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第1章「イリスピリア」


7.

 『まず、何から話そうかしら』

 すうっと瞳を細めて、リオは独り言のように言った。そうして遠くを見るように視線をよそに移すと、ぽつりぽつりと語り始める。
 『ティアミスト家の始まり、それはシーナの代――今からだいたい500年前まで遡るわね。彼女がイリスピリア王家に残らず、弟の王子に王位を譲った事が始まり』
 それはシズクも、ジュリアーノでリースからきいた事だった。シーナには年子の弟が居た。名前は確かパリス。剣技に長け、心優しい穏やかな人柄だったという。本来ならば世界を救った勇者であるシーナが王位を継ぐはずだった。だが、そこをシーナは何故か王位継承を辞退したのだ。更にそれだけでは終わらず、彼女は王家である立場自体を破棄してしまった。要するに、イリスピリアの名を捨てたのだ。
 『そうして王家から出たシーナは、イリスピリアの片田舎、セーレーに移り住んだ』
 「セーレー……」
 シズクは、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。ざわめきのような痛みが胸に押し寄せる。この響き、自分は覚えがある。懐かしくて切ない。
 そんなシズクを、リオは一瞬何とも言えない表情で見つめてきたが、すぐにまた目をそらす。
 『その後シーナは、名を変え自らをティアミストと名乗った。これがティアミスト家の大雑把な発祥の経緯ね』
 そこで言葉を切ると、リオは一息ついた。それまで空中にふよふよ浮いていたのだが、ゆっくりテーブルに着地するとその場にちょこんと座り込む。その様はまるで、女の子用の小さな人形がテーブルの上に置かれているようだった。お城の使用人などが見つけたら、誰かのおもちゃかと思って片付けられてしまいそうだ。
 「ねぇ。この前の晩、リオはティアミストを『偉大なる魔道士の一族』と言っていたけど、実際のところ彼らはどのような存在だったの?」
 ここにきてアリスの声が入った。テーブルに腰掛ける小さくも偉大な存在に向けて、彼女はそれまで持っていたのだろう疑問を述べる。
 確かに、とシズクも思った。ティアミストがどうのこうのと何人かの口から聞いたが、シズク自身、自分がその一族の一員という事と、彼らの祖が古の勇者、シーナだったという事くらいしか知らないのだ。ティアミストが、現代になってもイリスピリア王家と何らかの繋がりがあっただろうという事はなんとなく分かる。それも、かなり親密な関係だったのであろう事も。だが、大昔に王家を出て行った王女の末裔が、未だに王家と強いつながりを持っているのは、少し奇妙な気もする。それに、先ほどのイリスピリア王の態度が、最大の疑問として、シズクの心に引っかかっていた。

 『イリスピリア王家の影……一番簡単に言ってしまえば、そういう事になるかしらね』

 考え事をしていたシズクの耳に、酷く重く、リオの声は響いた。思考から脱却し、シズクはリオを見つめる。今度はサファイアの瞳は、まっすぐ自分のほうを向いていた。
 『ティアミストはね、世界有数の魔道士の名家。莫大な魔力と幅広い知識を備えた魔道士を多く輩出してきた一族よ。でも、そんな事は魔道士界のほとんどの者が知らない。ティアミストの誰一人として歴史に名を刻んだりはしないから。シズク。魔法学校で伝説的な魔道士の名は幾つかきいたでしょう? その中にティアミストと名の付く者は、一人も居なかったんじゃない?』
 「…………」
 リオに尋ねられて、シズクは過去の記憶を探る。基本的にシズクは授業自体あまり好きではなかったので、有名な魔道士の名をどれだけ知っているかというと、かなり少数に絞られると思う。こういうのはルームメイトのアンナが詳しい。だから、シズクの狭い知識範囲に限ってしか言えないが、少なくとも今までの経験上、『ティアミスト』と名のつく魔道士などは一度も聞いたことがなかった。ジュリアーノを発つ前日、リオから告げられたのが初めてだったはずだ。
 そこまで頭の中で結論付けると、シズクは肯定を示すためゆっくり頷く。シズクの答えに、リオはそうでしょう。と言った。そして、鮮やかなブルーの瞳に真剣な色を宿すと、こう問うてくる。
 『何故だと思う?』
 「え――」
 何故と言われても。返答に窮してしまう。助けを求めるようにシズクはアリスの方を見たが、彼女もシズクと心境は全く同じだろう。怪訝な顔をして首を傾げていた。
 しばしの沈黙の後、分からないと答える代わりにシズクとアリスは二人同時で、テーブルの上のリオを見つめる。二人が返答できないというのは予想の上だったのだろう。リオはとりたてて表情を変えたりはしなかった。二人の視線を受けると、ただふっと息を一つだけつく。
 『答えはね、歴史に名を刻んではいけなかったから。彼らは常に、無名でいなければならなかったのよ』
 「…………?」
 名前を刻んではいけない?
 リオの突飛な答えに、シズクとアリスは思わず絶句してしまう。眉間のしわが益々深くなる。不可解だ。
 「……それは、何故?」
 シズクの思っていたことを、アリスが代わりに質問してくれた。アリスの質問を受けて、リオはしばらく黙り込んで考え込む素振りを見せる。何を語るべきか、慎重に言葉を選んでいるのだとシズクは思った。膨大すぎる知識を持つリオは、きっと知らない事は無いと言えるほど何でも知っているのだろう。だが、彼女はそれを全てありのままに話す事は好まない。毒にならないよう、薬になるよう、適量を見定めて彼女は物事をこちらに伝えてくる。今もきっと、その見定めの最中なのだろう。

 『――シーナが王家を出て以来、イリスピリア王家に魔道の素質を持つ者がぱったりと生まれなくなったって話、聞いたことある?』

 急にトーンを落としたリオの声は、異様なほどに澄んでいた。






 ――イリスピリアは魔道の国である。それは、大陸の全ての者が知る事実だ。
 イリスピリア城内に併設されたイリス魔法学校は、大陸随一の優秀な魔道士候補生達が集う学び舎であり、大陸の魔道関係の書物のうちの約8割は、イリスピリアから出版されている。魔法連をはじめとした多くの魔道関連の団体本部もこの地に存在し、城を含む首都イリスの周辺には、世界で最も強力な魔よけの結界が形成されている。イリスピリアはあらゆる魔道の集積地であり、まさに魔道士の聖地なのだ。
 これはそもそも、イリスピリアを治める王家の者達が優秀な魔道士である事に起因する。イリスピリア王家は世界有数の魔道士の輩出元なのだ。王位継承者の最重要条件として『魔道の才を持つ者』という項目が存在するくらいに。世の全ての魔法を使いこなし、幅広い知識と教養を備えた者こそが王位を継ぐのに最も相応しい者だとされているのである。
 加えて重要視されるのが、彼らの瞳の色だった。『神の雫』を授かった者、すなわち青い瞳を持つ者が最も王位に近しい者とされている。その証拠に――



 「…………」
 そこまで本の上の文字を目で追ってから、渋い表情でリースはおもむろに顔を上げた。そうして、自分の隣にいる姉の表情を確認する。彼女もまた、自分と同じような表情を作って黙り込んでいた。ただ一人、自分に先ほどこの本を手渡した張本人である水神の神子だけが、穏やかな表情で佇んでいる。妙な沈黙が、埃っぽくて狭い部屋に漂う。
 手に持たれた本は、初版本ではなく初版の写し本だったが、それでも数百年前に書かれた代物だった。ページを構成する紙達はすっかり黄ばみ、今にも朽ちてしまいそうなほどボロボロなページも少なくない。劣化予防の魔法は施されているのだろうが、それでも、時間は確実にこの本へ老いをもたらしていた。
 今リースが手に持っている分厚い本は、600年ほど前に書かれた紀行本のようなものだった。世界中を旅して回った著者の、その国々の当時の記録のようなものである。その中の、600年前のイリスピリアに関する記述を、今しがた目で追っていたのだ。

 ――イリスピリアは魔道の国。

 それは、今も昔も変わらぬ事実であった。ただ、600年前とは異なる点が一つだけある。王家だ。
 現在のイリスピリア王家には、魔道の素質を持つ者は一人として居ない。リースにしても、姉のリサにしても。そして現イリスピリア王である父にしてもそうだ。亡くなった母の出里は王家の血縁ではなかったが、彼女もまた魔道とは無縁の人で、むしろ剣の達人であった。身の回りに居る魔道士といえば、イリス魔法学校の人間や、王家に仕える魔道士達くらいしか居なかったのだ。
 大昔は、イリスピリア王家は魔道士の名家だった。それは、歴史を学んだ際教えられてはいた。だが、この紀行文に綴られているほどに、王家にとって『魔道の素質』というものが重要だったとは、正直思っていなかった。それが王位継承権にまで関わってくるというのなら、現在において言えば、王位を継ぐべき者は一人も居ないという事になってしまう。
 ここまで王家のあり方が変わってしまったきっかけは何だ?

 「――とまぁ、こういう訳で、貴方たちのご先祖は偉大な魔道士の一族だった訳なんですよね」

 のほほんとした調子で突然沈黙を破ったのは、他ならぬこの本をリースに手渡してきたセイラだった。彼は、渋い顔を作っているリースとリサに目配せすると、こう続ける。
 「きっかけは何だったと思います? 魔道で繁栄を極めたイリスピリア王家が、現在のように剣技と英知で国を治めるリーダーへと変わったきっかけは?」
 「セイラ……お前」
 やたらと饒舌な水神の神子へ、リースは訝しがるような視線を浴びせた。この男が饒舌になる時は、奇行に走ろうとしている時か、何か重要な事を自分たちに告げようとしている時だけだ。そして今現在は、後者の方であるようにリースには思えた。
 ティアミストについて調べようと思ってここに来た。とセイラは言っていたが、彼はティアミストに関して既にほとんどの事を全て知っているのではないか。直感的に、そう思った。こんな場所で彼が今更調べ物をする必要はない。そんなものは、とうの昔にセイラ自身この場所で行った事なのだろう。先ほどの紀行文をあっさり見つけ出し、特定のページをリースに指示してきたところからして、間違いないだろうと思う。
 だとしたらこんな場所をセイラが今更訪れたのは何故か。……自分達に教えるためだろう。ティアミスト家とイリスピリア王家の関係について。
 リースとリサがこっそりこの場に忍び込んで、ティアミスト家について調べようとしていた事など、セイラにかかれば全てお見通しだったというわけだ。
 「というわけで、はい。次はこれです」
 そう言って再び沈黙を破ると、セイラはまたしても古びた分厚い本を取り出し、リースに手渡してくる。表紙の埃を払って題名を読むと、イリスピリアの歴史に触れた書物である事が分かる。
 「739ページです」
 言われるがままに本を開き、リースは指示されたページを開いた。隣に居るリサが興味しんしんの様子で覗き込んでくる。
 739ページ目には、章の題として『大陸暦3987年 光神の神託』と綴られていた。だが、さきほどの紀行文のようにリースが本文を読む必要は無かった。
 「大陸暦3970年。非常に有名な出来事が起こった年です。後に金の救世主(メシア)と呼ばれる、イリスピリアの王女シーナが、悪の魔法使いの野望を砕いた年。そして、彼女が王家を出た年です」
 そう目の前のセイラが、ぽつりぽつりと語りだしたからだ。
 セイラは一旦言葉を切ると、ちらりとこちらを見やる。そうして、リースとリサがちゃんと自分の話を聞く体勢に入っていることを確認すると、再び口を開き語りだした。それを見てリースは、昔、教育係のネイラスが、そうやって自分達に歴史や数学を語って居た姿を思い出した。
 「それから時が流れ、17年後の3987年。シーナの弟パリスが王位を継承します。しかし、それまでの王は皆優秀な魔道士であったのに、パリスは魔道の才を持つ者ではなかった。剣技に優れ、心優しく聡明な人だった。しかも瞳の色は青色ではなく……今の貴方達と同じ、明るいエメラルドグリーンだった」
 奇しくも、当時王位継承権を持っていた者の中に、魔道の才を持つ者はただの一人も居なかったのだという。第一王子であったパリスは、優秀な魔道士の娘を妻にしたが、彼らの間の子供にもとうとう魔道士は生まれなかった。結果、やむを得ずパリス王子が王位を継ぐことになったのだ。
 「今にして考えると、魔道の才に固執する王家の姿は、酷く滑稽ですけれどね。でも、当時はそれが全てだった。王家の人間もそうですが、イリスピリアの民もまた、王位につく者に魔道の力を求めていたんです。だから……この、パリスの王位継承は、イリスピリア中に波紋をもたらした」
 本来王位を継ぐべきだったシーナが去り、以来王家に魔道の才を持つ者が生まれなくなる。そして、とうとう歴代で初めて、魔道士でない者が王位を継ぐ事になったのだ。民衆の間では、「これは国滅亡の前触れではないか」という風潮が高まった。
 その500年先である現在でも、イリスピリアは大陸一の大国として繁栄を誇っているのだから、とんだガセネタが出回ったものである。だが、その風潮が暴走して、謀反が起こりそうにまでなったというから、人間の思い込みというのは恐ろしい。
 「そんな時、一人の魔道士が民衆の前に立ち、こう言ったそうです。『悪を破った王女は去り、イリスピリアから魔道は去った。だが人々よ、嘆くことなかれ。光神の神託は下った。新しき時代の王は、剣と知を持ち、新しきイリスピリアの歴史を刻む――』」
 「光神の神託……」
 そう呟いて、リースは本の章題へと視線を移した。黄ばんでボロボロになったページに、凛々しくその文字は整列している。
 「その魔道士は、10代半ばにして既に、抜きん出て優れた魔力と知識を持つ少年だったそうです。瞳の色は青。髪は、眩しく輝く金だった」
 「……それって」
 それまで黙ってセイラの話を聞いていたリサが、掠れた声を上げる。思い当たるものがあったのだろう。おそらくそれは、リースが考えているのと全く同じ事。どくんと、心臓が変な音を立てて鳴った。
 「これは完全に僕の憶測ですが、おそらくその魔道士は、シーナの息子だったんじゃないでしょうか。王家を離れたシーナが、イリスピリアの片田舎セーレーで名乗った名――『ティアミスト』の者。彼らの存在が、その年を境にして王家の影に見え隠れする事からして、ほぼ間違いないと思います」
 その黒い瞳に静かな光を称え、セイラはまるで神託でも告げるような調子で、言った。



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