+ 追憶の救世主 +

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第5章「証」




6.

 セイラと話し込んで、退室した時には、夕飯時は過ぎてしまっていた。すっかり夕飯を食べそこねてしまった訳だが、空腹は全くといって良いほど感じない。それだけ心が満たされたという面が大きかったのだろうか。確かにそうかもな、と心の中で一人、シズクは納得する。イリスに来て初めて、自分が進んで知りたかった事を知れたのだ。
 セイラの口から語られる母は、聡明でとても物静かな印象の人物だった。シズクと全く正反対とも言える人である。そう思うのに、セイラが言うには、母とシズクは非常に似ているらしい。確かに、面影はある。だが、それ以上に、人としての根っこの部分がとても似ているのだと言う。
 父の事も少しだけ聞いた。セイラは数度しか会った事がないらしいが、キユウ・ティアミストと従兄弟の関係にあった人であるそうだ。魔道士というよりは、技術者や研究者という方が相応しいとはセイラの言。
 自分が本来一番知っているはずの人達の事を、こんな風に聞くのは、喜びと同時に切ない気持ちも運んで来た。特に、どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、父の姿を少しも思い出せない事が淋しかった。
 「…………」
 まだ成人してない身なので飲酒はした事がないが、ほろ酔いとは、こういう感じの事を言うのかと思う。頭がふわふわして、いまいち現実味がない。そのまま自室に下がるつもりだったのだが、ほてった頭がそれを拒んだ。酔った頭を醒ますとき、大人はどうするのだろうと考えた結果、足は城の中庭の方へ向いたのだった。夜風にでも当たれば、少しはマシになるかも知れない。
 中庭への出入口の警備兵とは目が合っただけで、特に止められたりはしなかった。魔法学校のローブを纏っている事以外に、昨夜の騒ぎで、城内でのシズクの認知度が一気に上がった事が、原因として上げられると思う。兵士に頭を下げられたので、やや緊張気味にこちらも頭を下げておく。

 「――――」

 まだ冷えるだろうと予想していたのだが、実際の中庭は何も羽織らずに丁度良いくらいの気温だった。風は、優しくシズクの頬を撫でて行く。少しずつ初夏へと切り替わっているのだ。オタニアを発った頃は、まだ春先だった。そう考えると、随分遠くに来たのだと改めて実感してしまう。次、オタニアの風をこの身に受ける日は、一体いつだろうか。答えの出ない計算をし始めた頭を、首を振る事で無理矢理停止させる。
 そんな時だ、彼の姿を目撃したのは。
 視界に現れた人物の姿に、シズクは思考を完全に奪われてしまう。よもやこんな時間のこんな場所で、彼と出会うとは思っていなかったのだ。夜風を受けてサラサラ揺れる金髪に、瞳を細める。威厳を体中に宿す、この国の王。
 「…………」
 だが、ふとシズクの方を振り返った彼の翠瞳は、初めて会った時の様に、強い知性の光で輝いては居なかった。穏やか過ぎる瞳に、息を呑む。

 「散歩かね」

 先に口を開いたのは意外な事に、彼――イリスピリア王の方だった。
 「え……あ、はい」
 まさか王が自分と口をきくとは思わなかったので、返答が遅れてしまう。一瞬の間の後、シズクは慌てて肯定の言葉を述べて、背中をぴしりと伸ばした。やはり彼の前ではどうしても萎縮してしまう。
 「少し、夜風に当たろうかと思いまして……」
 「まだ冷える。あまり長居はしないように。明日は早朝から発つのだろう」
 イリスピリア王の忠告に、はぁと曖昧に返事をしながらシズクは首を傾げていた。直接的ではないが、シズクの体調を気遣ってくれている言葉に違和感を覚えてしまう。彼と会って以来、シズクに向けられてきた言葉は、ことごとく自分を否定するものばかりだったように思うからだ。ところが、今の彼はどうだ。それまでシズクと対面していたイリスピリア王とは全く違う雰囲気を持っているではないか。
 ふと、先程セイラから譲り受けた写真が頭に過ぎった。爽やかに笑う、リースの面影を宿した少年の姿。立場や身分など関係なく、キユウ・ティアミストの隣で、彼はイリスピリアの王子ではなく、ただのレイ・ラグエイジという人間だった。
 そうして気付く。こんな風にイリスピリア王と二人きりで、面と向かって話をするのは、初めての事であるのだ、と。
 「…………」
 様子をうかがうように、王の方をちらりと見ると、彼はもうシズクの方を見てはいなかった。昼間とは様相を変えた中庭をくるりと一瞥してから、今宵の思わしくない空を見上げる。真面目な表情で夜空を見上げる横顔が、リースのそれと被ってシズクははっとした。

 「……一月程前」

 緩い沈黙を破ったのは、落ち着いたイリスピリア王の声だった。曇り空を見つめながら、王は言葉を続ける。
 「セイラから一通の手紙を受け取った。……弾んだ筆跡で、『キユウの娘が生きていた』と、『イリスピリアに連れて行く』と。たったそれだけの内容だった」
 「セイラさんが……」
 一月前というと、シズクがセイラ達と出会ってすぐくらいとなる。キユウと親友だった彼だ、同じく親友であるイリスピリア王に、この事をすぐさま知らせたかったのだろう。セイラはポーカーフェイスが恐ろしく上手い。だからシズクは彼の心中など探れるはずもなかった。とんでもない事に巻き込まれたと思うだけで、セイラが自分を見つけ出したことにどれだけ喜んでいたかも、自分をイリスピリアへ連れて行くことに、どれだけの期待を膨らませていたかも、全く知らなかったのだ。
 「手紙を読んで、そして……体が震えた。喜びで、だ」
 どきんと、胸が大きく鳴った。一瞬、彼が何の事を言っているのか、分からなくなる。
 「12年前、キユウに何もしてやれなかった。セーレーが襲われたという報せと、壊滅したという報せは、ほぼ同時にわしの元にやってきた。もう二度と会えない。そう思ったよ」
 「…………」
 王の横顔は、酷く苦しそうだった。親友が死んだのに、何も出来なかったのだ。例えばシズクがイリスピリア王の立場だとして、シズクが何も出来ないまま、アンナが死んでしまったとしたら、きっととても悔しくて、悲しい気持ちになるのだと思う。想像することしか今のシズクには出来ないが、想像するだけで深い悲しみが胸を突くのだ。現実にそれを体験した王の心中はいかほどだったのか、そう考えるとシズクの胸は静かに痛んだ。
 「そんなキユウの娘が、生きていた。一度は諦めた命が、奇跡的に残っていた。例えティアミストの記憶を一切失っていたとしても、会いたいと思った。そして、全力で守りたいと思った」
 夜空から視線をそらして、イリスピリア王はシズクの方へ視線を寄せてきた。目が合うと、彼の翠瞳はきらきらと優しい光を放っているのが分かる。
 「生きていて良かった。――シズク」
 社交辞令や上辺の言葉ではない。間違いなく彼の本心からの言葉だと感じられた。真っ直ぐぶつけられた思いに、シズクは目を見開く。しかし、それと同時に、今までの王の態度とのギャップに混乱も覚えた。セイラの報せを受けて、彼は明らかにシズクを保護して、味方になってくれる心づもりだったのだ。本来ならば、セイラの思惑通りイリスでの事が進むはずだった。それが、あそこまで態度を硬化させてしまう結果になるのだ。ここまで180度、態度をひっくり返してしまった、原因は何だ。
 シズクの心中を察したのだろうか。イリスピリア王は、少しだけ寂しそうな顔をすると、ゆっくりと瞳を伏せる。
 「セイラが連れてきたキユウの娘を一目見て、これほど運命を呪った事など、無いかもしれない」
 苦しそうに呻く王の言葉に、シズクは初め、彼が何を言おうとしているのか分からなかった。だが、彼の言葉を繰り返し噛み締めていくうちに、ある一つの、限りなく正解に近い仮定に結びついて、戦慄を覚える。
 「似すぎているのだよ」
 「……シーナに、ですか?」
 ぽつりと零した声は、意外なほどよく通った。シズクの言葉を耳にして、イリスピリア王は一瞬信じられないといった表情を整った容姿の上に浮かべた。だが、すぐにそれを冷静さで洗い流すと、渋い顔でこちらを見据えてくる。
 思い出すのは、先日のパリス老人とのやりとりだった。例の秘密会議を盗み聞きした後、夜のイリスピリア城を駆け回るうちに、シズクはある場所に辿り着いてしまったのだ。今思えば、あれはパリス老人に導かれたのだとも思う。その場所でシズクは、一枚の肖像画を目にした。まだあどけなさを残す少女の姿絵で、その容姿は怖いくらいにシズクと酷似していた。描かれた少女の名はシーナ。五百年前に世界を救ったとされる勇者、シーナ王女だった。
 シズクとシーナは似すぎているのだ。瓜二つと言ってもいい。
 深いため息が、夜の空気の中に舞い込んだ。発生元は他でもない、イリスピリア王だった。
 「キユウの娘がどんな者でも、受け入れるつもりだった。だが……シーナだけは駄目だ。イリスピリアの王として、彼女だけは受け入れる事は出来ない。その気持ちは、水神の予言を知ってより強くなった」
 拒絶よりも、深い葛藤が彼の中に見え隠れしている気がして、シズクはぎゅっと両手を握り締める。
 「たかが容姿が似てるだけ。そう思おうともした。だが、お膳立てするかのように整い始めた条件に、正直なところ戦慄すら覚えたよ。シーナの再来と言われても仕方の無い位置に、貴方は居る。大きな存在の現れは、世が乱れる予兆だ。……500年前のように」
 遙か昔、例の悪い魔法使いが出現した時代、世の中は大きく荒れた。世界中で治安が悪化し、戦争や紛争も多く起こったという。それを救ったのが、シーナ。救世主としてその名を轟かした彼女は、その後何故か王位を継ぐ事無く、イリスピリア王家を離れる。やむを得ず即位した弟のパリスに対する不安から、イリスで大きな謀反の波が沸き起こったのはそれからすぐの事だ。
 シズク自身としては、そんな人と自分が同列に扱えるとは到底思えなかった。自分は唯の一介の魔道士に過ぎず、国だ世界だなどといった問題とは程遠い人間として存在しているはずだったからだ。
 (でも……)
 冷えた空気をゆっくりと吸い込む。そうすると、思考がより明瞭になった気がした。瞳を真っ直ぐイリスピリア王の方へ据え、心を落ち着かせる。
 実際問題、シズクとシーナは瓜二つの容姿という線で、結ばれてしまったのだ。例えそれが単なる偶然の産物であるとしても、そこに何がしかの意味を見出そうとするのは人として当たり前の心理だ。更に間の悪い事に、水神の神託の中でも、シズクは世界に大きな影響を与える人物として予言されてしまった。要するに、勇者シーナと同じような目で見られても、おかしくない立場になっているのだ。王でなくても、これら全ての事情を知れば、誰でもそう思う事だ。シズク自身も、認めたくないと思う反面、認めざるを得ない状況であるという認識は、しているくらいだから。
 「シズク。この国の……いや、世界の『光』となってくれないだろうか。やがて来るとされる厄災を防ぐ手立てとして、立ち上がってはくれないだろうか。せめてわしは貴方に、『闇』になって欲しくはない。極力貴方の自由を奪うような事は、したくはないのだよ」
 昨日の夜、魔力は目覚めてしまった。ずっとシズクの中で眠っていて、ひょっとしたら一生気付く事なく終わっていた魔力が、明るみになったのだ。大きな力だ。思い出しただけでも体が強張る程に、圧倒的なものだった。
 あれだけの力を持っていたからこそ、ティアミストの魔道士達は500年もの間、イリスピリア王家を支え続ける事が出来たのだ。どれだけお互い相容れずとも、関係を維持する事も可能だった。『光』として立ち上がる事も、『闇』として世界を脅かす事も、あの魔力ならば可能かも知れない。そしておそらく、お人よしのティアミストならば、『光』として立ち上がる道を選ぶのだろう。自分の自由を犠牲にして、世界のためにその力を捧げるに違いない。
 だが――シズクは違うのだ。ティアミストの娘などではない。
 「……東の森の魔女は、魔力を自由自在に操れる人だそうです。だから……彼女に会って、自分の魔力を全て、消してもらおうと思うんです」
 シズクの言葉に、イリスピリア王は眉間に皺を寄せる事で応じた。
 「魔力を? ……全てかね?」
 険しい顔つきで尋ねられる。それにシズクはゆっくりと頷く事で肯定の意を示した。
 「それは、魔道士としての力を失うという事に等しい。今までのような生き方は完全に出来なくなってしまうという事だが、良いのかね?」
 王の質問に、シズクはもう一度頷く。
 魔道士ではなくなる。それは、イリス魔法学校はもちろん、オタニア魔法学校に戻る資格をも失ってしまうという事と同意である。アンナやナーリア達と同じ道を歩む事は完全に出来なくなる。だが、散々考えた末の、シズクなりの覚悟だった。
 『光』としての道を選ぶ事はシズクには出来なかったから。あれだけ大きな力を受け入れるだけの勇気は、どうしても出なかったから。
 「わたしはティアミスト家の魔道士ではありません。彼らと同じ名を名乗る資格なんて、ないんです。膨大な魔力を操る覚悟も、その力も持ち合わせていない。『光』でも『闇』でもない。ただの人間なんです」
 「ティアミスト家の血を引く者は、貴方を置いて他に誰一人として存在しない。完全に彼らの血を途絶えさせるという事になる」
 「ティアミストはもう滅んだんですよ。12年前に」
 先日、他でもない目の前のイリスピリア王が放ったのと同じ内容の言葉を、シズクは静かに告げた。それに彼ははっとなったようだった。エメラルドグリーンの瞳を見開くと、それきりもう何も言わなくなる。
 「12年前、母と交わした最後の会話で、彼女はわたしに、イリスピリア王に助けを求めるよう言っていました。きっと母にとって貴方は、最も信頼の出来る人だったんだと思います」
 「…………」
 「レイ・ラグエイジさん。イリスを出る前に、貴方の本心を聞けて良かった。ティアミストが滅んで、母がこの世から居なくなっても、貴方が根っこの部分では変わらず、母が最も強い信頼を寄せていた人のままであって、本当に良かったです」
 シズクがもし、シーナと全くかけ離れた容姿を持っていたとして、水神の神託などが下らなければ、この目の前の男性はシズクに全力で手を差し伸べてくれたに違いない。シーナと似ている。たったそれだけ。だがそれはおそらく、とても重要な問題なのだ。その事に寂しさを覚え、自分の境遇にため息を漏らしそうになるが、どうにもならない事だ。半ば諦めたように瞳を細めると、王に向けて控えめに頭を下げた。



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