新月の夜の夢

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第5話


 そんなもりもっちの一言がきっかけで、この曲の練習が始まったのだった。

 それまで胡散臭そうな顔をしていたゆっきんだったが、もりもっちのこの提案には妙に乗り気だった。おもしろそう! と形の良い手を打つと、まるでおもちゃ売り場ではしゃぐ子供みたいに目をぱっと輝かせたのだから。
 ゆっきんを落としたもりもっちは、嬉しそうな表情で私のほうを振り向いた。そして今度は私に確認をとる……かと思いきや。
 「千音ボーはもちろん賛成だろ?」
 と、私の意見すら聞かずに私の参加を決めてしまったのだ。まぁ、面白そうなので参加するつもりだったのだけれど。一言くらい何か言わしてくれてもいいじゃないか。と思う。

 練習するといっても、楽譜自体がかなり老朽化しており、棚板に挟まってぐちゃぐちゃになっていたこともあってコピーはもちろん不可能。じゃあ一体どうしたかというと、我らがパーリーゆっきんが五線譜に書き直してくれたのだ。大層手間がかかりそうな作業を、彼女はなんと一晩でやってみせた。楽譜を発見した翌日に、ひらひらと嬉しそうに譜面をひらつかせて私達に真っ先に見せに来たのだから。
 楽譜が出来上がるともう話は早かった。パート決めは、当たり前のようにコンクールと同じ組み合わせで決定。ゆっきんが1st、もりもっちが2nd、そして私が3rd、といった具合に。そうして、いよいよ練習が開始されたのだった。



 「ほい。それでは千音ボーが度派手なリードミスをした3小節前からもう一度」

 もりもっちが不適に笑ってそう言うと、ゆっきんは先ほどの私の失態を思い出したのだろう、ぷっと吹き出す。しかし、半眼で二人を睨み付けている私に気づいて、手でごめんの合図をした。それに目でいいよ、と答え、更にもりもっちにもうひと睨みお見舞いしてから、私はマウスピースを口にあてがう。先ほどまで悪戯っ子のような笑みを浮かべていたもりもっちも、その時にはもう真剣な表情に変わっていた。
 再び沈黙。メトロノームの規則正しい音が静かな教室にこだまする。マウスピースの固い感触が、暑さに負けそうな気持ちを、集中まで導いてくれる気がした。

 「5,6,7,8」

 ゆっきんの合図で、再び曲は――『新月のバラード』は、開始された。



◇◆◇



 「おぅい、お前ら。まだ残っていたのか」

 重たい音を立てて教室の後ろの扉が開くと、そこからひょっこりと顔を出す人物が居た。廊下から漏れる蛍光灯の光が逆行になって、妙なコントラストを生む。
 時間は、既に夜だった。窓の外の空は闇色のマントに身を包み、明るい下弦の月が浮かんでいる。雲ひとつ無い。明日もきっと暑くなるだろう。

 「すみません! もう終わりました」

 優等生のゆっきんが丁寧に頭を下げて、未だに首だけ出している人物に謝罪する。その後ろでもりもっちが、そんなに仰々しくしなくてもマロンだぜ? と苦笑いしていた。
 顔を出した人物の名は栗山巧(たくみ)。
 その名の示すとおり、栗みたいに横幅のある丸い顔をした40歳、妻子持ち。この学校の音楽教師であり、わが吹奏楽部の頼れる顧問その人だった。「マロン」という呼び名は生徒達の間での彼の通り名だった。ご想像の通り、栗みたいな顔と栗山という苗字から来ている。
 もりもっちに言わせると、彼はもりもっちの「男のロマンの師匠」だそうで、ロマンをもじってマロン。という意味もあるそうだ。よくもまぁそんなしょーも無い理由が考え付くなぁ、と私は思う。
 栗山先生――もとい、マロンはそこでようやく教室に足を踏み入れてくる。
 「練習熱心なのは良いけどな。あまり遅くなると家族の人が心配するからなぁ。早く帰れよ〜」
 独特ののんびりした口調で先生らしい忠告をする。しかしその表情は嬉しそうだ。彼は私達が、夜遅くまで残ってコンクールの練習に励んでいると思っているらしい。練習熱心な生徒というのは、顧問としては金賞をあげたくなるくらいに喜ばしいものなんだろう。実際のところは、私達が練習しているのはコンクールの曲ではないのだが。
 「了解了解、っと」
 軽い口調でそう言うと、もりもっちはすばやい手つきで楽譜をリュックサックにしまい、譜面台を折りたたみ始めた。私とゆっきんもそれに習う。
 部室で見つけた『新月のバラード』の事はこの三人だけの秘密だった。クラパーの後輩にすら言っていない。別に他の人にバレたって問題は無かったのだが、なんだか気分的に内緒にしておきたかったのだ。秘密というのは、不思議な魅力を持っているものだ。しかもそれが仲間だけの共有の秘密となると、胸のドキドキは何倍にもふくらむ。秘密にする事を楽しんでいるというより、秘密にしたときのこの感覚を楽しんでいる方が大きかった。だからマロンに見つからないように、私達は楽譜をそそくさとしまい込み、後片付けに入った。
 「いくら練習して上達しても、コンクール当日にぶっ倒れたら元も子もないからなぁ。体調管理はちゃんとしておくんだぞ」
 「へいへい。俺はこの通りぴんぴんしてますよ。栗山っちこそ体調壊さないでくれよ〜。指揮者が倒れちゃ演奏出来ないから」
 「先生に栗山っちはないだろう、森本」
 もりもっちの言葉に、マロンは苦笑いで注意を入れた。しかし、それ以上は何も言わず、もりもっちのため口を改めようとした様子はない。なぜかと言うと、マロンともりもっちはとても仲が良いのだ。部活の合間や授業の合間に、なにやら仲良さ気に二人が会話しているのを目撃するのは、一度や二度ではない。男のロマンの師匠云々の話は胡散臭いが、彼が何かしらマロンを崇拝しているのは確かなようだ。
 「もりもっち。片付け!」
 マロンともりもっちの会話が弾みそうになったところを、すかさずゆっきんが止めた。まだ片づけが完璧に終わっていないのだ。練習用に出した机と椅子を元の場所に戻し、メトロノームと楽器の片付けをしなければならない。おそらく部室は既に施錠されているだろうから、職員室まで行って鍵を貰ってくる仕事も残っていた。
 「おっとそうだった」
 そう言うともりもっちは、軽くマロンに挨拶すると机をガタガタと移動させ始める。マロンはというと、私達の様子をしばらく見ていたが、片付けを終えたらすぐに帰るんだぞ〜。と念を押してから、去っていった。彼も帰宅するのだろう。最後の点検に、教室を回っていたのかもしれない。
 私は片付けの手を休めて、何気なく窓の外を見た。空に浮かぶ下弦の月が、先ほどよりも輝きを増し、夜空を優しい光で照らしていた。



◇◆◇



 「ひい、ふう、みぃ……げっ! 今日も入れてあと七日じゃねーか!」

 指を一本一本折りながら7まで数えたもりもっちは、驚愕の表情を浮かべてそう叫んだ。それはまるで、部活の誰かが、高い所からクラリネットを落っことした現場を目撃でもしたような驚きぶりだ。どうでもいいが、その数え方は少し親父臭いだろうとも思う。
 「今日を入れなくてあと6日かぁ。案外短いもんだね」
 もりもっちとは対照的に、ゆっきんがのんびり呟いた。そうして空を仰ぐ。私ももりもっちも、彼女につられて同じように上空を仰いだ。下弦の月が、まるで帰り道に迷わないように、私達をやわらかい光で照らしてくれているようだ。
 そう、私達は楽器の片づけを終えて、今まさに下校の途中なのだ。学校からの帰り道はスクールゾーンになっており、舗装された綺麗な道がしばらく続く。10分くらい歩いた場所に小さな公園があって、そこで3人の帰り道は分岐する事になっていた。しかし、さすがに暗くなってからの女の子の一人歩きは危険なので、最近では回り道覚悟でこうして3人で帰る事にしているのだ。先に私ともりもっちでゆっきんを家まで送って、それからもりもっちが私を家まで送るといった形。これは、道順から最善だと割り出された順序だった。
 「新月ってどんなんなのかな。私見たことないや」
 「あほかい。新月は、見えないから新月って言うんだろ」
 私の言葉に、すかさずもりもっちの突込みが飛んだ。見ると、彼は苦笑い交じりに、呆れた表情をしている。
 確かに、新月は目に見えない。見えないものを見たことがないと言っても、それは世の中の誰もがそうだろう。考えてから、自分の言った言葉の馬鹿ばかしさに気づいて、私は少し赤面した。


 ――新月の夜に 現れる


 それは、例の『新月のバラード』の楽譜に挟まっていた詩の一部だった。
 詩を解釈していった結果、おそらくこの作者は、新月の夜にこの曲を演奏しろ。という事が言いたいのだろうという結論に達した。そこでさっそく、もりもっちがインターネットで新月の日を調べだしたのだ。幸いな事に今月の新月は、曲を練習するのに十分な余裕を持って現れる予定だった。それになんと、運命の悪戯か、その日は吹奏楽コンクールの前日の晩だったのだ。
 果たして演奏して、一体何が現れるのか。もちろん100パーセントそんな夢みたいなものを信じている訳では無かったのだが、ものは試しという言葉もある。それに、私達がこの曲自体をえらく気に入ってしまったのだ。紡ぎだされる繊細な旋律と、しっとりとした和音。それにパート同士の掛け合いが絶妙で、これがとっても素敵な曲なのだ。ピッチもハーモニーも完璧な状態でこの曲を演奏することが出来たのなら、きっとすごい満足感が得られるはず。そう思って私達は、名目上「コンクール練習の合間の肩慣らし」のこの曲を練習し続けているのだ。来週末の新月の夜に向けて。
 「なんにしても期日がせまってきたねぇ。コンクールの曲もそうだけど、頑張って仕上げないといけないね」
 ぽつりとこぼしたゆっきんの台詞を聞いて、決意とも焦りともとれる気持ちが私の中に巻き起こっていた。

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