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第2章「イリス魔法学校」


1.

 今日中に片付けるべき仕事はとうに終わり、眠りにつくまでの夜の時間を一人楽しんでいた時だ。イリスピリア王の自室の扉を、ノックする者が居た。
 普通、緊急事態でもないのに、このような時間に王を訪ねるのは不敬に値する行為である。王と近しい存在である12大臣達でも、このような時間に彼の元へやって来たりはしない。
 しかし、ほんの一部だけ、それが許されている者達が居る。

 「……失礼します。陛下」

 そう言って、寝室の扉から姿を現したネイラスもまた、そのような例外が認められている者の一人だった。彼は12大臣の一人であるが、王の良き相談役であり、彼の子供達のお目付け役でもある。つまり、イリスピリア王にとっては、気のおけない友の一人であるのだ。
 「どうした、こんな時間に?」
 部屋着に着替え、読書をしながらくつろいでいた王は、突然のネイラスの来訪に意表を突かれたようだった。扉の前で佇む下臣に向かって、不思議そうに首を傾げる。だが、ネイラスは主の質問には答えず、黙ったまま後ろ手に扉を閉め、ゆっくりとした動作でこちらへ歩み寄ってくるだけだ。不審に思った王だったが、しかめ面をするだけで特に何も言ったりはしなかった。ネイラスは元来こういう男であるからだ。



 「あのティアミストのお嬢様の事ですが――」



 突然沈黙を破ったのは、もうその時には王の座る椅子の隣まで歩いてきていたネイラスだった。彼は王とは目を合わせず、寝室の窓から見える夜空へと視線を注いでいる。
 対するイリスピリア王はというと、ネイラスの口から飛び出したものが、今の彼にとって一番頭の痛い事項だったために、重苦しいため息を一つ零した。今日、セイラがあの娘を連れてきてから、自分の周りはやけに騒がしくなった気がする。あの娘自身がうるさいという訳ではない。騒々しさの原因を作ったのは確実に自分だろう。
 「…………」
 「王家の事を考えれば、確かにティアミスト家の存在は頭が痛い問題です。12年前、キユウ様が行方知れずになった時、12大臣の皆が、安堵のため息を零していました。私もその1人です」
 王が聞いているかどうかなどは確認しようとせず、ネイラスは言葉を続ける。ほとんど独り言に近いものだった。だが、彼は確実にイリスピリア王に向けてこの言葉を放っている。
 「ですが、12大臣ではない、ネイリムスフィン・イルスィードという人間は、あの時確かに、悲しみの涙を流しておりました。……そして、今日その涙は歓喜の涙に変わったのです」
 そこまで紡いでから、ようやくネイラスはイリスピリア王へと視線を寄せた。静かな表情だった。昼間、王を責めたてたリサのような激情ははらんでいない。似たような意味合いの感情をその胸に秘めているのは、なんとなく察する事ができたが、彼は今、責めるのではなく、問うているのだろう。――王の真意を。
 「……昼間のあの娘への態度が、お前も気に入らぬか」
 「いえ、少々乱暴ですが、イリスピリアの王としてはあれで良かったのやも知れません。問題は――貴方様自身が、彼女を拒絶する事を本当に望んでいるかどうかであると思います」
 そう言うと、ネイラスは再び沈黙して、瞳には真剣な色を宿した。寝室に、奇妙な沈黙が下りる。先に口を開いたのはイリスピリア王だった。
 「王であるために、己の気持ちやら感情やらはいらんだろう」
 「王である前に人であらなければ、良き王とは呼べませぬよ」
 「詭弁だな」
 「貴方様が昼間、リサ王女に浴びせた詭弁に比べれば、可愛いものです」
 「…………」
 ネイラスの言葉に、王は少しだけむせる。リサめ、大方昼間のやり取りの一部始終について、目の前のこの男に愚痴を零したのだろう。もちろん、父親への嫌がらせの意味もこめて。
 何も言い返せなくなって、イリスピリア王はネイラスを見つめ返すことしかできなかった。視線の先では、彼は少しだけ微笑を浮かべている。勝った。とでも言いたげな表情だ。



 「おやおや、そんな面白そうな話、僕抜きで始めないで下さいよ」



 何度目かの沈黙を破ったのは、ネイラスでもイリスピリア王でもなく、意外な人物だった。聞き覚えのある声に、イリスピリア王は慌てて声がした方――寝室の扉の方を振り返る。するとそこには、彼が見知った男の姿があった。
 「セイラ?」
 怪訝な表情で、王は扉の前に佇む男の名を紡いだ。セイラーム・レムスエス。彼もまた、夜分に王を訪ねる事を許されている者の一人だった。だが、ノックも何も無くセイラがこの場に入ってきたことに少々の疑問が残る。いくら神出鬼没な彼と言えども、最低限の礼儀は守る男だ。
 「……あぁ、すっかり失念しておりました。私が貴方様を訪ねたのは、セイラ様が王とお話がしたいと仰っておられたので、それを知らせるためでした」
 首を傾げる王の隣で、ネイラスがしれっと言いのける。そんな彼を見て、セイラは「ネイラス殿も人が悪いですねぇ」と苦笑いを零した。
 失念していたなどきっと大嘘だろう。ネイラスは、セイラからことづけを頼まれたのをいい事に、自分に苦言を漏らしに来たのだ。今日のあの娘への態度について。
 「……まったく。ワシの周りは敵だらけという事か」
 一瞬出来た間のあとで、イリスピリア王は深いため息を一つ付き、そしてうんざりした表情を、今この場にいる二人の友人達に向けた。
 あのティアミストの娘を発見し、ここまで連れてきたのは他でもないセイラだ。彼もまた、謁見でのあの娘に対する態度について、王に文句の一つや二つくらいは言わないと気がすまない人間の一人だろう。口の達者さで言うと、セイラの右に出るものには未だに出会った事が無い。また厄介な事になった。と頭を抱える王だったが、
 「まぁそう構えないで下さいよ。今夜僕がここに来たのは、謁見での件について、陛下に苦言を漏らすためではありませんよ。水神の神子として、陛下と話をしに来たのです」
 「…………話?」
 セイラの口から飛び出した予想外の言葉に、王とネイラスはほぼ同時に動きを止める。水神の神子として自分と話をしにきた? そのような事、長い付き合いの中でほとんど無い事だった。あったとすればそう、それは何か重大な事件や事故が起きたときのみ。
 「はるばるレムサリアから、僕自身がここまで出向いたんです。そうしなければいけない理由がないと、こんな事はしません。貴方に僕から、直接話さなければならない事があった」
 言われてみればそうである。今回のセイラのイリスピリア来訪は、単に、友人であるイリスピリア王に会いに来たというものではないように見える。同行させている人間は弟子のアリスのみで、イリスピリア王に『イリスピリア王自身が最も信頼できる、ボディーガードになり得る人物』をレムサリアまで迎えに寄こしてくれ、と要求してきた事からして、あまり目立たずに事を進めたいというセイラ側の意図がうかがえた。そうまでして、セイラ自身がここを訪れたのだ。水神の神子本人の口からしか伝えられない用件があるのだろう。
 「ネイラス殿も居てください。どうせ後々12大臣には話さなくてはならない話題ですから。ただし――」
 そこで言葉を切ると、セイラはいつものあのにこやかな笑みを顔から消す。代わりにそこに宿るのは、妙に挑戦的な表情だった。
 「?」
 不審がる王とネイラスの目の前で、セイラはすうっと闇色の双眸を細めると、
 「この話をしてからのあなた方の反応次第で、僕はあなた方の敵にも味方にもなり得るので、あしからず――」
 嘘ではなく本気だと分かる声色で、そう言った。



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