第11章「東の森の魔女」
9.
小屋のドアが開く音がした時、初め、シズクが出てきたものかと思った。しかし、リース達の前に姿を現したのは彼女ではない。ピンクベージュの巻き髪を揺らすテティだった。後ろ手に扉を閉めてから、彼女はこちらへ歩いてくる。クールな容姿の上に浮かぶのは、相変わらずの無表情である。
「シズクは?」
テティに駆け寄って心配そうに告げたのはアリスだ。彼女の言葉に、魔女は一瞬瞳を細めた。初夏の森に、ため息が落とされる。
「一人にしておいた方が良いと思ってな……。過去と向き合う事は容易ではない。お主たちもそうだろう?」
言って、テティは紫水晶の瞳をリース達に向けた。その言葉の内容にどきりとする。一瞬、頭に浮かぶ光景があった。
過去と向き合う事は、確かに簡単ではないのだろう。それが、悲しければ悲しい程に、目を背けたくなる事も多くなる。過ぎた事だと思っても、胸の痛みはいつでも鮮明に蘇る。
「頑張ったようだな、リース」
「え?」
突然自分の方に話が向いたものだから、間抜けな声を上げて放心するしかなかった。しかし、テティはそんな事には動じない。無表情が標準装備の彼女が、他人の表情に影響を受けるはずがなかった。
「右腕の力と向き合い、少しは振り回されないようになったと見える」
「…………」
「だが、まだ甘い。……イリスに帰ったら更に腕を磨け」
「……はい」
しばしの間をおいて、比較的真剣な顔でリースは頷いておいた。珍しく素直なその様子に、すぐ隣でアリスが目を丸くしたが、テティは驚きを見せなかった。
言われなくても、現状ではまだまだだという事は分かっているのだ。だからイリスに帰還したら、ネイラスに願い出ようと思う。今度は本気で。強くなるために。
「嫌な空気だ。大陸がまた荒れているな。『石』を求めて魔族(シェルザード)が動き出しておるようだし……12年前の続きか……」
シュシュの町に居た頃にも、そのような噂は聞いた。荒れていたのはシュシュだけではなく、イリスピリアの東部が全体的にそうらしい。暗躍しているのは、十中八九魔族(シェルザード)達。だが一つだけ、テティの言葉の中に聞きなれない単語を見つけて、リースは眉をひそめていた。
「石?」
首を傾げるリースを見て、テティは唇を僅かに吊り上げる。笑ったというよりは、表情を歪めたといった方が正しかった。
「大きな役割を持つ石だよ。わしの額に埋まる石もそのうちの一つ。故にわしも……重い腰を上げねばならぬのかもな」
目を見開いて、リースはテティの額に埋め込まれた真っ赤な石を凝視する。普通の宝石では到底出せない輝きは、魔力を宿している故だった。東の森の魔女は永遠の命を持つ。その生命の源となっているのが、額に授かった魔石なのだ。神が授けたとされているが、真偽の程は分からない。
「シズクが王家の影であるティアミストとして立ちあがるなら、リース。お主もまた、光であるイリスピリア王家として立ち上がるのだろう。そして……アリス」
釣り上がり気味の紫の瞳は、そこで初めてアリスの方を向いた。黙ってテティの言葉を耳にしていたアリスは、呼ばれてびくりと肩を震わせる。その様は、まるで大人から説教をされるのを待つ子供のようだった。瞳には怯えが混じる。
「お主がこの森を訪れた時、驚いたよ。……お主にとってこの森での日々は、あまり良い思い出ではあるまい?」
「……っ! そんな事――」
「だが、少しずつ前へ進む気になったようだ。だからわしからお主に、最後の課題を課そう。――セイラの弟子を
「!」
この言葉には、アリスだけではなく、リースもまた驚いた。アリスはセイラの呪術の弟子であり、彼の守人でもある。言わば側近と呼んでもおかしくない立場の人間であるのだ。セイラの弟子で無くなる事は、その関係性が崩れる事を示す。
「このまま行くと確実にエラリアも荒れるだろう。過去と向き合え、アリス。エラリアはお主を必要としておる」
「…………」
テティの言葉に、アリスは返事をしなかった。黙り込んだまま、薄くほほ笑む。絶世の美しさを誇る極上の笑みだったが、冷たいなとリースは思った。
「師匠にも、いつまでも迷惑をかける訳にはいかないんですよね」
「そうではない、アリス」
「分かっています」
そこでアリスの微笑みは崩れた。代わりに、いつか見た儚い表情が顔を出す。普段、年齢以上に落ち着いているように振舞う彼女の本質は、繊細な心を持つ、傷つきやすい17歳の少女だ。
「本当は私の気持ちの問題なんだって……いつかは向き合わなければいけない事も」
「確かにお主自身の問題だろうが、一人で背負う必要もまた、ない。真に一人きりで立ち向かえる力がある人間などおらぬよ。ほら――」
「え……」
小さくアリスが零した時の事だった。テティが肩をすくめて小屋の方へ目配せをするのを見て、リースもまた視線をそちらへ向ける。木造りの簡素な扉が、鈍い音を立てて開いた。
「あ、やっぱり外に居たんだ」
初夏の風に舞うのは、焦げ茶色のポニーテール。よく通る高めの声を聞いて、リースは安堵していた。彼女の――シズクの声が、いつもとまったく変わらぬものだったからだ。
「シズク!」
それまでのしんみりとした空気など無かったかのように、明るい声で言うとアリスはシズクの元へ向う。テティとリースもゆっくりとした足取りでそれに倣った。
「シズク、大丈夫だった? どこも悪いところはない?」
「大丈夫だよ」
心配そうに首を傾げるアリスに、シズクは笑顔で答える。
リースが見た限りでも、表面的には彼女に別段悪いところはなさそうである。顔色は悪くないし、能天気な表情もいつもの通りである。ただ、少しだけ目が赤い事に気づいてしまった。泣いたのかな、と心の中でだけ思う。
「……で? 使えるようになったのかよ、魔法」
両手を頭の後ろに組んで、訊ねてみた。小屋から出てきたという事は、要件はすんだのだろう。見た目に全く変化はなくとも、内側で何らかの変化が起こっているはずだった。彼女の魔力は戻っているのだと信じたい。
だが、リースの言葉にシズクはなんともバツが悪そうな表情を浮かべると、髪の毛をかく仕草をしたのだった。
「んー、それが。全然」
「はぁ!?」
「まだ全く使えないと思う」
言って、あははと呑気に笑いだす始末。いやしかし、全くもって笑いごとではない。シズクが魔法を取り戻さなければ、はるばるここまで来た意味が全く無くなるではないか。
「……どういう事?」
呆けるリースの隣で、アリスもまた困惑していた。不可解そうに眉をしかめると、説明してくれとばかりに視線をテティにくれる。伝説の魔女は、表情を一切変えていなかった。相変わらずの無表情で、ただ腕を組んでいる。
「当然だろう」
「何が当然なんだよ!」
突っかかるリースに、テティは何を当たり前の事をと言いたげな視線を向けてくる。
「シズクの魔力そのものは、星降りの晩にとうに目覚めておっただろうが。問題はそれが制御できない事であって、そのためにお主らはわしを訪ねて来たのだろう。そこでわしは手を貸した。シズクの精神環境は整えられて、おそらく己の魔力を制御出来るようになっただろう」
「そこまで出来たのに、何で魔法が――」
「お主ら、忘れておるな。シズクの魔力が、セイラの術によって完全に封印されておる事を」
「――――」
しばしの沈黙。
完全に表情を失うリースとアリスを見て、悪戯が成功した子供のようにテティは笑った。こらえ切れなくなったのか、シズクも声を上げて笑いだす。
「イリスに帰ってシズクがまずすべき事は、セイラに術を解いてもらう事だ」
なるほど、確かに言われてみればそうであった。物凄く筋が通っている。くやしいくらいにそれはもう見事に。
シズク本来の魔力など、とうの昔に目覚めていたのだ。それが扱えないからこそ、セイラは彼女に封印の術を施した。シズクの魔力は封じられ、暴走で命を落とすリスクが回避された反面でシズクは魔法を失った。
テティはシズクが暴走せずに魔力を使えるようにしてくれたに過ぎない。魔力を復活させるには、セイラが術を解かなければならないのだ。
「……と、いう事は」
盛大に脱力感を覚える。半眼でシズクを見ると、彼女は笑いを必死で抑えようとしているところだった。
「ごめん。帰りもお守、お願いする事になっちゃう」
両手を合わせると、ぺこりと頭を下げてくる。申し訳なさそうにする割に、未だに彼女は笑っている。
「……まぁ別に、そこに関しての異論はないけど」
「イリスに帰ったら、あの馬鹿師匠を問い詰めないといけないわね。何故こうなる事を事前に教えてくれなかったのかを」
ふふふと、冷えた笑みを見せるアリスを見て、背筋に冷たいものが下りた。こういう笑い方をする時の彼女は、触らない方がいい。
肩をすくめると、リースはため息をひとつ零した。ここまで来た行程を思うと、またあの道のりを引き返す事に気だるさを覚えなくもない。しかし、不思議と気持ちは軽かった。イリスを発つ時に感じていた不安の一つは解消されたからだ。あの夜、諦めたように笑ったシズクが、少なくとも今は明るく笑っているから。
リースの瞳に、深い色の瞳が飛び込んでくる。目が合って、自然リースも笑顔になった。この瞳に自分は惹かれたのだと、なんとなくそう思う。
「帰ろう。イリスに」
「……くしっ!」
隣に立つ人物が突然くしゃみをしたものだから、リサは咄嗟に怯んでしまった。沈黙があたりを包んでいたからかもしれない。それだけここ――国立図書館の奥に位置する特別な保管庫の中は静かだった。尤も、普段誰も出入りしないのだから、当然と言えば当然の話である。
「どうしました? セイラ様」
目を丸くして、リサは黒髪の好青年に声をかける。同行人である水神の神子がくしゃみをした犯人だ。
「驚かせてすみません。誰かが僕の噂話でもしてるんでしょうかねぇ」
丸眼鏡の奥の瞳は、笑っている。これだけ雰囲気が張りつめていても、相変わらず彼はマイペースであるらしい。しかし、定番の好青年スマイルは影を潜めている。いつになくセイラが真剣なのもまた、確かだった。
(まさか、こんな所にあったとはね……)
胸中で呟くと、リサは目の前のガラスケースに収められたものに目を向ける。500年程前に出土したそれは、オリジナルの創世記が刻まれた石盤である。普段はこの部屋に隔離されて、許可を取らないと見る事はかなわない。あの日、図書館で出会った青年が見たいと言っていたものだった。
初めはなんとなく気になって、見に行ってみようと思っただけだ。何度か見たことがあるし、その物語の内容も知っていたから、大した発見はないと、そうたかをくくっていた。だが、世間に出回っている創世記ではなく、オリジナルのみに記されていた物語を解読していくうち、リサは驚愕することになる。
いちばん初めは北の果てなるレムサリア 賢い水神(レムス)は水を生み
南のはずれのエレオーヌで 負けずと火神(アレオス)は炎を呼んだ
東にあったセリーズで それでは私もと 温和な風神(セレス)が風を謳うと
残りは我と 厳格な雷神(ディルス)は 西のディレイアスで雷を起こす
それを見ていた光神(チュアリス)と闇神(カイオス)が昼と夜を作り
こうして世界は完成した――
ありきたりなくだり。そこから様々な種族が生まれて世界は回りだす。そうして人間が誕生して、幕を閉じる。これが世間一般で言うところの創世記である。しかし、石盤に刻まれた物語にはもう少しだけ続きがあった。太古の文字で綴られた創世記は、こう締めくくられる。
儚き揺り籠には、最後に6神の欠片が落とされた
水は自ら意志を持って知を与え
火は永遠を秘めたがために争いを生んだ
風は戦で傷ついた大地を癒し
雷は哀れなる者どもを律するため力を宿した
光は愛ゆえに全ての采配を自らの子に与えてしまった
嘆いた闇はせめてもの救いをと何も力を与えず欠片のみを落として揺り籠を去る
欠片の集いし時、偉大なる力は目覚めるだろう
けれど決してそれを集めてはならない
揺り籠は崩れ、世界の終わりを目にする事になるだろう――
(欠片……偉大なる力)
何故今まで気づかなかったのだろうか。間抜けにも程があるなと、自らを叱咤したくなった。
それらは皆、リサが求めていたキーワードに通じるものである。物語は、リサが探している『石』の在り処は示してくれない。パリス王が行った事を説いてもくれない。しかし、『石』が何であるかは教えてくれている。それらはリサが予想したように、絶大な力を宿した何かなのだ。そして、6つ全てを集めた時、世界にとって確実に良くない事が起こる。
「魔族(シェルザード)達は、セイラ様の杖を含め、何かを欲しているんですよね」
「えぇ、そしておそらくそれは、創世記にある『欠片』で間違いないでしょうね。リオは水神の力を宿した、神の『石』ですから」
とすると、彼らの狙いはとんでもないものだという結論が導き出されてしまう。
「この物語を信用するのだとすると、6つの欠片を集めた時、何かが起こり、結果的に綺麗さっぱり世界が滅んでしまう。って事なんでしょうね」
創世記が正しければ、6つの欠片を集めた瞬間、世界を包むのは滅びだ。魔族(シェルザード)達は、滅びを望んでいるのだろうか。
(でも……何故)
瞳を伏せて、リサは胸中で独白していた。『石』の真実や魔族(シェルザード)の狙いは、リサにとっても愕然とするものだった。だが、彼女をそれ以上に混乱させていたのは、この石盤を見たいと望んでいた青年の存在だった。何故彼はこれを見たいと思ったのだろう。単なる歴史的探究心からだろうか。いや、それにしては随分意味深な表情をしていた。思えばそう、彼も自分と一緒でパリス王の記録を追っていたのだ。
(シン、貴方は一体――)
「僕の予想を遙かに超えた、何かが起きようとしているのかも知れないですね」
セイラの呟きは、展示室の中に重く響いた。
【第2部 完】
こそっとあとがき