追憶の救世主

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第6章 「それから」

1.

 そこは、酷くひっそりとして、寒く湿り気のある場所だった。
 時刻は夜もとうに更けた頃だろう。ただ一つの窓から覗く空には、半月になりかけた月がぽっかり浮かんでいる。
 部屋に差し込む月明かり以外の唯一の明かりは、廊下に立て掛けられた松明のみ。それももう、くすぶってほとんど消えたも同然の状態である。
 ち、と憎々しげに舌打ちすると、男はその場にどっかりと横になった。薄っぺらな印象を受ける猿顔の、老年に差し掛かった男だ。
 今の彼の生活可能な領域の全てが、薄汚いこの場である。もちろん彼とてこんなじめじめした場所に望んで居る訳ではない。可能ならば今すぐにでも逃げ出して、自由になりたいと切に思っている。
 だが、魔道士である彼への対抗策として、この部屋……いや、『独房』には魔法封じの細工が施されているのだ。故に魔法を用いて出る事は不可能である。
 では魔法以外の方法は無いのかと言われると、それ以外、男には他人に対して誇れるものは何一つない。いや、他にもあったかもしれないが、つい先日の事件で全てを失ってしまった。
 かと言って、自殺する程男に勇気があるかというと、それも無かった。ただひたすらに、自らの罪に対する判決が下る時を、生きながら待ち続ける事しか出来ないのである。
 (全ては、あの小娘のせいだ!)
 唾棄しつつ、男は心の中で悪態をついた。
 そう、全ての元凶はあの小娘。名前など、はなから興味がなかったのであえて尋ねようともしなかったが、おそらくオタニア魔法学校の魔道士だろう。年端もいかない、見たところ明らかに見習いの未熟な魔道士だった。
 だから全く警戒などしていなかった。男が警戒していたのは、水神の神子一人のみで、彼を行動不能にしたら勝利はこちらにあると踏んでいたのだ。ところが――
 (そこをあいつが、あんな魔法を……)
 怒りのあまり、男は鼻を鳴らした。
 思い出しただけでも虫酸がはしる。見習い魔道士だと思われた少女の口から紡がれたのは、強大な、圧倒的な魔法だったのだから。
 どんな魔法かは、男の知識をもってしても分からない。難解な言語で呪を唱えたかと思うと、一瞬で全てに決着をつけた。
 あの魔法のせいで、彼の可愛い合成生物(キメラ)は跡形もなく消されてしまったし、揚げ句の果てには、彼の城までもが破壊されたのだ。そして、最終的にはこんな場所に放り込まれる羽目にもなった。
 (あと少し……あの杖さえ手に入っていれば、私の研究は成功したというのに!!)
 もう一歩というところで、奴等に邪魔された。これまでの全ての苦労が、水の泡だ。
 「くそっ!!」
 たまらなくなって、ついに男は声に出して怒りをぶちまける。ひっそりとした独房に彼の声は異常に響いたが、響くだけで他に何も起こるわけでもなかった。やがて時間とともに響きは消えて行き、空間は元の静けさを取り戻した。空しい。男はため息を一つ零すと、力なくうなだれてしまう。

 「おやおや、随分ご立腹のようだ」
 「――――!?」

 そんな時だ。
 突然、男とは別の声が後方からかかったのだ。
 この狭い牢屋に、二人も人間が居るはずはない。看守かと思い、格子の外を眺めてみるが、誰の姿も見受けられなかった。恐る恐る、男は、声のしたほうを振り返ってみる事にした。
 「――! お、お前は!!」
 「ご機嫌麗しゅう。ご主人様」
 目の前に突如現れた銀髪少年に、男は激しく狼狽した。あまりに慌てたために、独房の壁に軽く頭を打ちつけてしまったくらいである。
 男が驚くのも無理は無い。眼前に佇む少年は、つい先日まで彼の下で仕えていた、彼の僕の一人だったのだから。名は、クリウス。古の魔道の民、魔族(シェルザード)の一族の者である。
 例の事件以降、姿をくらましていたその彼が、何の前触れも無く、主人が投獄されている牢屋へ姿を現した。
 最初はうろたえた男だったが、状況を彼なりに把握するにつれ、心が落ち着いてくる。そしてやがて、ふっと、薄っぺらい笑みを顔全体に貼り付けると、小刻みに肩を振るわせ始めた。怯えから来るものではない。これは、歓喜からくるものだ。
 クリウスがここに来た理由。それはもちろん自分を助けるのが目的での事だろう。彼の術をもってすれば、脱出など容易い事だ。神はまだ自分を見捨てては居なかったという訳だ。
 「いいところへ来てくれた、クリウス! さぁ、早く牢の扉を開けるのだ。それとも何か? 術で瞬間移動でも良いぞ」
 上機嫌で男は言うと、目の前に佇む少年に向かって命令する。
 ここから出られる! その喜びだけが、彼の心の中を占めていた。すぐ目の前で銀髪の少年が、冷ややかな視線を男の方へ投げかけている事には、気付かずに。

 「……愚かな」
 静かな空間に、クリウスの冷たい声が響き渡ったのは、それからすぐの事だった。彼は軽蔑のこもった冷たい視線を、かつて彼の主人であった男の方へ向けると、小さく息を吐いく。月明かりに照らされて、彼の青い瞳は怪しく光る。
 対する男の方は、一瞬何が起こったかわからなかった。きょとんとして目をしばたかせると、しばらくその場で硬直する。
 「クリウス……今、なんと?」
 お、愚かだと? 誰が? ……この私が?
 「結局僕のしたことは、全くの徒労に終わった訳だ。無能な主を選ぶべきではなかったね」
 「な――」
 クリウスの態度の変化に、男は自身の耳と目を疑った。今まで男に忠義を尽くし、どんな命令でもそつなくこなしてきた忠実なる僕であった彼の、この突然の変化は何だ?
 「貴様……」
 裏切った。というのだろうか。
 「裏切ったわけじゃないさ。なぜならば、僕ははなからあんたなんかを主人と思った事は無かったからね」
 男の心中を見透かしたように、くすりと優美な笑みを浮かべると、残酷なまでに冷たい視線で、男を射抜く。そのあまりの迫力に、男は少なからずたじろぎを見せた。深夜の神秘的な月明かりの下で、彼の銀髪は薄いブルーに輝いて見える。その姿は、ぞっとするほどに美しく、そして――酷く禍々しい。
 「ひ、卑怯者!」
 「その台詞、あんたにだけは言われたくないね」
 直後、月明かりの中で空気がきらめいた。
 その後に肉が切り裂かれる鈍い音が響き、男の断末魔の呻きが続く。
 「あ、がっ――」
 恨めしそうな瞳で男はクリウスを睨みつけたが、それも長くは続かない。やがて白目をむくと、冷たい石床の上に倒れ、絶命した。どす黒い血だまりが、男の周囲に見る間に広がっていく。月明かりの下でそれは、禍々しく醜悪な輝きを放っていた。
 「最後まで、醜く逝くがいい」
 既に事切れた男の亡骸を見下しながら、クリウスは冷たく笑う。さらり、と彼の髪が銀の軌跡を作った。






 始めに目に映ったのは、木造の素朴な天井だった。
 瞳を開いてからしばらくぼんやりしていた視界も、時間と共に徐々に鮮明さを取り戻していく。どれくらい時間が経ったのだろうか。ようやく周囲の状況を確認する余裕が出てくると、シズクは視線を泳がせてみた。さ迷う視線の先に映ったのは、質素な木造りの部屋と、自分のかたわらで座る――
 「アリス……」
 「あ、起きた?」
 アリスの凛とした瞳と目があう。この時にはシズクの意識は、大分元の感覚を取り戻していた。そして、ようやく自分が今ベッドの上に寝かされている事に気がつく。そう言えば、今自分が着ている衣服は寝巻きだし、束ねた髪も今は下ろされ、胸まで届くような状態だった。アリスが世話してくれたのだろうか。
 まだ完全には言う事を聞いてくれない体で、シズクはのろのろと起き上がると、周囲を見渡してみる。
 ここは一体何処だろう? 視界に飛び込んでくるのは、木で出来た暖かい印象の、小さな小部屋だった。ベッドが一つに、テーブルと椅子が一式。その椅子に今、アリスが腰掛けているという格好だ。
 「……大丈夫そうね。あれから三日も眠っていたのよ?」
 「三日!?」
 「お医者さんによると、単なる疲労だって。疲れていたのね」
 読みかけの本を閉じながら優しく言うアリスの言葉に、シズクは度肝を抜かれた。
 三日とは……。さすがにそれは、尋常じゃない。疲労だとしても、ここまでの疲労なんて……。
 と、そこまで考えて、はたと気付く。そういえば自分は、エレンダルの城に行って、魔物達と戦っていたのではなかったのか、と。
 戦いの中、自分がいつ意識を失ったのかすら覚えていない。あの魔物達は、一体どうなったのだろうか。エレンダルとクリウスの事も気になる。でも、それよりも――

 「……リースは?」

 震える声で、しかしはっきりと。シズクはアリスに問いかけた。
 そうだった。
 彼は、リースは一体どうなったのだろうか。それが一番、今のシズクにとって気がかりな事だった。
 彼は確か、シズクをかばって、左肩に重傷を負ったのではなかっただろうか。怖いくらいに赤い色をした血が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。とどまることを知らずに溢れ出る鮮血は、彼の衣服をみるみる赤く染め上げていった。思い出しただけで、不安と恐怖で全身が冷たくなる。
 「リースはどうなったの!?」
 もういちど、アリスに問う。一瞬、とても嫌な事を想像してしまった。最悪の結果。……まさか――
 「あぁ。リース? あいつなら――」

 「お。やっとお目覚めか?」

 シズク達の斜め側。正確には、部屋の入り口付近から声は聞こえた。
 低くも高くも無く、男性としては標準的な音質。だが、シズクにとって耳になじみのある声だ。
 え。と思わずシズクは漏らしてしまった。一瞬、本当に心臓が止まるかと思った。かと思うと、次の瞬間には壊れそうなくらいの速度で鼓動を打ち始める。
 条件反射で声の方を振り向くと、そこには金髪の少年の姿があった。
 「リース!」
 部屋の扉の前に立つのは、まぎれもなくリースその人だった。彼は、腕を組んだまま、飄々とした様子でこちらを見ている。あの時見たような苦痛の色は、今はもうその表情の中には見られない。あんなに青白かった顔が嘘のようだ。
 「いやぁ。良かった良かった」
 リースの方に視線が釘付けになっていたシズクは、次にかかった声で、やっと彼の隣に立つセイラの存在に気が付いた。そののんびりした口調を聞いて、シズクは少しだけ落ち着きを取り戻す事が出来る。セイラの相変わらずのニコニコスマイル。時として腹の立つ要因となるこの笑顔も、今は安定剤の役割を果たしてくれていた。エレンダルの城で見た、あの厳格な彼の姿は、本気で夢だったのかもしれない。
 「お前、寝すぎ!」
 セイラが後ろ手に部屋の扉を閉めると、男二人はシズク達がいるベッドの方へと歩み寄ってくる。場は、実に和やかな雰囲気につつまれ始めた。とてもあんな戦闘の後だとは思えない。リースの突っ込む声と、アリスがくすくす笑う声が混じる。
 しかしただ一人、シズクだけが置いてけぼりをくらったような心境だった。唯一彼女だけが、今のこの状況を全く飲み込めていない。それに、目の前に立つリースの様子に激しい違和感を感じていた。
 「リース……」
 寝すぎ! っと突っ込みを飛ばして以降、シズクの方を指しているリースの左手を視界に入れつつ、シズクは言う。
 「腕は、大丈夫なの?」
 傍目に見たところ、彼の左肩には特にこれといった外傷は認められない。衣服で隠れてしまっているので傷自体が見えないというのが正解だったが、腕の細さから見て、包帯を巻いている様子も無い。あれだけの出血を抑えるためには、相当な包帯やガーゼが必要とされるだろうに。目の前の彼は、まるで何とも無かったかの様に、ぴんぴんしているではないか。信じられなかった。
 「へ? 腕?」
 しかし、シズクの心配はよそに、当のリースはというと、彼女の顔を不思議そうに見つめながらきょとんとしている。呆けているといったほうがより正確だろうか。
 「ほら、左腕の……」
 ぎこちなく、シズクは今彼女自身に向けられているリースの左手を指差した。指先まで血が滴っていたはずの左手は、今は綺麗そのものだ。
 「あぁ、あれか……って」
 そこでリースは言葉を一旦切ると、シズクに向けていた左手の指を突き出して、シズクの額を小突いてくる。力は大して入っていないだろうが、一瞬妙な衝撃が額から伝わって怯んでしまう。
 「んな事よりてめーの心配してろっての! 一体いくら迷惑かけたと思ってるんだよ」
 言って彼は、半眼で睨みつけてくる。シズクに心底呆れ返っているという感じだ。
 確かにリースに迷惑はたくさんかけてしまったと思う。肩の負傷だって、シズクをかばってくれた結果、負ったものであるし。ここまで運ばれる間の記憶が無いという事は、戦いの最中で気を失ってしまったのだろう。情けない話だ。自分の未熟さを、改めて認識する。
 「やけにでかい魔法を使ったと思ったら、急にぶっ倒れるし。その魔法のせいで城は崩れるし! まったく――」
 だが、こちらとしても言いたい事はあるのだ。
 「だ、だって! 血出てたじゃない! たくさん!」
 大声でリースの言葉を遮ると、思わずリースを睨みつけてしまった。シズクにリースを睨みつける権利などないだろう。だが、ちょっと今は必死だったのだ。
 「あんな出血で、平気な訳ないじゃない!」
 「…………」
 それだけ怒鳴り散らすと、今度は真剣な目でリースを見た。視界の隅で、驚いているアリスと苦笑いのセイラの姿を捉えたが、とりあえず今は気にしない事にする。
 そう。かなりの出血だった。あんな血の量、今までの人生でシズクが見た全ての出血量を足したって、半分にも届きはしないだろう。……それだけ自分は、今まで平和な環境に居たという事か。
 さすがのリースもシズクの剣幕にあてられて、あっけにとられていたが、やがて合点がいったようだ。あーそう言うことね。と小さく呟くと……なんと、更に呆れ顔になったではないか! な、なぜ!
 「シズク……」
 ため息を一つ。そして、

 「お前、この四人の仲間の中に、呪術師が二人もいるって事、忘れてねーか?」

 と、心底呆れた様子で一言。一瞬意味が分からなかったが、少し考えただけですぐに思い当たる。
 「――――っ」
 そして直後、シズクの思考は一気に停止した。
 (わ、忘れてた……)
 すっかり失念していた。呪術師は、傷や病を治療する、『奇跡の術』を使用できたのだ。
 攻撃役も回復役も共に担える呪術師は、貴重な存在として冒険者ギルドでは重宝されるときく。そんな呪術師が、自分達の場合仲間内に二人もいるのだ。しかもそのうちの一人は、呪術師としてこの世で最も上位の称号を持つ水神の神子である。神子でも癒せない傷なんて存在しない。あるとすれば、それはすなわち『死』のみだろう。
 エレンダルの城で、シズクは一度アリスに治療してもらったではないか。それなのにどうしてこんな基本的な事を忘れてしまっていたのだろうか。抜けているとしか言いようが無い。
 「あの後すぐに術をかけてもらって全快!」
 そう言って、リースはため息をつき、大げさに肩をすくめてみせる。
 「まぁ……あと少し術をかけるのが遅かったら、危なかったんですけどねぇ」
 はははと苦笑い交じりに、セイラがフォローを入れた。
 セイラの術でも危なかったという事は、相当深い傷だったのだろう。それを一瞬で全快させてしまうという事は、さすが水神の神子といったところか。
 リースは依然として呆れた顔で、忘れるなよ。とか文句を並べ立てていたが、
 「でもまぁ、良かった」
 ふぅっと大きく息を吐くと、シズクは体中の力が抜けていくのを感じた。安心したのだ。
 「死んじゃったらどうしようって、心配で心配で……」
 「…………」
 自分をかばったせいで、人が死んでしまうなんて事があったら、本当にたまらない。今はリースの嫌味を気にする気持ちより、安心の方が大きいのだ。
 対するリースは、シズクの反応が意外だったのだろう。間抜けに口を開けっぱなしにすると、文句を言うのも忘れて、黙り込んでしまった。
 「――ところで」
 リースが黙り込んだタイミングを見計らって、シズクが再び口を開く。目の前の三人を一瞥すると、

 「やけにでかい魔法って何のこと? わたし、そんなの使ったっけ?」

 けろりと言った。
 「…………」
 直後、シズク以外の全員が硬直する事になる。



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