追憶の救世主

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第7章 「月夜の来訪者」

2.

 音も無く、扉は開かれた。

 部屋に唯一の窓からは、今宵の細い月の、優しい銀の光が差し伸べられている。木張りの床になめらかな光の筋が伸び、それ以外に部屋に明かりは無い。先ほどまで灯っていただろうランプは、今は消されてしまっているのだ。
 静かな夜だ。
 その静かな夜の、しかも部屋の主が寝静まった後に、部屋を来訪する者が居た。
 いや、来訪というにはかなり無茶な時間帯だ。正確に言うと、これは『夜襲』だろうか。
 だが、敵に襲撃をかけるような激しさは、彼の物腰の中には無かった。
 彼は漆黒の外套を纏い、すっぽりと夜の闇に溶け込んでいるかに見える。気配を殺す方法を熟知しており、しかも音も無く床を移動する事が出来るのだ。その存在に気付ける者などよほどの熟練者で無い限り、居ないだろう。
 静かな空間で唯一、彼の存在の証となるのは、彼の銀色の髪だけであった。月の光を集めて織り上げたような、繊細な輝きを放つ銀髪。歩を進める度に揺れる髪が、月の光を受けて弱々しくきらめいた。
 銀色は神秘の色にして魔力の色。そして

 ――魔族(シェルザード)の色でもある。

 ゆっくりと、彼は歩を進めた。目的のものは、今やすぐ目の前にある。
 彼の前には、月の光の下で、自身も神々しい光を放つ『杖』があった。

 ――五百年前、ある魔法使いが所持していたとされる、最強の『杖』が存在していた。
 魔法使いは『杖』の力で世界を混乱に追い込み、そこから数々の戦いが生まれた。
 戦いの末に、その『杖』は、巨人族の王子らの手によって五つに分かたれたのだという。そうして魔法使いの力は大きくそがれた訳だ。
 その後の五つの杖の行方はほとんど分かっていないが、そのうちの一つの在処だけは確かである。
 『杖』を五つに分けた張本人である巨人族の王子によって、一度は巨人族の元に置かれていたのだが、魔法の知識に乏しい彼らでは、それは持て余された。そして人間との友好関係を築く折に、その杖を持つのに最もふさわしいとされる者――水神の神殿の神子に、贈られたのだ。
 それこそが、水神の神子が持つ伝説の杖。そう、偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)。
 それが今、彼の目の前にある。

 「…………」

 目標がすぐ届く距離になっても、彼は落ち着きを失わなかった。こういう場合、興奮で否が応でも焦ってしまうのだが、それが失敗の元になるのである。
 彼は静かに大きく息を吸い込むと、音も無くそれを吐いた。澄んだ空気から己の任務の重さをかみ締める。失敗は、出来る限り避けるべきだ。
 もう一度大きく息を吸い込むと、彼は伝説の杖に手を伸ばした。
 その時だ。

 「動くな」

 ちゃきん。と、硬質な音が響き、直後には彼の背後に人の姿があった。






 「動くな」
 剣を構えて前方に立つ人物を凝視しながら、リースは心のどこかであぁやはりか。と思った。
 来るかもしれない、と予感はしたのだ。それが今夜になるとは、さすがに思わなかったが。いつかは襲撃をかけてくるだろうと思っていた。セイラの杖を奪いに。
 「やはりあなたですか」
 リースの前方で、侵入者を挟むような形でセイラが現れた。一見すると、闇から突然現れたようにも見えるが、何のことはない。今まで寝ていたベッドから身を起こしただけだ。その証拠に、彼はゆったりとした寝巻きを纏っている。
 薄暗い室内で、セイラの闇色の瞳は驚くほど澄んで見えた。窓から注ぐ月光がそう見せているのだろうか。
 セイラは前方にいる侵入者を静かに見据えると、
 「クリウス」
 端的に、それだけ言った。
 『クリウス』。それこそが、今彼の前に居る侵入者の名だ。
 「……やっぱり、気付かれちゃったか」
 しばらくの間沈黙を守っていたクリウスだったが、やがて観念したのか、小さく肩をすくめると、おどけたようにそう言った。
 「気配を殺す戦法も、水神の神子一行には歯が立たない、か」
 「何しに来たんだ……と言ってもまぁ、言うまでもないな」
 尚もおどけた様子の魔族(シェルザード)の少年を睨みつつ、リースが声を発した。幾分語気が荒い。
 敵である事もそうなのだが、リースとしてはそれ以外の部分でもクリウスの事が気に入らなかった。優雅に余裕をうかがわせるあの笑顔が、なんとも役者然としていて腹が立つのだ。
 「エレンダルのためと言っていましたが、やっぱりあなたの狙いはこの杖だったんですね」
 言ってセイラは、伝説の杖を手に取る。月光の下で、今宵の杖が放つ色は暗い蒼だった。
 クリウスはそれを、狡猾な獣のような目つきで見つめると、口の端を吊り上げて笑う。今までの役者然とした笑顔とは大きく異なる。ぞっとするほど美しく、冷たい笑顔。
 「この杖を狙う理由は?」
 ぴりぴりとした空気の中、セイラがクリウスに向けて問いかけた。
 「……それを、僕が正直に答えると思うの?」
 「思いませんけどね。しかし、聞く権利はあるはずですよ」
 挑発的なクリウスの言葉に対し、静かにセイラが言った。その瞳には、今や有無を言わせぬ圧力がある。おそらく普通の者なら、見つめられただけで彼には逆らえないだろう。残念ながら、クリウスにはさっぱり効いていないらしいが。
 しばらく両者は口を閉ざし、重い沈黙が部屋の中に下りた。誰一人、身動きしない。仮にもし誰か一人でも動こうものなら、それがきっかけで戦闘が始まりかねない。そんな状況だった。

 「……ふ」
 数刻の後、真っ先に沈黙を破ったのはクリウスだった。彼はその双眸を薄めて、残酷な笑みを浮かべると、
 「本来その杖は、我々の物だったんだよ」
 楽しそうに、言った。
 「え?」
 クリウスの言葉を聞いて、リースは思わず声を漏らしてしまう。

 (我々の物だった? 偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)が?)

 我々というのはもちろん、魔族(シェルザード)の事なのだろう。だが、リースはどうにも腑に落ちなかった。過去にこの伝説の杖を所持していた事があるのは、歴代の水神の神子と巨人族の王家の者、それと――
 「こんな話を、知っているかな?」
 リースの思考を遮って、クリウスの言葉が部屋の空気に舞い込んだ。真剣とは程遠い、まるでいたずらを楽しむ子供のような口調だ。
 「今から五百年もの昔、最強の杖を持つ一人の魔法使いが居たんだ。その者の魔力は地を轟かせ、天を突いたと言われる。……魔法使いが持っていた最強の杖のうちの一つが、その杖だよ」
 言って、クリウスは、セイラの持つ蒼い杖を指で指した。

 確かにそれは有名な伝説だ。
 勇者シーナ。俗に言う金の救世主(メシア)による、世界救済の伝説。そのくだりに、シーナの仲間であった、巨人族の王子とミール族の王子が、魔法使いの最強の杖を五つに折ったとある。そのうちの一つが偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)だったのも確かだ。だが、
 「それが一体何の――」
 「その魔法使いというのが、魔族(シェルザード)の者だったと言うと、あなた達は信じるかな?」
 「なっ――!」
 クリウスの言葉に、リースは声を上げた。大きく見開いた瞳で目の前の彼を見るが、嘘を言っているにしては彼の様子には余裕がありすぎる。いやしかし、そんな事は……
 「有り得ないな。証拠が無い」
 あくまでも落ち着いて、リースが発言する。目の前の銀髪少年を視界に入れたまま。
 「…………」
 そう、有り得ない話なのだ。
 例の魔法使いに関する記録は、その一切が残されていない。唯一後世に伝えられたのは、彼(彼女)が魔法使いであり、最強の杖を持ち、そして、一つの偉大な魔法を追い求めた事。それだけだ。その記述の中に、魔法使いが魔族(シェルザード)であるというくだりなど、有りはしないのだ。
 「しかし……」
 リースの言葉にも、クリウスは全く怯む事がない。むしろ、彼の存在は闇の中でますます強く輝くようだった。
 彼はつと唇の端を吊り上げると、優雅な笑みを浮かべる。
 「水神の神子殿は、この話を信じるようだね。……もっとも、最初から知っていたのかな」
 ふふっと。整った唇から、楽しそうな笑いが零れ落ちた。
 「え?」
 言われてリースは、視線を目の前のクリウスから、その後方にいるセイラへと向けた。
 視線の先のセイラの表情は、まったくの無表情である。普段常に笑顔を振りまいている彼が、その表情を失わせる事など、滅多に無い。リースは心のどこかに、黒い不安を感じ取ってしまった。
 「セイラ?」
 視線の先で、当のセイラは、静かにクリウスを見据えている。だがやがて、その黒瞳はリースの方を向いた。

 「リース。今すぐこの部屋を出て、アリスを起こしなさい。そして――シズクさんの元へ急ぐのです。彼女が危ない」

 「……は?」
 突拍子も無いセイラの言葉を、リースは一瞬理解できなかった。
 (シズクが、危険?)
 むしろ今危険なのは、クリウスに襲撃をかけられている自分達の方ではないのだろうか。
 怪訝な顔で、水神の神子の顔を見つめてみるが、月明かりの下、セイラの瞳は怖いくらいに真剣なものだった。にへらっとしたあのスマイルが無い。嘘をついている訳ではあるまい。
 訳が分からなかったが、とりあえずセイラの指示に従ったほうが良さそうだ。そう判断し、リースは扉の方へ走り出した。が、

 ――ギィンッ!

 甲高い悲鳴のような音が、静寂で支配されていた空間に響き渡る。
 「それはちょっと、行かせられないな」
 構えられたリースの剣の向こう側に、銀髪の美貌の少年の顔があった。先ほどまでの笑顔は一体どこにいったのだろうか。今の彼には、幾分焦りが見られる。
 走り出したリースに向けて、クリウスが即効で攻撃を仕掛けてきたのだ。リースはそれを、すんでの所で剣でもって受け止めた。
 クリウスの手のひらに集積された銀色の光が、剣と当たって火花を散らす。魔法だろうか。
 「君達は僕とここで、戦ってもらわないと」
 「――っ!」
 ばちばちと、先ほどよりも激しく火花が散った。急にクリウスが光の力を強めたのだ。剣士であるリースですら、微妙に押し負けている。魔族(シェルザード)の魔法の力とは、これほどのものなのか。
 (――くっ……)
 さすがにヤバイな。と思い始めた時だ、リースとクリウスの間に入る何かがあった。
 どんっという鈍い音がすると、リースはやや乱暴に後方へ突き飛ばされた。目の前の景色が突然動いた事に一瞬大きく動揺したが、瞬時に体勢を整える。そして、
 「……セイラ?」
 驚愕の表情で、リースは目の前の光景を見ていた。
 「やはりあなた方の狙いは、シズクさんですか?」
 ぎりぎりと火花が激しく散る。一方はクリウスの手に抱かれた光から。そして一方は――セイラの杖、偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)から。
 「な……!」
 クリウスが驚愕の声を上げるのが聞こえた。
 リースとクリウスの間に割って入ったのは、ほかでもないセイラその人だった。彼は自身の杖をクリウスの光に押し当てると、リースを後ろへ突き飛ばしたのだ。よく見ると、彼の杖からも淡い蒼い光が放たれている。
 信じられなかった。
 一瞬にして、彼は二人の間合いに入ってしまったのだ。あの、いかにもドン臭そうなセイラが、だ。そして、それだけではなかった。
 セイラはぐっと杖を前方に押し出して、クリウスを押し負かす。そして更に、隙を突いて、クリウスの腹に蹴りを叩き込んだのだ。蹴りをくらったクリウスは、苦悶の表情を浮かべながら後方へ飛ばされた。
 「…………」
 この様子にリースは、驚愕どころか放心してしまう。笑うような場面ではないのだが、肉弾戦で相手を打ち負かすセイラなんて、かなり可笑しな状況である。そもそも彼が呪術を使っている場面ですら、リースはこの目で拝んだ事が無い。それが一体、なんで、どうして、肉弾戦?
 ぽかんと間抜けな表情を浮かべつつ、リースはその場に立ち尽くしていた。
 「何をやっているんですか! 早く行きなさい!」
 そんなリースを、セイラは怒鳴る事で叱咤する。異様に鋭い彼の声で、リースはやっと我に返った。
 そうだった。セイラに言われた事をしなければ。
 「……分かった」
 そう一言言い残すと、直後には、リースは部屋の扉を開けて、走り出していた。



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