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第3章「秘密会議」



8.

 ふわふわした感覚のまま、シズクは学園エリアの廊下を歩く。ジャンに言われるまでは意識していなかったが、指摘されて意識し始めると、一気に気分の悪さは増したようだった。毎日通っている、たいした距離ではない帰り道も、倦怠感が纏わり付いたこの体では、迷宮に迷い込んだのではないかと錯覚するくらい長く感じる。元来健康優良児だったシズクが今のような体調不良に見舞われるのは久しぶりの事だった。

 (……なんか、もう全部がどうでもいい)

 とんでもなくネガティブな台詞が胸中で漏れる。シズクらしくないと自分でも思う。重症だ。
 イリスピリアに来てから、もう一体何度心を擦り削られただろう。いろいろな事が起こりすぎて、頭がぐちゃぐちゃだ。周囲の状況に置いていかれないよう、気持ちだけはしっかり持とうとしていたが、それも所詮は無理な話だった。大波に揺れる船から投げ出され、荒波が渦巻く孤島にたった一人で取り残された気分だった。誰を信用して良いものかも、分からなくなってきている。
 (オタニアに、帰りたいな)
 懐かしい人達の顔が浮かんで来て、視界がゆらゆら揺れた。つんと鼻の奥が痛くなる。
 イリスピリアに向けて発つ前の晩、セイラはシズクに、後悔していませんか。ときいてきた。その時はまだ、こんな事態に陥るとは、予想もしていなかったのだ。自分の過去と出身を少しだけ知って、知りたいという欲求は益々強くなった。イリスピリアに行って、王様に会えば、母の事を詳しく知れると思っていた。歓迎してもらえるものだと、漠然と思ってしまったのである。そんな保障、どこにもなかったというのに。
 後悔するかどうかは、全てが終わってみないと分からない。そう言ったはずのシズクの中に沸き起こるこの感情は、『後悔』というものなのだろうか。何一つ分からないこの状況で、既にシズクは後悔してしまっているのだろうか。
 「…………」
 ぴたりと立ち止まって、シズクは視線の先を見つめた。食堂へと続く廊下にある、ひっそりとした横道。あの展示室へと続く廊下が見える。
 もう今は何も考える気にはなれなかった。それなのに足は、自然と展示室へと向いてしまう。
 放課後の時間を過ごす生徒達の談笑は、展示室の廊下に入るとやんわり小さくなる。落ち着いたこの場所の空気に触れて、少しだけシズクは気持ちが楽になった気がした。
 (……どうしたら良い?)
 ずらりとガラスケースに並ぶ金のトロフィー。その一つに向かって、シズクは心の中で零す。何度か通ううちに、ぱっと見ただけで見つけられるようになってしまった。そのトロフィーだけ、シズクには他のものより何倍も光り輝いているように見える。キユウ・ティアミストのトロフィーである。
 (…………)
 二十数年前に母が受けたトロフィーからは、もちろん返事など帰って来る事はなかった。母はもう居ないのだ。僅かに記憶の中にあるあの戦いの折に、命を落としてしまったのだ。だからこんな事をしたって、何も起こらないし変わらない。だが、それでも何かにすがりたいという気持ちは消えなかった。自分ではもう、どうするべきか分からなくなっている。このままここで、救世主という大層な肩書きを与えられるか、世界にとっての不安材料として排除されるのか。そのどちらかが決定されるのを待っているだけなのだろうか。



 「――助けて欲しい?」



 そんな時、しんみりした空気に舞い込む声があった。
 くすくすと笑いをかみ殺すような、ほんの少しだけ幼いテノール。柔らかい響きの声に、普通の人ならば安らぎを覚えるのだろうが、シズクがそれを聞いて感じたものは、戦慄だった。
 「――――!」
 物凄い勢いで声のした方を見る。心臓が鼓動の速度を上げているのが分かった。それは、倦怠感が全身を支配する今では、ますますシズクの気分を悪化させる要因になってしまう。
 視線の先に居たのは、久しぶりに見る顔だった。だが、シズクとしてはもう二度と見たくはないと思っていた顔である。しゃらりと絹糸のように揺れる銀色の髪、シズクの方を見つめてくる瞳は、月夜の湖面を思わせるブルーだった。魔族(シェルザード)の証。
 「クリ……ウス?」
 シズクがオタニアから旅立つ要因になった、エレンダル・ハインという高名な魔道士が居た。魔道士は永遠の美を追い求め、とち狂った挙句に、何人もの美女の命を奪う結果となった。その事件の元凶でもある、魔族(シェルザード)の少年。彼が今、目の前に存在しているのだ。
 後ずさろうとして、自分の後方にはトロフィーが立ち並ぶガラスケースがある事に気がつく。ほとんど1メートルも後方に下がる事は不可能である。更に今のシズクは、この上なく体調不良な状態なのだ。
 (マズイ……)
 以前彼と戦った時に比べて魔力は上がったようだったが、それが原因で最近シズクは魔法のコントロールが下手になっている。こんな状態で、彼と戦ってもシズクにはもちろん勝ち目などない。背中を冷たいものが走り抜けた。
 「そんなに警戒しないでよ。大丈夫、今日は戦うつもりで来た訳じゃないから」
 警戒心を丸出しにしているシズクを見て、クリウスは苦笑いを零す。そうして美しい双眸を無邪気に薄めた。
 「信じてもらえないだろうけど、今回は君の味方だよ、シズク。君に忠告しに来たんだ」
 すたすたと歩き出すと、クリウスはシズクの目の前まで迫ってくる。近距離で見える青い瞳は神秘的で、まるで引き込まれそうな錯覚に陥る。
 「この前まではわたしたちを殺そうとしていたのに?」
 信じられるわけがない。眉間にしわを寄せると、シズクはそう吐き捨てた。だが、美貌の少年は全く動揺を見せない。
 「前は違う件で動いていたから。でも、今回は別件」
 魔族(シェルザード)にもいろいろあるんだよ。と言うと、クリウスは苦笑いを浮かべる。その表情は、それまでの役者然とした微笑とはまるで違っていて、彼の本心をそのまま顔に表したものだと思えた。以前会ったときと、少しだけ雰囲気が違う?
 「…………」
 そこまで認識すると、シズクはクリウスに向けている警戒を少しだけ解く事にする。何故だか彼のその表情が、自分に対して嘘は言わない。そう語っているように思えたからだ。警戒心を解いて行くと、気分の悪さも少しだけ回復したように思える。
 一方のクリウスは、シズクのこの反応を見て喜んだようだった。ニコリと微笑むと、「助かるよ」と小さく囁く。
 「それにしても、この城、危ないよ。以前は強固な魔よけの結界が張られていたみたいだけど、最近じゃすっかりその効力が落ちてる。悪意を跳ね除ける力も失ってしまっているね」
 「え?」
 クリウスがあたりをきょろきょろ見ながらそんな事を言ったものだから、シズクは思わず目を見開いた。
 イリスピリアは魔道の国として有名である。そして、イリス周辺に張り巡らされている結界も、世界で最も強固且つ高度であるという話はとても有名だ。普通の町に張り巡らされている結界は、単に魔物を退けるためだけであるのに対して、イリスに張られている結界は、それに加え、悪しき者や強烈な悪意まで跳ね除ける。つまり、極悪人が入って来にくいのだ。イリスの町が、他の町に比べて犯罪の発生率が低いのはそこに所以がある。その、国の象徴とも言える結界が衰えてきているとは――
 「まぁ、以前張りなおしてから13年も経っていたら仕方のない話だよね」
 「13年?」
 クリウスの言葉に、シズクは首を傾げる。結界を13年も放置とは、どう考えてもおかしな事だったからである。普通の結界は、例えそれがどんな僻地にあるものであっても、一年に一回は点検が行われる。更に言うと、最低でも五年に一回は張りなおしが行われるのが常なのだ。大都市イリスともあろう場所の結界が、そんなにずさんな管理で良いのだろうか。
 「意外? でもね。仕方ない事だよ。ティアミスト家が滅びちゃったからね……」
 「え――」
 少しだけ悲しそうにクリウスがそう言ったものだから、シズクの心臓はどきんと大きく跳ね上がっていた。ティアミスト。その単語を耳に入れて、また気持ちが重く、沈んでいく。倦怠感が更に増したようだ。呼吸も苦しくて、胸元に右手を押し付ける。
 「……辛そうだね」
 労いとも言える言葉は、他でもないクリウスからのものだった。虚ろな視線で彼のほうを見ると、彼は眉間にしわを寄せて、同情とも気遣いともとれる表情を、恐ろしく整った顔に浮かべている。
 「その様子だと、ティアミストについていろいろと知っている風だけど……シズク。これ以上知ろうとするのはやめなよ」
 ざくりと心臓をえぐられたような気分だった。目の前のクリウスは、真摯な瞳をシズクへと投げかけている。本心からの心配がその瞳には浮かんでいるような気がする。ついこの間まで彼が敵であったという事実をシズクは危うく忘れてしまいそうになった。
 知ろうとするのをやめたほうが良い。確かにそれは、シズク自身思っていた事だ。単純に、シズク自身が知りたいと思い、いろいろと調べたりきいたりしたのだが、知れば知るほど、分かってくる事実は自分の身に余る話だったからだ。でも……
 「これ以上知っても、良い事なんて一つも出てこないよ。だから――」

 「わたしの母は、魔族(シェルザード)に殺されたのよ」

 クリウスの言葉を半ばで遮ると、シズクは出来る限りの力で、鋭く彼を睨みつけていた。
 知れば知るほどにどんどん大きくなる話。でも、出てくる話は皆シーナに関するものばかりで、肝心の部分は全く知る事ができていない。すなわち、シズクの町は何故襲われなければならなかったのか。何故自分は、記憶を失ってしまったのか。
 今目の前に佇む銀髪の少年の一族が、自分達が住んでいた町を火の海に変えたのだ。その彼に、そんな事を言われたくはない。同情の言葉も労いの気持ちも、彼から与えられる事に違和感を感じてしまう。
 「……分かった。もうこの事についての話はやめるよ」
 シズクの顔を、少しだけ悲しそうな目で見つめながら、クリウスは肩をすくめて言った。言い訳もしなければ弁解もしない。
 「本題に戻ろう」
 そう言うとクリウスは、先ほどまでの感傷的な表情は消し去って、いつものあの、何を考えているのか良く分からない表情に戻っていた。シズクにしてみれば、どこか煮え切らない事だったが、彼が話を切り替えると言ったので仕方がなかったし、さきほどの話を再びぶりかえすのも気が進まない。気を取り直すとシズクは、未だ少しだけ警戒心を宿す瞳でクリウスの方を見つめなおしていた。
 「忠告の内容は、『気をつけたほうがいいよ』って事。さっきも言ったように、この国の結界は、君達人間が思っている以上に弱体化してしまっている。悪意のある者でも今ならフリーパスさ。……ルビーが何やら不穏な動きを見せている」
 「ルビー?」
 聞きなれない単語に、シズクはしかめ面をした。
 「この前、君の前に現れた女の名だよ」
 クリウスに言われ、首筋がぞくりとなって、思わず手をそこに持って行ってしまう。あの時の感覚を思い出してしまったのだ。
 自分がティアミストの人間だとリオから知らされたあの晩、シズクの目の前に現れて、銀のネックレスを奪おうとした謎の女。肩までの赤髪に、瞳の色はクリウスと同じ、夜の湖面を思わせる落ち着いたブルーだった。それは、魔族(シェルザード)の証である。あの女、ルビーという名前だったのか。
 「彼女は狡猾だから、何をしてくるのか分からない。あの時のように、君を殺す事も厭わないだろう」
 しかめ面を作ると、大層嫌そうな顔でクリウスは言い放つ。どうやら彼は、ルビーというあの女の事がそれほど好きではないらしい。だが、シズクには引っかかる部分が多々あった。
 「……あの時、あの女と共謀してセイラさんの元に押しかけたのは、貴方なんじゃないの?」
 そう、確かにそうだった。あの晩、セイラの杖を奪いに来たと見せかけるために、クリウスがセイラとリースの寝室に侵入したのだ。要するに彼は、ルビーの協力者だった事になる。
 「あの時は仕方なかったんだよ。それに、ルビーがあそこまで手荒になるとはさすがに思ってなかったしね」
 言って、申し訳なさそうにクリウスは肩をすくめた。
 「でももう彼女とは組まない。今も僕は彼女とは別に行動しているよ。だから、気をつけた方が良い。僕にも彼女がどうするつもりなのかは読めないから」
 「なんで、あんたがわたしにそんな忠告を?」
 警戒心で瞳を細めて、シズクは言う。視線の先でクリウスは、苦笑いを浮かべていた。
 シズクの質問に、クリウスはどう答えたらよいものか思案しているようだった。困ったように首を捻り、浮かべる表情は誤魔化すようなものばかり。だがやがて、気持ちが固まったのか、こう言葉を紡ぐ。
 「……君を助けたがっている人物が居るって事だよ。救世主だの世界の滅亡だの、こんな馬鹿らしい事件の波から、君を遠ざけたいと思っている人物がね」
 「それは一体、誰?」
 シズクの質問に、今度はクリウスは答えない。困ったような表情で苦笑いを浮かべると、沈黙を保つ。教えられない。そういう意味なのだろう。
 「意味が分からないわよ……」
 だが、クリウスが答えるか答えないかは、シズクにとって大した問題ではなかった。彼が現れたことも、驚きはしたが、彼に敵意がないと分かった今では事件と呼べるものではない。それくらい、シズクの周りでは、大小様々なごたごたが起こりすぎていたのだ。息つく暇もないくらいに、次から次へといろいろやってくる。
 「何でわたしにばっかり、いろいろと……わたしにどうしろって言うの?」
 言葉を紡ぐうちに、涙目になっている事に気付いた。俯いて足元を見るも、涙で揺らいだ床とシズクの靴が見えるばかり。
 今朝から続く妙な頭痛と倦怠感で、シズクは冷静な判断力をなくしつつあった。それと同時に余裕もない。胸の辺りがムカムカしてイラついてしまう。だからこれは、クリウスに八つ当たりしているのと大して変わらない。敵に八つ当たりなんて、いよいよ自分は頭がおかしくなってしまったのだろうか。



 「……助けて欲しいかい?」



 凛と響いた声は、穏やかだった。涙目のまま顔を上げると、驚くほどに優しい蒼の瞳と視線がぶつかる。人形のように美しく均整の取れたクリウスの表情は、同情を寄せるように曇っていた。
 カツリと靴音を立てて、クリウスはこちらに歩み寄って来る。目と鼻の先と言える位まで歩み寄ってこられて、シズクは一瞬怯む。だが、ガラス張りのケースが邪魔して、後退する事は不可能だった。
 「――――っ」
 うろたえるシズクの様子が面白かったのだろう。クリウスはくすりと微笑む。そうして更に近寄ってくると、右手を使って、熱で汗の滲むシズクの額を優しく撫で上げてきた。銀髪がしゃなりと揺れる音がしたかと思うと、すぐ耳元でクリウスの吐息が聞こえる。
 「この状況から抜け出す方法が、一つだけあるよ」
 まるで妖魔が若い女性を誘惑するように甘く、囁かれる。首筋の、彼の吐息が当たった部分がひりひりと悲鳴を上げているのが分かる。熱で滲む視界が、ぐらぐら揺れた。

 「君の持つ、銀のネックレスの所有権を放棄する事さ」



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