追憶の救世主
第4章 「乙女の消える町」
6.
からり。と、涼しい音を立てて扉は開かれた。
音の発生源を探ってシズクは上を見上げたが、なんのことはない。扉の上部に取り付けられた鐘がそうだった。客が来たときに、店員がすぐに分かるようにするためのものだろう。そういえば、ここに来たときにも聞こえた気がする。
ありがとう。と店の主人が笑顔で言葉をかけてきた。それに笑顔で軽く会釈して答えてから、二人は店を後にする。
店の中の優しい雰囲気は、扉をくぐった瞬間に消えてしまい、代わりにやってきたのは雨の日独特の湿り気だった。顔全体に、まるで霧吹きで水でも吹きかけられたような気分だ。
扉から手を離すと、扉はまた涼しい音を立てながら、今度は自然に閉まって行く。明るい鐘の音とは裏腹に、外は相変わらずの雨。真っ昼間だというのに、あたりは日没の頃のように薄暗かった。
「やまないね」
さすがにうんざりするのだろう。傘を開きながら鉛色の空を見上げ、重い口調でアリスが言った。溜め息と視線でそれに同意を示してから、シズクも傘を開く。ぱらぱらと、雨粒が楽しそうに傘の上を舞った。
「……ねぇ」
しばらく歩いた後で、唐突に口を開いたのはアリスだった。小声で、少し遠慮がちな声。雨の音に混じって少し聞き取りにくかったが、なんだか様子が違うな、というのは分かった。
「へ?」
規則的に雨粒が跳ねる音だけが耳を支配していたところに、突然生身の人の声が割って入ったのだ。一瞬、脳が着いていけていない。まるで夢を見ているところで、急に起こされた時のような気分だった。少し頭がふわふわする。考え事をしていたのが悪かったのかも知れない。
シズクはゆっくり振り返ると、ぼんやりとアリスの方を見る。
「何? アリ――」
「ごめんね」
凛とした声が響いた。雨の音にも負けず良く響くその声に、貫かれたかのようにシズクの胸はどきりと波打つ。思っても見ない言葉だった。
「……え?」
「こんな事に無理やり巻き込んじゃって」
アリスは伏目がちになると、そう零した。そうしていると、長いまつ毛が余計に引き立つ。雨で湿った黒髪が憂いを生んで、まるでアリスを優しく抱きこむように彼女の周囲に漂っていた。
「うちの馬鹿師匠がシズクをこんな事に巻き込んじゃったのに、あの人はいつもほけほけしてるし。リースは口悪いし。いつもあいつ、シズクに絡んでくるでしょ? シズク、きっと嫌がってるだろうなって思ってたの。だから……ごめんなさい」
一気にそれだけ言い切ると、祈るような表情で頭を下げる。そんなアリスの様子を、シズクは呆然と眺めていた。傘に雨粒があたってぱらぱらと音を立てる。その音の他には何も聞こえない。静かだった。
――アリスが自分に頭を下げている?
その行動の意味と理由を理解するのに、しばらくの時間がかかった。しかし、やがてはっとする。彼女は、今日の自分の行動を受けて、謝っているのだと。
昼間のリースとのやりとりを思い出して、シズクの気持ちは幾分重くなった。急に大きな声を出したかと思うと、走りだして部屋を飛び出した、あの行動。悪い事をしてしまったと思う。何故あんな事をしたのか……
でも、これだけは言える。あれは、アリスが悪いんじゃない。それだけは断じて違う。あれは私が――
「違うよ」
思わず声が出た。
「え?」
それまでずっと頭を下げたままだったアリスは、そこでやっと顔を上げる。彼女の漆黒の瞳を、シズクは苦笑い混じりに、控えめに見つめていた。
「セイラさんにもリースにも、腹なんて立てた事ないよ。そりゃぁ、リースの一言一言にはムッてくることもあるけどね」
そうして今度は苦笑いを顔全面に押し出すと、ぽつりぽつりと台詞を零していく。ぎこちない言い方だったが、それは間違いなくシズクの本音だった。
今回のエレンダルの一件を持ち出してきたのはセイラだった。それに、シズクが無理やり巻き込まれたとは思わない。そりゃぁ確かに進んで付いてきた訳ではないけれど。そう思ってはいけない気がした。最終的に、セイラさんと一緒に行くと言ったのは、まぎれもない自分なのだから。
「本当に?」
不安そうなアリスの問いに、シズクはゆっくり頷いく事で答えた。それを見つめるアリスの瞳には、まだ不安の色が残る。だが、彼女にはなんの非も無いのだ。
「わたしが嫌なのは……」
「え?」
――そう、わたしが嫌なのは唯一つ。
「自分……かな」
自嘲的に笑ってから、シズクは言った。我ながら、こういう表情は自分には似合わないと思う。それを取り繕うように、今度はあははとから笑いしてから、シズクは更に続けた。
「わたし、セイラさんからの依頼を受けた時、付いて行くからには役に立たなきゃって思ったのよ。見習いだけど、何かできる事があればって……それなのにね……」
そこで声は途切れた。気持ちが一気にしぼんでいくのがシズクには感じられた。
――役に立ちたいと思った。
――それなのに、何にも役に立てていない自分がいたのだ。
実力の差から言って当たり前の話だけれど、やはりシズクにとっては気が重い事だった。名目上雇われた身の魔道士が、依頼人を守るどころか依頼人に守られている。今のシズクは、酷く宙ぶらりんな立場だ。小さく歯噛みすると、シズクはため息をついて俯いてしまう。足元では、雨が滝のように流れ続けていた。止まらない涙のように。
「……シズク。リースを嫌いにならないでね」
そんなシズクをしばらく見つめていたアリスだったが、言われた方のシズクは、彼女の言葉の突拍子の無さに、思わず顔を上げた。アリスの方はというと、シズクと目が合うと、不安そうに瞳を伏せてしまう。
シズクは空色の瞳を開けられるだけ開けて、目の前の黒髪少女を凝視していた。彼女の今の台詞は、それこそ予想だにしないものだった。驚きを通り越して呆けてしまう程に。
「リースを? なんでまた」
思わずそう言ってしまう。
リースを嫌いになる、なんて……そりゃぁムカつくけれど、さすがに嫌いには――
「シズクが自信を無くしてしまう原因は、多分リースよ。あいつ、ズバズバ言うところがあるもの。シズクに対しても結構言ってたじゃない?」
俯いたままでアリスは言葉を続ける。言葉には、少しだけ怒りが含まれていた。
シズクは、それを聞いてさっきのリースとのやりとりを再び思い出してしまい、胸が少しだけ痛んだ。
「でもあいつ、口は悪いけど根は悪い人じゃないの! これから仲間としてやって行きたいから、だからシズクがあいつの事を嫌いになってしまったら悲しいなぁって思って」
「――仲間?」
言いたくてもなかなか言えなかった事なのだろう。アリスの紡ぐ言葉は、その一つ一つに決意の様なものが込められていて、緊張した様子だった。頬が少し赤くなっている事からもそれが分かる。最後の審判を待っている被告人のような表情だ。
「アリスは……」
ハッとしたようにアリスが顔を上げた。しばらく黙り込んでいたシズクが小さく呟いたのだ。雨の音にかき消されそうなくらいの小声だったが、彼女の声はよく通る。小声でも、雨をあっさりすり抜けてアリスの元へしっかりと届いていた。
「アリスは、私の事を仲間って思ってくれるの?」
こんな自分は、仲間と言ってもらって良いのだろうか。何の役にも立てていないのに。ただ付いて来ているだけの存在なのに。
普段は真夏の晴れ渡った空の色をしたシズクの瞳は、今は今日の雨空の様にくすんでしまっている。その時その時で輝きが変わる瞳。まるで、あの偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)の様に。
「あったり前じゃない! 一緒に旅をしてるんだもの」
深刻そうなシズクの思いに反して、聞こえてくるアリスの声は明るかった。なんの迷いもなく、彼女はそう言ったのだ。うつむき加減だったシズクはあわてて顔を上げる。シズクの視線を確認してから、アリスはふうっと息を吐いた。そうして呼吸を整えてから、更に続ける。
「私ね! シズクが一緒に来るって言ってくれた時、無粋だけど正直なところ嬉しかったのよ? 今まで同年代の女の子と旅なんてした事がなかったから」
そう言って、アリスは照れたようにはにかんだ。
特殊な身の上のため、アリスは同年代の女の子とあまり話をしたことが無いのだそうだ。その事は、シズクも以前に彼女自身から聞いていた。特殊な身の上というのはおそらく、水神の神子の弟子というのをさすのだろうと思う。シズクはよく知らないが、水神の神子の弟子という立場にもいろいろ難しいところがあるのだろう。セイラ自身を見ていると、そんな物は無いように見えるけれど。
シズクは、アリスの顔を放心したように眺めていた。雨降る中、彼女は静かに微笑んで立っている。その姿はどこか神々しくてドキドキした。
――自分を仲間だと認めてくれている。
彼女がそう思ってくれている事が正直に嬉しい。口が今にもほころびそうなところまで気持ちが高揚しているのが分かった。
ただ……
「同じように、リースとセイラさんも思ってくれてるかな」
ぽつりと零す。
その自信は、はっきり言って無かった。思った事を口にした瞬間、シズクの胸はまた締め付けられる。それまで心の中にあった嬉しいという気持ちは、声と共に流れ出してしまったようだ。自分自身の体がしぼんでいくような錯覚に襲われる。弱気な自分をいっそのこと呪いたかった。
自分は彼らにとっては、単なる同行人なんだろうか。もちろんそれが本来の姿なんだろう。高望みしても叶うかどうかも分からない。何にも役に立てていないのに。
「ねぇアリス」
不安な気持ちを込めた視線をアリスの方へ一気にぶつける。シズクの目線の先で、アリスは少し驚いた表情を浮かべていた。
明確な回答を貰えなかったとしても、何らかの意見を彼女から聞きたかった。たとえそれが……シズクが期待するような内容では無いとしても。
少し、雨脚が強くなったようだった。
「それは――」
アリスが何事かを口に出そうとした瞬間だった。
ほんの一瞬。本当に一瞬の間だけ、ふっと嫌な感覚がシズクの中に流れ込んできた。
「え――」
そして次の瞬間には、目の前の光景にシズクは思わず声を漏らしていた。愕然とした表情のまま、前方を凝視する。視線の先には、先ほどと変わらぬアリスの姿。それなのに……
アリスの言葉が全く聞こえて来ないのだ。
「アリス?」
決してアリスが言葉を発する事をやめたからではない。言っているのに――口は動いているのに、声が届かないのだ。
(まさか……)
嫌な予感がした。
アリスとの間に見えない壁を作られたみたいな妙な距離感がある。そしてあの嫌な感覚。それは、魔法学校に居る時にシズク自身、何度か感じた事があるものだった。
アンナが得意だったのだ、この手の魔法が。それに何度か引っ掛けられて、その度に痛い目にあった。そう、彼女が得意としていた魔法。
――結界魔法。
「アリスッ!」
アリスの姿が少しずつ薄れ出した瞬間、シズクはアリスの方に向かって迷わず飛び込んでいた。
宙に体が浮いているような不思議な感覚が一瞬。しかし次の瞬間には、視界が揺らついたかと思うと、シズクは一気に重力が支配する世界に放り出された。
「わっ!」
勢い良く飛び込みを決めたせいもあって、激しく地面に打ち付けられる。雨で地面のタイルはすっかり湿っていた。独特の匂いが鼻に届く。身体をかばった右腕の衣服に水が染み込んでくるのが分かった。
右手だけで済んだら良かったのだが、傘を放り出してきてしまったのでシズクは雨ざらし状態だった。さっそく、束ねた髪から滴がぽたぽた垂れ始めている。それが首筋を伝って、背中に入り込んできた。
シズクは周りを見回してみた。
周囲は少し細いただの街路だ。一見した限りでは、何の違和感も覚えない。しかし、シズクの心は気分が悪いくらいの違和感で占められていた。原因は分かっている。
人が――街路に人が、全く居ないのだ。
いや、生き物の気配が感じられないといった方が正解だろうか。確かに雨のせいで人通りは少なくなるだろうが、全くない訳ない。実際、先ほどまで居た通りにもまばらだったが確かに通行人は居たのだ。
呼吸を整えて立ち上がると、シズクは前方の光景を静かに見つめた。
少し離れたところに倒れているアリスの姿を。
「…………」
アリスもまた、シズクと同じく雨ざらしの状態で倒れていた。普段は明るく輝く漆黒の瞳は、今は堅く閉じられており、ぴくりとも動かない。整った容姿も手伝って、まるでアリスそっくりの操り人形が、紐を失って道に打ち捨てられているかのようだった。
「アリス!」
シズクは叫ぶと彼女の方へ駆け寄ろうとした。
「……へぇ、この子アリスって言うんだ。可愛い名前だね」
「!」
しかし、声がその足を止めさせた。
シズクの背後からかかったのは、幼年が未だ抜け切らない美しいテノール。だがその声を聞いて、シズクは背中がぞくりと嫌な音を立てるのが分かった。
一瞬ためらったが、意を決して後ろを降り返る。瞬間、視界に銀が踊った。
眩しい。
視界に飛び込んできた突然の光に、シズクは思わず目をしかめたしまう。だがやがて、銀色の正体が明らかになってくる。
「――――っ」
目の前に立っていたのは少年だった。
吸い込まれそうな銀髪と深い青の瞳。そして、それに合わせたかのような陶器色の肌を持つ少年。年齢はシズクとそんなに変わらないと思う。
「君、水神の神子に同行している魔道士だね。結界に気付いて飛び込んでくるなんて、結構やるね」
形の良い口をつり上げて笑う。綺麗な笑顔だったがどこか不気味だった。
一方のシズクは、その場で石になったみたいに動けなかった。
銀の髪、誰も居ない通り――そして、雨。
それは、記憶の光景とあまりに似通っていたから。
「驚いているの? 僕が簡単に君の前に姿を現したから?」
それにもシズクは答えない。いや、答えられなかった。心臓の鼓動が一気に加速を始める。記憶と現実の区別をつけるのに、しばらくはかかった。
そんなシズクなどは意に介さぬ様子で、少年は更に続ける。
「それとも僕が――」
口をつり上げたまま、今度は瞳を薄めてこう言った。
「魔族(シェルザード)だから?」
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