+ 追憶の救世主 +

 第4章(1)へ / 戻る / 第4章(3)へ


第4章「決壊」




2.

 あのクリウス来襲の翌日から、いい加減体調不良もピークに達して、シズクはとうとう寝込んでしまった。ねっとりとした倦怠感が全身を覆って、ベッドから全く起き上がれなかったのだ。幸い、城の使用人達はシズクに親切にしてくれた。体調が悪い事を伝えると、かいがいしく身辺の世話を焼いてくれたのである。「自分にも貴女くらいの歳の子がいるからねぇ」。そう言って優しい笑みをくれた中年くらいの女使用人の声が、心に染みた。
 一度だけアリスが訪ねてきてくれたのだが、とてもじゃないが会える気になれなかった。彼女の顔を見て、何を話せばよいのか全く分からなくなっていたのだ。一方で、セイラやリースからは全く音沙汰は無かった。発熱に気弱になっている分、寂しさが心をしくしく痛めたが、アリスに会うことも出来ないのだ。彼らに来られたとしても結果は同じ事だっただろう。
 精神的にも物理的にも、彼らとシズクとは、隔絶されつつある。それが単なる成り行きか、巧妙な陰謀かは分からなかったが。



 「おはようシズク。調子は良くなった?」

 数日ぶりに登校したシズクを迎えたのは、ジャンの明るい笑顔と、クレアの聡明そうな瞳だった。たった数日なのに、何年も不在にしていたような気がする。彼らの姿を視界に入れて、なんだか眩しくて、思わず目を細めた。
 今この場に居るのは、シズクの事をシズク・サラキスとして見てくれる人達ばかりなんだ。ティアミストの娘としてではなく、救世主としてでもない。そんな当たり前の事が、今となっては特別なものに感じて。この場所が、今の自分にとって唯一の逃げ場所なのかもしれないと感じていた。たとえイリス魔法学校に通い始めたきっかけが、王の陰謀であったとしても。
 「…………」
 「その調子じゃ、まだ完全回復って訳じゃなさそうね」
 シズクが表情を曇らせたのを、未だに体調不良が残っているととったのだろう。クレアが、心配そうにこちらを覗き込んでくる。だが、それにシズクは曖昧な苦笑いを零す事しか出来なかった。
 熱も下がり、倦怠感も無くなった。本来ならば、完全復活の状態なのだ。だが、気持ちの方はというと、全く真逆の状態であった。日にちが経った分、あの時よりは冷静さを取り戻していたが、胸の重みはむしろあの時より増大している。許容範囲を遥かに超える重りを乗せられて、ただただ悲鳴を上げているのだ。
 (どうすればいいんだろう)
 熱にうなされる頭では何にも考えられなかったが、回復してしまうと思考は驚くほど明瞭になる。自分の今置かれている状況を認識して、そして大きな不安を覚えるのだ。どうしよう、どうにかしたい、でもどうにもできない、と。
 ただただシズクは、事が動き出すのを待つのか、それとも――



 『……まぁ、よく考えておいてよ。シズク。自分のためには、どうするのが一番良いのかをね』



 先日のクリウスの言葉がすぐ耳元で響いたような錯覚に襲われる。
 もう一つの方法。それは、銀のネックレスの所有権を完全に放棄してしまう事だ。クリウスにこれを渡したならば、シズクはこの何とも言えないごたごたから逃れられるのだと。彼が手を貸してくれる。そう言っていた。
 (……駄目。何考えてるの)
 そこまで考えてから、シズクは心の中で自分を叱咤する。こんな自分勝手な理由で、ネックレスを手放してしまうのは間違っている。
 それにしても、一体このネックレス、何だと言うのだ。考えてはいけないと言われても、疑問に思う気持ちは止めることが出来ない。そういえば、あの月夜の晩現れた女魔族(シェルザード)、ルビーもこれを狙っているから気をつけろとクリウスは言っていたような――



 「おはよう」



 そこまで思考を巡らせていた時だった。予想外の方向から声がかかり、シズクは心臓を大きく跳ね上げてしまう。一瞬、それが自分に向けて発せられたものかどうかすら理解できなかった。あまり聞き慣れない声だったからだ。そして、自分にその声が向かうはずが無いと思っていたものだったからだ。イリス魔法学校に編入して以来、数回しか聞いた事が無い、鈴を転がしたような可愛らしい声。
 「――おは、よう」
 数瞬遅れてからシズクは、気まずそうな様子で自分を見つめている金髪の少女へ挨拶した。声が上擦る。まさか彼女が――ミレニィが自分に挨拶してくれるとは思いも寄らなかったのだ。
 「ミレニィ?」
 側に居るジャンとクレアもミレニィのこの行動に度肝を抜かれたらしい。目を大きく見開くと、旅の大道芸人でも見るような顔でミレニィを見つめ続ける。
 「…………」
 「…………」
 誰も何も言わない、気まずい空気が流れはじめていた。シズク達の様子に、どうしたのだろうと数人の生徒達がこちらを振り返っているのが見える。だが、やがて意を決したのだろう。ミレニィは息を一つつくと、緊張した面持ちでシズクの方へ近づいてくる。
 「話が有るの」
 目を泳がせながらも、比較的はっきりした声でミレニィが言った。






 「えーと……話って?」
 場所は授業が始まる前の廊下だった。朝の通学で生徒たちの往来は激しいが、下手に人気の無い場所に行くよりこちらの方が緊張はマシだと思った。目の前では、不思議そうな表情で焦げ茶髪の少女が首を傾げている。若干その瞳には、怯えの色も混じっているような気がした。原因はもちろん、自分にあるのだろう。
 「あ、あのね」
 どもりながらも、ミレニィは声を搾り出す。額からは、変な汗がじわりと滲み出てくる。こんなにも人と会話するのに緊張するのは、一体いつぐらいぶりだろうか。
 「ずっとね、あなたに言おうと思ってたの……その……」
 「?」
 もじもじと言葉を濁すミレニィをシズクは相変わらず疑問符を顔の全面に浮かべた状態で見ていた。だが、先ほどよりは、若干怯えの色は薄れている。ミレニィから感じられるものが敵意ではないと分かり、少なからず安心したのだろうか。
 「最近なんだかね、凄くイライラしてて……」
 「ミレニィ……」
 ぎゅうっと思わず、ミレニィは自身の首にかかるネックレスを握り締めていた。ハート型の赤いクリスタルを手のひらに押し付ける。そうすると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いてくるようだった。
 名前を呼ばれてミレニィは動揺する。心臓が変なリズムでダンスを踊りだす。思えば、こんな風に真正面から視線を受けて、彼女に呼ばれたのは初めてだったような気がする。そして自分は、彼女の名前を一度たりとも呼んだことがないという事実に、愕然とする。
 「えっと……だからね。その……私変なの、最近。イライラが止まらなくて。どうかしてた。だから――」

 (ごめんね)

 心の中ではちゃんとその言葉を言えるのに、唇からそれらが飛び出す事は叶わなかった。乾いた唇は、ぱくぱくと空気を仰いだだけだ。
 ぱっと前を向いたときに、彼女の不思議な色を宿した瞳が、目に飛び込んできたからだった。綺麗な色だと思う。青とも水色ともつかず、見るたびに見え方が変わる瞳。見目麗しいとはいえない容姿だとしても、彼女のこの瞳にだけは『美しい』という賞賛の言葉が素直に出てくる。
 彼は。リース王子は、彼女のこの瞳をどういう気持ちで見ていたのだろう。『綺麗』と。今の自分が彼女の瞳に対してそう思うように、思っていたのだろうか。そうしてその気持ちで、彼女の事を見ていたのだろうか。
 「――――っ」
 胸がざわざわと騒ぎ出していた。
 いつも言おうと思っていた言葉。今日こそは言えると思っていた言葉。寮の部屋では決心がつくのに、学校に来て、彼女のこの瞳を見つめた瞬間に、どうしようもなく違う感情が湧き出てきてしまう。羨ましい。妬ましい。という感情が。
 「ミレニィ?」
 呼吸が荒い。はぁはぁと喘ぎだすミレニィに、さすがに何か危ういものを感じたのだろう。シズクが眉をしかめて名前を呼んでくる。だがその声も、今のミレニィにとっては逆効果以外のなにものでもない。
 「どうしたの、息が……」
 「こ、来ないで!」
 突然の拒絶の言葉に、シズクはびくりと身体を震わせる。その瞳には再び、怯えが混じり始めていた。だが、それでも心配なのだろう。でもとか何とか言いながら、何とかミレニィに歩み寄ろうとしてくる。
 先ほどまで自分が彼女へ向けていた友好的な感情が、がらがらと音をたてて崩れていったのをミレニィは感じていた。
 「大丈夫? 保健室にでも――」
 「来ないでって!」

 ――どんっ。

 鈍い音が、始業前の廊下に響き渡った。一瞬、時が本当に止まってしまったのではないかという錯覚がミレニィの感覚を支配した。それまで談笑で沸き返っていた廊下は、水を打ったように静まり返る。おしゃべりを取りやめて、周囲の学生達が奇異の目でこちらを見つめているのが見えた。
 「…………」
 目の前には、尻餅をついた状態でぽかんと放心しているシズクの姿があった。ミレニィが彼女を突き飛ばし、その拍子で床に倒れこんでしまったのだ。だが、怒りとか悲しみとかは彼女の表情の中には無かった。ただぽかんと、今しがた自分に何が起こったのか、まだ理解できていないようだった。
 「あ……あぁ」
 ぼろぼろとミレニィの瞳から大粒の涙が零れだす。何でだろう。何故自分はこんな事しか出来ないのだろう。



 『全部この子が悪い。この子が貴方から、ジャンやクレア。……そしてリース王子を取ったのよ』



 頭の中に、そんな声が響いた。白昼夢でも見たのかもしれない。だが、冷静にそれらの真偽を確認する余裕はミレニィには無かった。ぷつりと何かが切れたように、胸の中から何か黒いものが溢れ出してくる。
 「あんたがっ!」
 「――――っ」
 「あんたが居るからっ!」
 気がついたときには身体が勝手に動いて、目の前で尻餅をついているシズクに掴みかかっていた。突然の事でシズクは何も対処が出来ないでいる。ただミレニィに掴まれた胸倉を、混乱気味に握る事しか出来ていない。
 きゃーっと悲鳴がどこかから上がったように思う。廊下にいた生徒の誰かが、あまりの状況に叫んだのだろう。それまで静まり返っていたのが嘘だったかのように、廊下には時がまわりだしていた。がやがやと騒ぎ、生徒達の何人かは、ミレニィをシズクから引き剥がそうと慌てて近づいてくる。落ち着けとかやめろとか言われた気がするが、無我夢中だったミレニィにはそのどれもが全く心に響かなかった。
 シズクが魔法学校にやってきてから、何もかもおかしくなっている。自分の心も、周囲の状況も、何もかも。こんな変な気分から逃れたかった。どうにかしたかった。どうにか――

 「ミレニィ!!」

 聞きなれた、でも最近聞く事が無かった声が、ミレニィのごちゃごちゃする心の中に突然割って入ってきた。それまでどんな言葉も響きやしなかったのに、彼の声は一際大きく胸に響く。
 どかどかと荒々しい音がしたかと思うと、目の前には赤髪ののっぽの少年が、真剣そのものといった表情で立っていた。気がつけば肩と右腕を掴まれて、シズクに飛び掛るのを止められている。
 「どうしちゃったんだよ! ミレニィ」
 「ジャ、ン……」
 名前を呼ぶと、ふつりと何かが壊れたようだった。全身の力を抜くと、洪水のように涙が零れ始める。嗚咽に埋もれる声では、もう何もまともな事は喋れない。

 どうしちゃったんだろう、本当に。こんなはずではなかったのに――

 それからしばらく、ミレニィはジャンの胸で、まるで幼い子供のようにわんわん泣き喚いていた。



第4章(1)へ / 戻る / 第4章(3)へ
** Copyright (c) takako. All rights reserved. **