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第3章「秘密会議」



9.

 じっとりと額にも背中にも汗が滲んでいた。息が荒い。それは、今朝から続く体調不良が原因の息切れであるはずだ。しかし、先ほどよりも更に息苦しさが強くなったような気がした。首筋に、クリウスの柔らかな吐息が当たる。ここまで接近されると、彼の体温も感じずにはいられなかった。心臓が、苦しい。
 「……ネックレス?」
 「そう、君のその銀のネックレス」
 シズクの問いに、耳元の囁きが甘く解答をくれた。
 そういえば、先日シズクを襲ったルビーとかいうあの魔族(シェルザード)も、狙いはこのネックレスだった。母から託されたネックレス。リースからは、シーナ縁のものだと教えてもらった。歴史的にもかなり貴重なものであるはずだったが、言ってしまえばそれだけだ。シズクが持っている限りにおいて、このネックレスに歴史的価値以上の特別な何かがあったかというと、そうではなかった。魔族(シェルザード)がこれを欲しがる理由も、これを手放せばシズク自身が解放される理由もさっぱり見えない。
 「また知ろうとしてる。君は懲りないね……知らない方が良い。この石の正体も、どうせろくでもないものだから」
 「石?」
 クリウスにそう言われて、浮かんで来たのはネックレスのプレートの裏に埋め込まれた、透明な石の事だった。あの石には、何かがあるというのだろうか。
 「何も考えてはいけないよ。自分を益々追い込む事にしかならない。……ネックレスを僕に託してくれないかな」
 言って、首に掛かる銀の鎖に触れられる。首筋に直にクリウスの体温を感じて、頭も胸も、ズキズキと痛んだ。
 「……綺麗事を並べ立てておいて、結局あんたもこのネックレスが目的なのね」
 研いだばかりの刃のような、驚くほど鋭く尖った声が出た。先ほどまで緩めだった警戒心も、ここに来て一気に強さを増す。そんなシズクの言葉に、クリウスは苦笑いを零したようだった。小さく息をつくと、それまでシズクの耳元付近に寄せていた顔を、シズクの真正面に持ってくる。
 「――――」
 突如眼前に現れたクリウスの顔は、見れば見るほど、一流技師が作った美術品の様に美しかった。深いブルーの瞳は真剣な色を宿しこちらを見つめてくる。見つめられて、胸がざわついた。
 「約束するよ。悪いようには使わない。ルビーが使おうとしているようには、ね……」
 言って、クリウスは今度ははっきりとシズクの首にかかるネックレスの鎖に指を通す。一方のシズクは、この美貌の少年を前に、何も言えなくなってしまった。
 彼のブルーの瞳は、決して嘘は言っていないと語っているように感じられる。だが、相手は魔族(シェルザード)だ。シズクの故郷を襲った、敵でもある一族の者。そして、つい先日まで命に関わるような戦いを行っていた相手でもある。言葉だけでは、簡単に信じる事など出来ない。
 「…………」
 「ネックレスの所有権を放棄するんだ。シズク、君がこれを持っていても何もいい事はない。手遅れになる前に、君はこの馬鹿馬鹿しい騒動の渦から離れるべきだ」
 「手遅れになる前に?」
 「そう、このまま行くと、見事に歯車は回りだしてしまう。大いに巻き込まれていってしまうんだよシズク。君がね」
 必死にそう呼びかけるクリウスの前で、シズクはというと驚いてしまっていた。手遅れになる前に、と彼は言っている。という事は、今はまだ手遅れではないという事なのだろうか。
 イリスピリアに来て、ティアミスト家の秘密について知って、そして昨日の夜、水神の予言の内容まで聞いてしまった今のこの状況は、もう既に手遅れの領域であると思っていたのだ。知った後では、どうにもならない。とパリス老人にも言われていた。イリスピリア王の思惑通り、自分を救世主に仕立て上げるための下準備か、自分を排除するための計画が、始まってしまっているかもしれない。逃れようとしても、それはもう無理な話だと思っていたのだ。それが、まだそうではないと? クリウスはそう言っているのか。
 「今ならまだ間に合うから。ネックレスを置いて、イリスピリアを離れるんだよ。大丈夫、手助けなら僕がやってあげるから」
 シズクの考えが正解だと言うように、クリウスが言葉を紡ぐ。彼の言葉に、心の中に希望のようなものが湧いてきてしまう。まだ間に合うのだろうか。
 このネックレスは、母から託された大切なものだ。決して誰にも渡してはいけないと、固くそう言われた物でもある。だから、たとえこれがどんな物で、シズクに何をもたらそうとも、最後まで自分が持っているべきものなのだろう。それが、責任というものだ。
 (でも)
 このネックレスを今ここで手放せば、全てから解放されるのだという。救世主に仕立て上げる事も嫌だったが、悪の手先として排除されるのも十分に嫌なことだ。ただそのどちらかが自分に訪れるのを待っているだけだと思われた。それを、この銀のアクセサリーを手放す事だけで、全て無効に出来てしまうのだ。
 「…………」
 胸の中に、あの時の母の声が響いた。頭ではそれは、決してやってはいけないことだと分かっている。キユウ・ティアミストが命を懸けてまで守ろうとした銀のネックレス。それを……自分のためだけに、ないがしろにしてしまう事は間違っている。そこまで理解しているのに、シズクの手は自然と銀の鎖へとかかっていく。正直なところ、シズクは今のこの状況からなんとかして逃げたかったのだ。暖かな温もりがあるオタニアへと帰りたい。そうするためにはどうすれば良いか。クリウスの言うように、これの所有権を放棄する事だ。
 「そうだよ」
 シズクのしようとしている事を理解したのだろう。瞳を薄めて、嬉しそうにクリウスが囁く。その声も今は、シズクの行おうとしている事に拍車をかける材料のように思えて――



 「騙されるな」



 「――――っ」
 何故とかどうしてとか、そんな事を思う間もなく、心臓が大きく跳ね上がっていた。程よい感じの低さを宿す、少し前まで聞き慣れていた声。時々自分に対して嫌味を浴びせては、すぐに笑い声を零していた彼。だがそれも、もう随分と昔の事のように思えてならない。
 「…………」
 ネックレスの鎖に両手を掛けた体勢のまま、シズクは間抜けな顔で声のした方を見た。金色が視界に眩しい。今は、自分にはとても遠い存在に思えて、目がくらんでしまう。
 「……おや、王子様の登場? 文字通り本物の『王子様』だ」
 『王子様』と、やけに強調して、嫌味っぽく言葉を紡いだのはクリウスだった。その彼の視線の先、展示室に入る廊下の入り口付近に両腕を組んだ状態で、イリスピリアの王子であるリース・ラグエイジが立っている。彼の表情はいつになく険しい。元々整っている顔でこれだけ鋭く睨まれたら、普通の人間なら縮み上がってしまうだろう。
 おどけた様子のクリウスを前に、リースは冷静そのものだった。切れ長のエメラルドグリーンの瞳を細めて、魔族(シェルザード)の少年を刺す様に見つめる。
 「どうしてお前がこんな所に居る? クリウス」
 「さぁね。恐れ多くて王子様なんかには言えないよ」
 これ以上無く敵意をむき出しにするリースとは対照的に、クリウスは役者然とした例の笑みを浮かべただけだった。ある意味、彼の芝居がかった笑みは、相手に対する絶対防御の役割を果たしているのかもしれない。
 『王子様』とわざとらしく何度もクリウスは付け加える。まるで、リースがそう呼ばれて機嫌を損ねる事を知っているかのようだった。そしてリースはというと、クリウスの思惑どおり眉間に刻むしわを益々深めていく。
 金と銀の睨み合いはしばしの間続いた。息苦しい沈黙が展示室に流れ始める。このまま永遠に、事態は止まったまま動かないのではないかとさえ思えてくる。



 「……まぁ、よく考えておいてよ。シズク。自分のためには、どうするのが一番良いのかをね」



 しかし、案外あっさりと場は動き出した。やんわりとした口調でクリウスがそう言ったかと思うと、次の瞬間には、放心するシズクの目の前で、クリウスは薄く微笑みながらすっと空気に溶けていったのだ。呼び止める暇も、何か言葉をかける暇もない。残ったのはただ、首筋に僅かに残るクリウスの体温のみだった。
 「…………」
 事を荒立てた原因は居なくなった。だが、魔族(シェルザード)の少年が去った後でも、展示室の重苦しい空気は変わることがない。彼が去った分、若干禍々しさは消えたが、それだけだ。気まずい沈黙がより濃くなって、シズクとリースの間に流れ始める。
 この場の雰囲気に耐え切れなかった分と、先ほどまでの緊迫した雰囲気に限界を迎えた分とで、とうとうシズクは、その場に崩れ落ちてしまった。すとんと膝を突くと、素肌が直に床に当たって冷たい。搾り出すようにか細い息を吐くと、頭にガラスケースがこつりと当たった。そこから感じる冷感もまた、少しだけ心地よい。
 そんなシズクの様子を見て、リースはため息を一つついたようだった。そうしてやがて、ゆっくり歩み寄ってくると、すぐ目の前で停止してしかめ面のままシズクを見下ろしてくる。視線に耐えられず、シズクは俯いてしまった。
 「……まったく」
 ふんとリースが鼻を鳴らすのが聞こえた。昨日の夜聞いた、変にかしこまった声ではなくて、いつものあの、リースの声だ。そのことにシズクは少なからず安堵する。
 「何であいつの口車に乗せられてるんだよ。騙されんな」
 「ごめん……」
 俯いたままの状態で、シズクはかすれた声を零した。
 リースが横槍を入れてくれていなければ、きっと自分は銀のネックレスをクリウスに渡してしまっていただろう。このネックレスの価値なんて分からない。だが、それが魔族(シェルザード)の手に渡ることは、絶対に良くないことだという事だけは分かる。自分は、母との約束を裏切りかけていたのだ。自分がしようとしていた事の重大さに、今更ながら背筋が凍りついた。
 「クリウスを信じるな。少し考えたら、あいつが言ってた事が嘘だって事くらい分かるだろう?」
 「だって!――」
 リースの更なる言葉に、今度は、シズクは顔を上げて反論する。だが、見上げて彼と目が合って、色々な事が頭に浮かんでしまい、やめて置けば良かったと後悔した。自分は今、とんでもなく狼狽しているのだろう。視点の定まらない目に、いっぱい涙を溜めている事が、良い証拠だ。
 シズクのこの様子には、さすがのリースも目を見張ったようだった。彼は、別の意味で眉間にしわを寄せると、しばらくの間沈黙する。沈黙されて、シズクはたまらなかった。先ほどまでのように、いろいろと叱咤されている方がまだマシだとさえ思う。
 混乱しているシズクがいたたまれなくなったのだろうか。リースはそれ以上は何も言わなかった。代わりに聞こえたのは、深い、ため息。
 「……ほれ」
 そういう声が聞こえたかと思ったら、目の前に右手を差し出される。一瞬、何の事だか分からなかったシズクだったが、やがて合点がいった。俯いたまま、ほんの少しだけ迷いながら、出された右手に自身の右手を差し出すと、そのままぐいっと引き上げられる。少しだけよろついてしまったが、リースの力を借りて、なんとかシズクは立ち上がることが出来た。一息つくと、少しだけ冷静さを取り戻す事が出来る。目から涙は引いていくが、その代わりにやってきたのは、今まで以上に強い倦怠感だった。頭痛もやってきて、シズクは顔をしかめてしまう。
 「? ……シズク」
 リースはシズクの様子のおかしさに気付いたのだろう。怪訝そうな呟きが耳に入ってきた。そして次の瞬間、ひんやりとした冷たさが、突然頬に与えられる。びくりとしたが、何のことは無い。それはリースの手のひらだった。
 「!?」
 急なことでシズクは思い切りうろたえてしまうが、リースはそんな事はおかまいなしだった。それどころか、しばらく黙ったままかと思ったら、視界の先で、リースの綺麗な顔がみるみる呆れ顔に変わっていくのが分かる。やがて、彼は手を頬から離すと盛大にため息を零した。
 「お前……なんで熱あるのにこんな所をチョロチョロしてるんだよ!」
 「熱? ……あぁ、そう言えばさっきジャンにも」
 そうか。自分は今熱があるのだ。それじゃあ思考がまわらないはずである。当たり前の事を突然思い出すと、さきほどの、ジャンとクレアとのやりとりがうっすらと頭に浮かんだ。ほんの数十分前なのに、もう何時間も前にあった出来事のように感じてしまう。
 「……ジャン?」
 「何でもないよ、こっちの話。それよりも――」
 聞きなれない名前に疑問を持ったのだろう。方眉を少しだけ吊り上げるリースに、説明するのも億劫になっていたシズクは、そう言って話をはぐらかす。相変わらず頭痛のする頭を押さえると、未だどこか煮え切らないといった表情を浮かべるリースを真っ直ぐ見つめてこう言った。
 「なんでリースがこんな所に居るの? ここって確か、魔法学校のエリアでしょう」
 危機を救ってくれた恩人に、その言葉はないだろうとは思ったが、シズクの率直な疑問だったのだ。
 魔法学校と国立学校は、食堂を兼用で用いているため、共通で使う廊下は何箇所か有る。先日リースと遭遇した場所もそれだった。だが、今居るこの展示室がある通りというのは、確かに食堂へと向かう廊下には違いないのだが、間違いなく完全に魔法学校エリアである。普通ならば国立学校の生徒など通らないはずだ。もし仮に通っていたとしたらそれは、道に迷ったか方向を間違えたかのどちらかである。紺のローブを纏う生徒達の中に国立学校の制服を着た人間がぽつんと紛れ込んだとしたら、それはもう物凄く目立ってしまう。物好きでもない限り、そんな事はするはずがない。だから、この場にリースが居る事に大いなる疑問を感じてしまったのだ。
 「あぁ、それは……」
 シズクの質問に、リースは口ごもった。だが、控えめにエメラルドグリーンの瞳をこちらに向けてくる。
 「シズクを探してたんだよ。すぐにでも伝えておいた方が良いと思って……」
 「伝える?」
 伝えるって何を? と怪訝な顔になるシズクに、リースは少しだけ困り顔になる。どう言うのが一番良いか、頭の中で考えをめぐらせているように見える。何か、そんなに言いにくい内容なのだろうか。
 「……昨日の夜、会議があって」
 「――――」
 リースが淀みながらもそう言った時だ。『会議』という単語を捕らえて、一瞬にしてシズクの身体は強張っていった。せっかくマシになっていたところなのに、気分の悪さが急速に増大していく。どくどくと、心臓が嫌な音をたててがなりだすのが分かった。
 「セイラが――」



 「水神の神託の事?」



 妙に冷めた口調でシズクがそう口走ると、リースは目を大きく見開いていた。驚愕の色が、瞳にありありと見て取れる。
 「お前……聞いてたのか?」
 あからさまにリースが狼狽する姿も珍しい。普段のシズクなら、にやりと微笑みながら茶化しに入るところだ。だが、今はそんな事をする気分にはもちろんなれない。眉間にしわを寄せたまま、その不思議な色を称えるティアミストの瞳を薄めると、半ば睨みつけるように目の前の少年を見つめていた。昨夜の例の光景を思い出して、胸がずきずきと痛む。
 「全部知ってる。わたしが予言のくだりに出てくる光なのか闇なのか。大の大人たちがしかめ面しながら相談してた事も。その場にセイラさんとリースが参加していた事も」
 シズクの言葉を受け、リースの顔にサッと朱が注す。だが、リースが何を思っているのか、そんな事は今のシズクにはどうでも良かった。
 「それで? リースはわたしに何を伝えにきたの?」
 睨み付けるようだった視線を、益々鋭利なものにして行く。声もどんどん低くなる。黒い感情は、今のシズクでは、一旦表れたら消し去る事は出来なかった。心の中を染め上げられるように、どろどろと触手を蠢かしながら侵食されていく。例の会議の話題は、今のシズクにとって悪い意味でのスイッチでしかない。
 「……それは……」
 「救世主にされそうだから気をつけろって? 悪の手先だと勘違いされているからどうにかした方がいいって? そんな事、言われなくても分かってる」



 ――私は、ティアミストの娘など知りません――



 昨日の、会議室でのリースの言葉が頭の中にフラッシュバックする。硬質で感情を宿さない、イリスピリア王とそっくりのあの声。
 (……嫌だ。もう、何を考えるのも嫌だ)
 痛みで悲鳴を上げる胸を、ローブの上から鷲づかみにする。そうしていないと、張り裂けて中から何かが飛び散っていってしまいそうだった。
 「そんな事をわたしに伝えて、それで何が出来るっていうの? ねぇリース。貴方がわたしに何かをしてくれるっていうの?」
 言葉を紡ぐ声は、徐々に震えていく。次第に涙声になっていき、シズクはリースを真っ直ぐ見つめたまま、今度こそ本当に涙を一筋流していた。
 「――――」
 「リース・ラグエイジ。貴方はわたしの味方なの? それとも、イリスピリア王や12大臣達のように、わたしを利用しようとする人間の一人?」
 「お前……本気でそんな事言ってるのかよ!? 俺は――っ」
 「言葉だけでは信じられないよ! どれだけリースが嫌がったとしても、貴方の身体の中にイリスピリア王家の血が流れている事は事実なのよ? わたしの中に、どれだけ逃れようとしてもシーナの血が通っているように」
 嗚咽をこらえながら、そう言い放つ。もう何を伝えたいのか分からなかった。そもそも、何かを伝えるために発した言葉であるかどうかすら定かではない。頭も心も無茶苦茶だ。
 「信じる事なんて、出来なくなってきたよ……リース」
 涙で滲む視界の先で、リースは表情を固くしたまま、それきり何もいう事は無かった。



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