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第11章「東の森の魔女」




8.

 一旦降り始めると、雨脚は弱まる事なく町に降り注いだ。視界が悪くなり、周囲に靄がかかりだしても、戦いが止む事は無い。どおんという重い音と震動が、時折ジーニアの足をもつれさせる。
 肩で息をしながらジーニアは目の前で揺れる銀髪を視界に入れた。手を引いてくれている少年は、淀みのない足取りで自分を導いている。あちこちの建物が倒壊し、瓦礫の山と化した街路は、既に町の姿を保っていないのに、少年に迷いはなかった。小動物を思わせる動きでするすると街路を移動していく。時折、戦っている人々の目を避けるために隠れはしたが、比較的あっさりと町を抜け出すことに成功した。
 町の出入り口である大きな門の前には、人は居なかった。立ち止まって後ろを振り返ると、町の様子を見渡すことが出来る。あちらこちらから煙が上がり、建物は打ち砕かれて、元の形を保ってはいない。悪夢を見ているのではないかと思う。とても現実だとは信じられない。顔をくしゃりと歪めて、ジーニアはまた涙した。
 そんな時だ。ひと際大きな雷が、町の中心部に落ちた。音と光に体を引きつらせる。全身を貫かれるような衝撃が走った。

 ――ジーン。

 「――――」
 青い瞳を目いっぱい見開いて、ジーニアは雷が落ちたあたりを見つめていた。今、母の声が聞こえなかっただろうか。そんなはずはないと思うも、あれは確かに母の声だった。
 「……いよいよ時間が無いね」
 すぐ隣でぽつりと少年が呟く。見ると、彼は右手で顔の半分を覆っている。左半分の表情は苦悶に歪んでいた。つい先ほどまでは飄々としていたのに、どこか苦しいのだろうか。
 心配そうに眉をひそめるジーニアの目の前で、少年は左半分でほほ笑んでからゆっくりと右手をこちらに差し出してくる。眼前に曝された彼の右半分を視界に入れた瞬間、ジーニアは大きく息をのんでいた。手品か何かを見せつけられた気分だった。先ほどまで美しく澄んだ青色だった右目が、今は真っ赤に染まっていたから。血の色のように妖艶に輝く――紅の瞳。初めて見る色だった。
 「あなたは……」
 「僕? 僕はカロン。カロン・L・サード。……君は?」
 カロンと名乗った少年は、右手を優しくジーニアの額に当てた。触れた手は柔らかくて暖かい。人形のように整った容姿でも、彼がちゃんと血の通った人間である事をぬくもりが語っている。
 「君の名前は?」
 もう一度、カロンは首をかしげてこちらに質問を寄こしてきた。宝石のような真っ赤な瞳に魅入られて、全てを奪われそうになる。雨の雫が彼の綺麗な顔を濡らしている。ひょっとしたら、泣いているのかも知れない。
 「ジーンだよ。ジーニア・ティアミスト」
 「そう……『安寧を抱く者の名は、ジーニア・ティアミスト』」
 カロンの言葉の後半部分は、ジーニアに告げたというよりは、何かを宣言したと言った方が正しかった。凛とした言葉遣いは、魔法を唱える時に似ている。否、事実、彼は今まさに魔法を唱えたのだ。その証拠に、ふらりとした浮遊感が身を包む。額に触れる指先から、何かが流れ込んできた。
 「待っ――」
 「悲しい記憶は、全部閉じておくから。君はもう一度生まれ変わるんだ」
 待って。
 そう言おうとしたジーニアの言葉を遮って、カロンは告げた。そして儚く笑う。青かったはずの彼の左目が少しずつ赤みを帯びている事に気づいて、背中がぞくりと鳴った。右目だけが赤いと思っていたのに、左目もまた色を変えようとしている。
 「また、会える?」
 気づけばそう問うていた。だが、ジーニアの言葉にカロンは首を左右に振る。
 「もう二度と会わない方がいい。出来れば魔道の世界からも遠ざかって、名前も忘れておく方がいい」
 「忘れてしまうのは、悲しいよ」
 ぽつりと零した呟きに、カロンは目を見開いて、今にも泣きそうな表情を浮かべた。傷つけるつもりは無かったのに、自分の言葉で彼を傷つけてしまったのかも知れない。心配で表情を曇らせるジーニアに視線を合わせて、カロンは薄く笑う。泣き笑いのような、悲しい笑みだった。
 「もし僕ともう一度会いたいと思ってくれるのなら、僕の事、覚えていて、ジーン」
 「覚えとく。忘れない……忘れないよ!」
 「そう、約束だよ――『蓋を閉じる者の名は、カロン・L・サード』」
 またカロンは凛とした声で呪文を唱える。とん。と、人差し指で額を叩かれると、針で突かれる様な鋭い衝撃が頭に走った。
 (あ……)
 それまで以上に、景色が歪む。奥へ奥へと、自分という存在が吸い込まれていくような感覚だった。一欠けらも残さぬようにと、引きずり込まれる。
 「本当は忘れた方がいい……けど、忘れないで欲しい」
 大切なものが瞬く間に失われていく。手を伸ばして助けを請うても、カロンは悲しそうに笑うだけだった。
 「忘れないでね、僕の、名前」
 ぶつんと、視界が完全に途切れる。それが、ジーニアが聞いた最後の言葉だった。



 (…………っ)



 気がつくと、頬を冷たい涙が伝っていた。真白な世界の中で、シズクは意識を取り戻す。戻ってきたのだと静かに理解していた。ジーニアの記憶から、シズク・サラキスへと帰還したのだ。
 ぼんやりと周囲を見渡していると、遠くの方で色彩を持つ景色が見えた。無意識に足がそちらへ向かう。
 やがて鮮明に見えてきたのはベッドと机がほとんどの存在を占める簡素なつくりの部屋だった。ベッドには、一人の少女が腰かけている。焦げ茶髪をツインテールにした幼い少女。紺色のローブに身を包んだ彼女は、虚ろな表情でひたすらに床を見ている。独特の色をした瞳も、今は光を宿さない。
 それは知っている光景だった。知っているに決まっている。
 (これは、わたしだ)
 瞳を細めて、シズクは俯く過去の自分の肩に触れた。小刻みに震えているのを感じる。

 「シズク」

 名を呼ばれる。ほとんど条件反射のように、シズクは声のした方を見た。しかし、幼い自分は俯いたまま微動だにしない。まるで自分が呼ばれた事に気づいていない。
 「シズク」
 声の主は、ブラウンの聡明な瞳を細めて、幼い少女の目の前までやって来る。そしてしゃがみこむと、小刻みに震える小さな手を取った。
 (カルナ校長……)
 今より幾分若かったが、薄茶色の髪の毛を纏めた女性は、オタニア魔法学校の校長であるカルナ・サラキスで間違いない。
 そこまでされてようやく少女は顔を上げる。虚ろな瞳には、柔らかくほほ笑むカルナが映り込んだ。表情をほとんど変えずに、幼い自分は少しだけ首を傾げる。錆付いた人形のように、ぎこちない動きだった。
 「……シズク?」
 「えぇそうですよ。貴方の名前。シズク・サラキス」
 「わたしの、名前……」
 シズク・サラキス。
 他人の名前を呼ぶかのように少女はその名を呟く。まるでしっくりこないようだった。眉をしかめると、やがて瞳を潤ませる。ぽたぽたと、紺色のローブの上に涙が落ちた。
 「何も、分からないの」
 力なく少女は呻く。
 無我夢中で走っていたら、児童保護所に保護された。そうして訳が分からぬうちにここに来て、紺色のローブに袖を通されていた。
 多くの大人が言うには、酷い争いごとがたくさんの町を襲ったのだという。魔法学校に引き取られた子供達の多くは、その戦いで家族と住む場所を奪われたらしい。少女もそんな人間の一人なのだろう。怖い思いをたくさんして、大切なものをたくさん奪われたに違いない。けれど、何も思い出せはしなかった。自分の身に何が起こり、どうしてここに居るのか、全く分からなかったのだ。
 「カロン……」
 分かるのはその、名前のみ。赤い、血のような色をした瞳が頭によぎる。人形のように整った顔で、彼は薄くほほ笑んで何かを言った。しかし、それが何かは思い出せなかった。ただ忘れないでと。そう言われた事しか記憶の中に存在しない。
 「魔族(シェルザード)……」
 全部、無くしてしまった。奪われていった。
 嗚咽で震える唇から、その単語がこぼれ落ちた瞬間、カルナ校長の表情に初めて影がさした。苦しそうに笑って、右手でそっと少女の頭を撫でる。
 「そう、それが貴方の()なのね」
 「分かんない。でも、探さなきゃ……」
 何も分からない。でも、見付けたい。取り戻したいと思った。
 「今は、休みなさい。シズク」
 頭を撫でるのをやめると、カルナは少女の右手を取り、その中に握られていたものを丁寧な動作で手に取った。部屋の明かりを受けて、それは繊細な輝きを放つ。銀のネックレスだった。いつの間に持っていたのだろう。それが何か、何故自分が持っているのか、それもまた少女には分からない。
 「戦いは、尊い犠牲のお陰で収まりました。今はこれ以上悲しみを背負わなくてもいい時ですよ」
 そう言って、カルナはネックレスを少女の首にかける。
 「このまま時間が、悲しみを消すかもしれない。大きくなった貴方は、もう取り戻したくないと思うかも知れない。でも……もし貴方が願い続けるなら、いつか探しに行けばいい」
 「探しに……」
 行かなきゃ。ぽつりとそう溢す。
 「その日が来るまで、休みなさい。そして、正しく生きなさい」
 銀のネックレスは、何も語る事なく輝き続ける。滲んだ視界に、繊細な輝きが広がる。
 「――――っ」
 声もなく、少女は涙を流し続けた。悲しいのか、そうでないのか、よく分からない。
 しばらく頭をなでた後、カルナはそっと部屋を出ていった。後には少女が一人、取り残される。正解をくれるものなど何もない。

 (…………)

 「わたしは――」

 静かな部屋に、独白が響いた。焦点の定まらない目で、彼女は部屋の壁を眺める。震える右手は、首にかかるネックレスへ伸びた。
 「わたしは、なんなんだろう」
 (――――)
 寂しそうな声を耳にした瞬間、たまらなくなった。だからシズクは、幼い自分を抱き締める。
 全て過ぎた日の記憶だ。こんな風に抱いたところで、過去の自分が救われる訳ではない。それが分かっていながら、そうせざるを得なかった。震える自分を抱きしめるシズクもまた、小刻みに震えている。
 「わたし……」
 (シズクだよ)
 「シズク?」
 (シズク・サラキス。貴方の名前)
 「わたしの、名前?」
 抱きしめる力を弱めると、少女を見る。そこで初めて彼女は上を向いた。深い色をした瞳を、確かにこちらに向けたのだった。
 (あ……)
 虚ろだった瞳に、初めて光が宿る。深いティアミストの青が戻って来る。涙に濡れる瞳を細めると、ようやく少女は――シズクは笑ったのだ。

 「おかえり、ジーン」

 「――え?」

 目を見開く。溢れた声は、あどけなさを残す少女のものだった。いつの間にか、視線の高さが目の前の自分と一緒になっている。焦茶髪のツインテールが揺れる。あの頃よく身に付けていたワンピースに身を包んだ自分は、ジーニアと呼ばれていた少女だった。
 ベッドに腰かけたまま、幼いシズクは泣きながら笑う。小さな右手を差し出されて、ジーニアもまた泣き顔を歪めて笑った。
 「ただいま……」
 小さな右手同士が重なる。もう離れる事が無いように、しっかりと手と手が握られた。ようやく、探し出せた――

 「ただいま」






 「…………」
 ゆっくりと目を開く。目覚めたそこは、レースとパステルカラーが溢れるテティの部屋だった。ふわふわとした浮遊感が無い事から、どうやらここは現実のようだ。右手を見ると、子ブタのぬいぐるみがしっかりと握られている。テーブルの上には既に冷めきった紅茶の入ったカップが4つ、置かれたままになっていた。
 椅子に座ったまま、眠りこんでいたらしい。焦げ茶髪のポニーテールを揺らして周囲をうかがい見るが、意識を手放す直前まで話をしていたはずの魔女の姿はない。出て行ったのだろうか。だが、今はそれがありがたいと思った。
 「……ふっ……あっ」
 ぬいぐるみを持つ方とは反対の手で、口を覆う。そうしていないと、嗚咽が外にまで聞こえてしまいそうだったからだ。たくさんの事を見過ぎた反動か、何もしていないはずなのに疲労だけが激しかった。頭も胸も締め付けられるような痛みを放つ。
 落ち着こうと思って大きく息を吐いたのが間違いだった。余計に涙が溢れ出して、止まらなくなった。
 「――――っ」
 幼い頃の自分がそうしたように、すするような声を上げてシズクは泣いた。



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