は全く動じない。方眉を少しだけぴくりとさせただけで、冷静な表情で、声のした方を振り返った。
 「――お久しぶりですな。偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)」
 視線の先には、人間の女性とほぼ同じ大きさで具現化した、伝説の杖の姿があった。その足元には、青く光を反射するクリスタルのかけらが落ちている。シズクが先日アリスから渡されていた伝説の杖、偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)のかけらである。先ほどシズクが気絶した際に、床に転がり落ちてしまったらしい。
 リオは、憮然とした表情で、サファイアの瞳を鋭く吊り上げ、パリス老人を睨みつける。
 「会議は宜しかったのですかな」
 『終わったわ。つい先ほどね』
 そうですか。と穏やかに告げて、パリス老人は豊かな笑顔を浮かべる。だが、老人の笑顔にも、リオは少しも表情を緩めたりはしなかった。いや、それどころか、ますます怒りの度合いを強くしていく。
 『一体どういうつもり? 何故貴方がこんな所に存在しているの!?』
 ほとんど怒鳴るような口調で、リオが言い捨てる。その表情には怒りに加えて、徐々に焦りと驚愕が共存し始めていた。それだけリオにとって、パリス老人の存在は意外なものだったのだろう。
 「別に私自身、どうするつもりもありませぬよ。ただ漂い見守る。時々手を貸す。それだけの存在ですから」
 『私はそんな事を聞きたいんじゃないわよ。賢人と呼ばれた貴方なら言わなくてもそれくらい分かるでしょう?』
 薄く微笑みながらのパリス老人の言葉を、リオはぴしゃりと切り捨てる。そして、眉間に刻んだしわを、更に深くした。カツン。と一歩だけ老人の方へ向けて足を踏み出す。
 『私が聞きたいのは、何故貴方がこの時代に存在出来ているのか。それが知りたいの。ねえ? 一体何故なのかしら? ――パリス・ルルフォス・ラグエイジ・イリスピリア57世』

 ――パリス・ルルフォス・ラグエイジ・イリスピリア57世。

 それは、歴代で初めて魔道士ではない王として即位した人物の名前だった。すなわち、金の救世主(メシア)と呼ばれる勇者シーナの弟に当たる人物。500年前を生きた、一人の王の名だ。
 人間として、500を超える年月を行き続けられるはずはない。そんな事が出来るのは、永遠の命を持つと言われている、東の森の魔女だけだ。だが現に今、パリスは確かにここに存在している。幽霊でも幻でもない。形ある人間として。
 リオのこの言葉に、さすがのパリス老人も観念したらしい。鉄壁のバリアのように張られていた笑顔を解除すると、まるで本性を現したように、急に真面目な表情を浮かべるのだ。イコールそれは、リオの言った言葉を肯定したという事であった。
 「…………」
 両者はしばらくの間、黙ってにらみ合いを続ける事になる。ぴりぴりと肌が泡立つほどの沈黙が、薄青い小部屋に漂い始める。魔法の光が込められたランプが、その場の雰囲気を重くするのに一役かっているようだった。



 「……私はね、一人の男の、想いの抜け殻ですよ」



 沈黙を裂いたのは、パリス老人の方だった。ふっと自嘲的な笑みを浮かべると、彼はもう一度、肖像画へと視線を寄せる。肖像画の中の少女は、微笑を称えた表情のまま、パリス老人とリオのやりとりを見守っているようだった。
 「もういい加減、見ているだけというのにも疲れたのです」
 たった一人の姉であったシーナの肖像画を前に、秘めた思いを告白するような口調で彼は言う。
 「長い間、ずっとイリスピリア王家とティアミスト家の者達を見守り続けてきた。ただ一つの願いを持って。私であった人間の、想いの結果を見届けるために」
 だが。とパリス老人は続ける。
 「500年経っても、状況はちっとも変わらないではないですか。貴方もそう思うでしょう? リオ。かつて私であった人間が望んだ結果には、ちっとも至ってはくれない。だから――」
 『だからシズクに、こんな思いをさせたというの?』
 謳うように紡がれていたパリス老人の言葉を、リオは鋭い口調で一刀両断にした。そうして視線を、老人に抱かれているシズクへと向ける。
 『杖は感情を持たないなんて嘘ね……。500年前のあの時も、そして今も、私はこんなにも胸が苦しい』
 瞳を潤ませながら、悠久の時を生きてきた杖は、吐き捨てるように言った。
 素直で明るいはずだった少女が、今はこんなに疲れきった表情で悪夢にうなされている。彼女自身には、何の非もないというのに。ただ、勇者の血を引き、水神の予言に示されてしまった。たったそれだけの理由で、彼女は今、救世主に担ぎ上げられるか、闇として排除されるか。そのどちらかが決定されようとしている。シズク自身は絶対に、そんな事は望んでいないだろうに。
 『貴方がシズクにしている事は、現代のイリスピリア王達とちっとも変わらないわ、パリス・ラグエイジ。彼女をここまで追い詰めて、貴方が叶えたかった願いが叶うとでも言うの?』
 親が子に涙ながらに説教をするような口調で、リオはパリス老人に問う。視線の先で、かつてこの国の王であった老人は、ただ黙してこちらを見つめるのみだった。



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