+ 追憶の救世主 +

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第5章「証」




7.

 「失礼します」
 そう言って、まるでその場から逃げるように去っていくシズクの後姿を見届けつつ、リースは軽いため息を零していた。
 別に盗み聞きするつもりは無かった。父を訪ねて中庭に来たところ、先客が居て、それがたまたまシズクだっただけの話だ。二人の会話の深刻さからして、到底割って入れるはずもなく、こうしてシズクが去るまでの間、ほとんど全ての話を聞いてしまった訳だ。
 「…………」
 さやさやと、夜風が草木を揺する音だけが耳を撫でる。城の周囲にある湖からは、澄んだ空気が常に送り届けられている。それをふんだんに肺に含んでから、リースはどうしたものかと腕を組んだ。
 シズクとの話は終わったはずなのに、イリスピリア王はその場に立ち止まったまま、一行に動こうとはしなかったからだ。完全に出て行くタイミングを外してしまった訳だ。

 「……いつまでそこで隠れているつもりだ」

 少々呆れの篭った低い声がかかってようやく、リースは木の影から中庭の道へと姿を現す事を許された。シズクは気付いていなかっただろうが、父には見事にばれていたという事だ。草を踏みしめながら小道に出て行くと、自分と同じ色をしたエメラルドグリーンの瞳は、こちらを責め立てるような色をしていた。
 「盗み聞きとは、いい趣味だな、リース」
 「そんなつもりはなかったって。まったく……17の少女に振られて八つ当たりですか? 陛下」
 不機嫌そうな父の様子を察知して、敢えて茶化すようにリースは言う。それに父は呆れたようにはっと息を吐き出した。付き合ってられんといった気持ちが簡単に感じ取れる。
 「聞いたのか? 全て」
 「いや、途中から。けど、肝心の部分は粗方聞いたかな」
 リースの返答に、そうか。と短くイリスピリア王は呟いた。
 「では、ティアミスト家とイリスピリア王家の因縁に加えて、あの娘が何たるか、分かっただろう」
 言われて、少しだけ瞳を伏せる。先ほど目撃した会話のやり取りは、未だにリースの頭の中で鳴り響いていた。ティアミスト家の事。シーナの事。シズクの事。
 父がシズクに対して無意味に冷徹に接していた訳ではなく、心のどこかで葛藤しながら、やむを得ずああいう行動に及んだという事実は、少なからずリースを安堵させていた。だが、それと同時に、シズクの姿が一行に脳裏から離れて行ってはくれない。あんなに諦めの篭った表情のシズクを、リースは見たことがなかった。
 「それでも、彼女と共に行きたいと思うか?」
 ずきりと胸が痛むものの、父の言葉を受けて、リースは顔を上げる。瞬きすらせずに、自分と同じ、若葉色をした瞳を真っ直ぐに見つめた。
 散々考えた。甘いと言われるかも知れないが、なんとか自分が動かずにこの状況を良い方向へ向かせる手段は無いものかとも考えた。だが、そもそも上手い案自体、頭に浮かんでくる事はなかったのだ。シズクにあんな表情を浮かべさせないための、妙案などさっぱり思いつかない。では、このまま何もせずに見ていられるかというと、それだけは絶対に嫌だった。だから決めたのだ、せめて自分が一番後悔しない道を選ぼうと。
 パチンと軽い音を立たせて、腰に下げていた剣を鞘ごと外す。感じなれた重量から解放されて腰が軽くなると同時に、右手に剣独特の重みがかかる。柄の部分と鞘の端にイリスピリアの紋が刻まれた、リースの剣。本格的に使い始めたのはリースが10を過ぎてからだったが、彼が生まれた時に父から授かった物である。それらを確かめるように見つめた後で、目の前に佇むイリスピリア王に向けて、真っ直ぐ差し出す。
 「……何の真似だ?」
 「しばらくの間、イリスピリアの名を捨てる事をお許しいただきたい」
 澄んだ空気に、リースの声は程よく通った。しばし、両者は沈黙したままにらみ合う形になった。右手を突き出した形のまま、リースは微動だにしない。彼の視線の先の王もまた、身じろぎ一つしなかった。だがややして、くっくと低く笑う声が響く。イリスピリア王だ。
 「まさかこれを差し出してくるとは。気でも狂ったか、リース」
 リースの手から剣を受け取ると、イリスピリア王は慣れた手つきで鞘から剣を抜いてみせる。月明かりの乏しい夜に、刀身はくすんだ光を放った。
 「自身の『右腕』に何が宿るか、まさか忘れた訳ではないだろう。この剣を手放して、果たしてお前は剣をまともに振るう事が出来るのか?」
 「自分の身分を一時的とは言え、捨てるのです。並大抵の物では、『証』など立てられそうにありませんから」
 リースが告げたのと、夜の空気が鳴いたのとはほぼ同時だった。風のような速度で、イリスピリア王はリースの喉元に触れるか触れないかのギリギリの位置に先ほど受け取った剣を突きつけたのだ。殺気がちりちりと肌を焦がす。だが、リースは怯まない。それどころか先ほどよりも更に強い光を瞳に宿すと、半ば睨みつけるように父を見上げた。
 「…………」
 「何をしようとしているか、分かっているな。下手をすればこの場で切り捨てられてもおかしくないような事を、しようとしているのだぞ」
 喉元に突きつけられていた剣は獲物を狙う猛獣のような動きで移動し、絶妙な力加減を保ちながらリースの左喉を裂いて行く。ぬるりとした生暖かい感触が舐めるように首筋を流れ、鎖骨の辺りまでやってくる。目で確認しなくてもそれが血である事が分かる。おそらく今、少しでもリースが動いたら、傷は致命傷と呼ばれる深さに達するだろう。
 下手をしたら本当に殺される。だが、怯む事は許されなかった。この勝負、負けたら『証』を立てる事はもう出来なくなってしまう。
 「イリスピリアの王子としての責任を捨てるというのか」
 「自分の責任がどんなものかは自覚しているつもりです。捨てられるものではないという事も」
 姉であるリサは、頭はリースより切れるが、女王向きの性格ではない。リースでなくとも、彼女をよく知る人間なら誰しもが思っている事だろう。彼女を王位に縛り付けるのは酷過ぎる。周囲から寄せられている期待も、リースの方により強く向いているから余計にそう思う。だから……いずれ父から王位を受け継ぐのは自分である方が良いのだ。正式に決まっていないだけの話で、リースが次期イリスピリア王となるのはほとんど決定されているようなものだった。それが、簡単に捨てて良い責任ではない事は分かっている。逃げるつもりもない。
 ただ、今回の件はリースの個人的な事情なのだ。イリスピリアの王子という立場で動く訳にはいかないし、その身分はティアミストが関わる時点で、かえって邪魔になるものだった。
 「全てが終わった暁には、それ相応の責任を背負う事をお約束します」
 「それは、イリスピリアの次期指導者としての責任を背負うという事と取って良いのか」
 「構いません」
 冷静な光を宿した瞳を父の瞳に固定したまま、リースは告げる。剣から溢れる殺気が、相変わらず首筋を痺れさせるがそれを表情には出さない。血が伝う感触が不快だったが、無視する事に決めた。
 それきり両者は再び睨み合う事となった。いつ爆発してもおかしくない程に張り詰めた空気が、二人の間を支配する。まさに一触即発。
 「…………」
 ふんっと鼻を鳴らしながら、先に動いたのはイリスピリア王だった。リースの喉に突きつけていた剣を引くと、リースから視線を外して瞳を閉じる。ずっと引き結ばれたままの唇から、深いため息が零れ落ちたのはその直後の事だった。やがて王は懐から取り出した布で剣に伝うリースの血を拭い、ゆっくりとした動きで鞘と剣を合わせる。涼しい音を夜風に乗せて、剣は完全に鞘の中へと収められた。

 「好きにしろ」

 ぽつりとイリスピリア王が呟いた事で、ようやくリースも全身の力を抜いた。息を一つつくと、喉元が疼いて少しだけ眉をしかめる。致命傷からは程遠いものであるし、出血も大したことが無いが、皮膚を切り裂かれて痛みを感じない訳はなかった。
 「イリスピリアの名を捨てるからには他人も同然。再びその名を名乗るまでは息子とは思わん。旅の空で倒れようが傷つこうが、一切手助けはせんからな」
 眉間に皺を寄せ、苦々しく言い放つ父は、先ほどまでの鬼人のような雰囲気を既にまとってはいなかった。殺気が消えた睨みは、単に馬鹿息子を咎める親のそれになっているし、口ぶりもどちらかと言えば拗ねているように感じられる。
 ひとまず命の危機は去った。実の親に対して、普通ならば絶対浮かべない類の安堵感を真剣に浮かべながら、リースは肩をすくめる。
 「分かってるよ」
 普段の口ぶりで言うと、イリスピリア王はもう一度苦々しく鼻を鳴らした。
 「まったく。じゃじゃ馬はリサだけかと思ったら、お前もだったとは。……イーシャの血はしっかりと受け継がれている訳だ」
 「母さんは確かに男勝りだったけど、俺らのこれは間違いなく貴方の血だよ」
 全ての責任を亡くなった母に押し付けようとしている父に、リースは呆れ顔になる。屁理屈が上手いのも、物事をこうと決めたら頑固に突っ走るところも、他でもない父から受け継いだものである。リースでなくとも、皆が口をそろえてそう言うだろう。ネイラスなどが今の発言を聞こうものなら、鼻で笑われてしまうかもしれない。というか、母が化けて出ても知らないぞ。と心の片隅で思う。
 「お前がここまで強引な手段に出るのを見るのは、初めてだ」
 「そうかもな」
 王族とはいえ、普通の親子にあるような、些細な衝突くらいは今までに何度か経験している。しかし、リースの思い返す限りで、ここまで真正面から父に反抗したのは初めての事だった。多少頑固ではあるが、父は聡明で思慮深い。息子として反発する反面で、そういう父を、心から尊敬していたのだ。
 しかし、今回は違う。例えイリスピリアの王として最も良いとされる方法を選んだのだとしても、彼がシズクに対してしてきた事はリースにとって正しいとは言えない事だった。
 「……惚れたか。あの娘に」
 「は?」
 突拍子のない質問に、リースは思わず声をあげてしまう。からかわれているのかとも思ったが、エメラルドグリーンの瞳は真剣そのものだった。少なくとも、日頃リサから受ける類のものとは違うと悟る。さりとて、内容があまりにも父らしからぬものだったので焦ってしまう。
 「…………」
 こういう時、どういう答え方をするのが一番良いのだろう。
 「……さぁ」
 しばらく悩んだ末に出たのは、言葉ともいえないものだった。父から視線を逸らして、リースは伏せ目がちになる。浮かんできたのは、昨日のシズクの、こちらを必死で見つめる、不思議な色を宿した瞳だった。ティアミストが持つ、独特の色合い。あの瞳に魅入られたのだとしたら……それはそうなのかも知れない。
 ふっと、目の前で小さなため息が聞こえる。視線を上げてイリスピリア王の方を見ると、彼は苦笑いを浮かべていた。呆れが篭ったというよりは、諦めの感情が篭った苦笑いを。
 「忠告しておいてやろう。ティアミストはやめておけ。いずれは向こうの方から去っていく」
 「知ったような口ぶりだな」
 「知ってるさ……」
 からかいの篭ったリースの言葉をあっさりと受け流すと、今度はイリスピリア王の方が伏せ目がちになる。彼の心中に何が浮かんでいるのか想像もつかなくて、リースはただ首をかしげた。
 さらりと、金の前髪を夜風がさらって行く。先ほどのやり取りですっかりほてった体を風は程よく冷ましてくれた。
 「なぁリース。出来すぎているとは思わないか」
 父の言葉に返事をする代わりに、リースはそのエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐ彼の方へ向ける。
 「シーナに匹敵する程の魔力を宿し、瓜二つの容姿を持った少女と、パリスと全く同じ力を受け継いだお前が、同じ時代に生きる。偶然にしては出来すぎている。……どれだけ信心深くない者でも、神託を信じずには居られなくなるのではないか」
 その質問にリースは答えを返すことが出来なかった。



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