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第4章「決壊」




3.

 あの後、魔法学校の廊下は一時騒然となった。始業の鐘が鳴っても生徒達の誰も席に着かず、この異常な状態に混乱し続けていたのである。普段は冷静なはずのクレアですら、ミレニィのあまりの混乱っぷりにおたおたするだけで何も出来ないで居た。彼女が慌てるのだ。他の生徒達がどんな様子だったかは騒動を知らぬものでも想像に難くない。
 そんなどうしようもない事態を収拾に向かわせたのは、授業のためにやって来ていたあの女教官だった。興奮して過呼吸気味のミレニィは、クレアが付き添って保健室に。シズクとジャンについては、必要ならば後で詳しく話を聞くから、顔でも洗って気持ちを落ち着けてきなさい。そういう意味合いの指示を行うと、シズク達以外の生徒をせかして、教室に下がっていったのだ。
 教官の判断は、シズクにとって正直ありがたかった。このまま授業に出ても、きっと何にも集中など出来ない。しばらく頭の中を整理してから教室に戻るのが得策だと思えた。






 「――――」
 思わずシズクは、胸いっぱいに空気を取り込んでいた。
 春から徐々に初夏へと変わりつつある変動の季節。ほんの1週間と少し気を配らずに居ただけで、城の外の様子は様変わりしていた。春の花々は減り、中庭の巨木には若葉が色づいている。空気の匂いも心なしか新緑のそれが混じる。焦げ茶髪の前髪をさらって行く風が心地よかった。
 食堂のテラスにシズクとジャンの二人は居た。とりあえず外気に当たろうというのがジャンの提案だったのだ。
 「大丈夫? シズク」
 沈黙を先に破ったのはジャンだった。彼は一息つくとおっとりとした様子で、そう声を掛けてくる。
 「うん。びっくりはしたけど、平気。ジャンこそ……それ、大丈夫?」
 しばし外の風を堪能した後で、隣に佇むジャンに向けてシズク。視線は彼の飄々とした瞳にではなく、彼の鳩尾(みぞおち)付近に向けてだった。先ほどから、気になって仕方が無かった場所である。
 「あ、これ? まったくミレニィってば酷いよね。やられたよ」
 そう言ってジャンは、苦笑い気味にくしゃりと微笑む。
 ジャンの紺のローブは、特に胸の辺りから鳩尾(みぞおち)にかけて、それはもう酷い有様だったのだ。ミレニィの涙やら何やらでぐちょぐちょになって居る。時間が経って大分水分は飛んだようだが、この調子だと今夜にでも洗濯しなければならないだろう。だが、そんな状態でも彼は嫌そうな素振りは見せなかった。事実、嫌ではないのだろう。
 「ミレニィに泣き付かれたのなんて、何年ぶりだろう。昔はさ、よくこうしてデロデロにされたんだけど」
 懐かしそうに肩をすくめて笑うジャンに、ほほえましいものを感じて、シズクも思わず笑みを零す。幼いミレニィが、同じく幼いジャンに泣き付いてわんわん言っている姿が、容易に想像出来てしまったのだ。そうしていると、ある一つの考えがぽつりと浮かんでくる。
 「ジャンって……」
 「え?」
 右手を口元に持って行って、笑いをこらえようとした。
 「お兄ちゃんみたいだよね」
 しかしそう口走った途端、とうとうこらえ切れずに笑いが零れたのだった、そしてそれと同時に、ずきんと。胸に小さな痛みが走った。
 (あれ?)
 不思議な感覚。思わず首を傾げてしまうシズクだったが、疑問はすぐに和やかな空気の中に消えていってしまう。
 「えぇぇ!? そうかなぁ?」
 シズクの言葉を受けて、ジャンが照れたように大声を上げたからだ。苦笑いしつつもシズクは更に続ける。
 「うん。それで、クレアがお姉さんでしょ。ミレニィは妹かな……三人の関係って、兄妹みたいなものに思える」
 実際はシズクがこの学校に編入してすぐ、ミレニィが三人組から離脱してしまったため、彼らが一緒に居る姿をまともに見ていないのだが、何故か自然にそう思えた。親友であり、家族のようでもある雰囲気。シズクが、かつてオタニアで包まれて居たあの雰囲気が、彼らの中にある。自分にはひょっとしたら、もう戻ってこないかも知れない、あの雰囲気――

 「三人じゃないよ。四人だよ」

 「え……?」
 予想もしていなかったジャンの言葉に、シズクは目を見開いていた。見ると、視線の先で赤髪の少年は、穏やかな笑顔を浮かべている。
 「シズクも入れて四人だろ? ……まぁ僕としてはハーレムみたいになっちゃって益々肩身が狭くなりそうだけどね〜」
 言って両手を頭の後ろに持っていき、くしゃりとあの、屈託の無い笑顔を浮かべるのだ。
 (あぁ、本当にお兄ちゃんだ)
 胸中でそんな事を零す。
 もちろんジャンにも男の子の友達は多く居る。いつもクレアやシズクと一緒に居るわけではないし、食事の時以外は男友達の輪に囲まれている事だってある。シズクの見立てによると、気さくな性格だし、人からの信頼は厚い方だろう。
 だが、彼は何か行動するといったらクレアとミレニィと、なのだった。幼なじみらしい。彼女達にとって、彼は他の友達と一線を画する、無くてはならない存在なのだ。そうしてジャンにとっての彼女達の存在も全く同じだろう。
 (四人……)
 その輪の中に、自分も入れてくれる。そう彼は言った。出会ってまだわずかのシズクに、彼はそう言葉をくれたのだ。
 例えばそれが社交辞令や冗談だとしても、胸の中に暖かい明かりが灯ったようだった。そして、ジャンは社交辞令や冗談でそんな事を言える程器用な男の子でない事は、短い付き合いのシズクでも分かる。少なくとも彼は、自分を認めてくれているのだろう。それがとても、嬉しかった。
 「笑顔」
 「?」
 しばしの沈黙の後、嬉しそうな様子のジャンから言葉がかかり、シズクは首を傾げる。
 「シズク、編入して来てからあまり笑ってなかったから。……初めてかもね、そんな笑顔」
 「あ……」
 言われてみれば。
 彼の言葉に思わずハッとしてしまう。確かにそうだった。イリスに来てから、色々な事が起こりすぎて、思えばいつもしかめっ面をしていたかもしれない。事態に流されっぱなしで、自分の事で精一杯で、人に自分がどう見えるかまでは、気がまわっていなかった。辛い時も笑顔第一、が信条のシズク・サラキスは、どこかへ消えてしまっていたのだ。
 「そういう風にさ、笑える時間が増えるといいよね」
 ジャンの言葉に、シズクは少しだけ照れながら頷く。笑える日。今の陰欝そのものの自分の状況下で、そんな時間はとても貴重だと感じる。まだ自分は笑えるのだ。それに気付く事が出来て、胸のもやもやが少しだけ晴れた気がした。
 「で、僕としては四人で仲良く笑えたらって思うんだよね。――さて、こっからは真面目な話」
 そう言ってジャンは、邪気の無い笑顔を取りやめると、茶色い瞳に急に真剣な色を乗せた。
 「?」
 表情を変えただけで、彼が放つ雰囲気までも変わってしまう事にシズクは息を呑む。触ると切れてしまいそうな、研ぎ澄まされた刃物のようなイメージ。こんなジャンの表情を見たのは初めての事だった。魔道士の目だ。そう直感する。だが、直後にシズクは、あまりに当たり前の事実に気がついてどきりとした。日ごろクレア達の陰に隠れて目立たないが、彼も大陸で最も難関であるイリス魔法学校の生徒なのだ。シズクなどより、遙かに優秀な魔道士の卵であるはずなのだ。
 「シズクも感じたんじゃない? ミレニィのあのネックレス」
 「――――」
 言われて頭に浮かんだのは、ミレニィが持っていたあの赤いクリスタル付きのネックレスだった。クレアによると、恋のラッキーアイテムだそうで。それが真実かどうかはシズクには分からなかったが、先ほどあのクリスタルから感じたものの正体ならシズクにも分かった。――そう、『魔力』である。それも、かなり禍々しい部類の。
 「…………」
 「あれさ、嫌〜な魔力放ってたんだよね。ミレニィがパニック起こしたのと関係有るんだと思う」
 確かに。とシズクも頷く。先ほどの大騒ぎの際、しきりに彼女は、クリスタルを握りしめていたのだ。特に、態度が豹変してからそれは顕著になっていたように思う。十中八九、彼女のあの態度とネックレスには因果関係があるだろう。
 「あのクリスタルが何なのかは分からない。けど、あまり良くないものだって事は確かだと思うよ。ミレニィがあんな態度をシズクにとるなんて、おかしなことだからさ」
 さきほどのミレニィのあれは、彼女自身の意思で起こされたというにはあまりに突然だった。あそこまで極端に態度をひっくり返すのは、普通に考えておかしい。だが、あの時感じていた妙な魔力を考慮に入れると納得がいく。あの赤いクリスタルは、魔法がかった何かである可能性が非常に高いのだ。
 「あれが原因だとしたら、ミレニィから引き離したいんだけど……」
 「あのクリスタルの正体を掴めないうちは、うかつに手を出すのは危険。だよね」
 「そのとおり」
 シズクの言葉にジャンは頷く。
 ミレニィが最近変なのが、シズクが原因で無いのだとしたら、あのクリスタルはかなり危険なアイテムという事になってしまう。人の人格を狂わせるのだ。そういう代物は確かに存在するが、法律上多くの国で取引が禁止されている。それは、イリスピリアにおいてもまた然りであった。
 事態が事態なら、教官に相談するというのも考慮に入れねばならないだろう。
 大騒ぎになる前に、何とかしたいところではあるが……。

 「……でも実はさ、少し安心したんだ」

 「?」
 ふっと悲しげな笑みを浮かべると、ジャンはそんな事を言った。対するシズクは意味が分からない。ミレニィがあんな状態で、安心出来る要素なんて一つもなさそうだったからだ。
 だが、怪訝な顔のシズクの前で、鼻の下を指でこすりつつ、ジャンは少しだけ照れたような表情を浮かべる。そして、こう言ったのだ。
 「――ミレニィの意思で、あんな言葉や行動を起こした訳じゃないっぽいからさ」
 「ジャン……」
 その言葉をきいて、ミレニィの身を案じつつ、一方ではほっと胸を撫で下ろしているジャンの気持ちが、シズクにはなんとなく理解できた。

 「ミレニィはいい子だよ。シズク。信じて欲しい」

 真摯な瞳でそう言われると、シズクはもう何も言えなくなった。
 きっと彼女は、少し子供っぽいところはあるけれど、根は優しい子なんだろう。シズクが彼女の本質を見たことが無いだけで。漠然とそう思う。ジャンとクレアがここまで親しくするのだ、悪い子であるはずがない。
 自分と知り合ってから、ミレニィの感情の歯車はちぐはぐになってしまったのかも知れない。シズクが魔法学校に編入してから――

 (――――)

 ぞくり、と。
 確かに背中が鳴った。
 そうだ。彼女がおかしな言動を浴びせるのはいつも決まってシズクに対してである。シズクがミレニィと初めて会ったのは、魔法学校に編入した時だ。彼女があのクリスタルを身につけ始めたのも、シズクに敵対宣言をした直後からである。これは、単なる偶然なのだろうか。それとも――
 どうしようもなく嫌な予感が、シズクの胸を駆け抜けていた。



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