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第4章「決壊」




 「――ティアミストの娘など、私は知りません」



 厳粛な会議の場に、リースの硬質な声はやけに響いた。
 ネイラスを含む12大臣はすっかり沈黙してしまい、身動きすらしない。セイラやリオに関しても、真剣な視線をこちらに浴びせてくるだけで、静かにリースを見守っていた。
 「…………」
 ちらりとそれらの様子を確認してから、彼の斜め前――父であるイリスピリア王の方を向く。自分と同じ色をしている瞳は、今は厳格さを宿し、リースの二の句を待ち伏せしているように思えた。そんな父に、挑戦的な視線を浴びせてから、小さく空気を吸い込み、そしてゆっくりとそれを吐き出す。
 「……ティアミストの娘ティアミストの娘、と先ほどからしつこく仰りますが、陛下は一度でも彼女の『名前』をお呼びになったことはございましたか。『シズク・サラキス』、と。……彼女の名前の中のどこにも、ティアミストなど含まれて居ない」
 リースの言葉に、ふっとイリスピリア王は苦笑いを零した。
 「表面的な名前がどうと言うのだ。今の彼女は確かにそのような名前なのだろう。だが、その身に宿るのは間違いなくティアミストの血だ」
 「確かにそうかも知れない。ですが、彼女は10年以上の歳月をシズク・サラキスとして生きてきた。ティアミスト家で過ごした記憶もなくしてしまっている。陛下が仰るような『ティアミストの娘』など、もうこの世には存在しないのですよ」
 それに。とイリスピリア王が反論に出る前に、リースは先手を打つ。若葉色の瞳をすうっと薄めると、真正面に父の顔を据える。
 「水神の神託の解釈にしても、結論を急ぎすぎておられると思います。『救世主』『滅びの血』これらは確かにティアミスト家にも該当する単語では有る。ですが、それ以外の他の何かであるという可能性も決して捨てきれてはいません。まずはその可能性を完全に否定できる何かを持ってきてから、この神託に有る者というのが『ティアミストの娘』を指す。と結論付けられても遅くはないと思うのですが、違いますか?」
 それだけの言葉を言い切ってから、やっとリースは一息ついた。






1.

 「……で、何? そのままシズクに、何も言えずに終わっちゃった訳?」

 資料と睨めっこしながら、アリスが言葉だけリースに寄せてくる。彼女の手は淀みなく動き、机の上にある本達をめくっては閉じ、めくっては閉じの繰り返しである。
 「ま、そういう事だな」
 莫大な蔵書を誇る本棚達を、何となしに眺めつつ、リースはごまかすように言った。
 場所は、イリスピリア国立図書館の閲覧コーナーだった。本来ならば私語はご法度の場所であるが、今はアリスとリースの他に誰もここには居ない。更に言うと、図書館の司書もたまたま不在にしていたのだ。小声と言うには大きすぎる会話は、こんな調子で先ほどから続いていた。
 「馬鹿ねぇリース。何でそこで言い訳しないのよ!」
 「言い訳っつったって……」
 どう言えば良かったのか。
 机の上に肘をつき、ふて腐れたようにリースはしかめ面を浮かべる。思い出すのは、昨日の放課後の、シズクとのやり取りだった。体調が悪い上に、酷く混乱している様子。そうして、とうとう我慢も限界に達したのだろう。涙を一筋、確かに流していた。
 彼女の涙を見たのは、リースにとって二度目の事だ。シズクはもちろん、弱虫でも泣き虫でもない。どちらかと言うと、我慢強い部類に入っても良いと思う。そんな彼女が泣くのだ、よっぽどの事である。……まぁ、あの会議の様子を聞いてしまったのだと言うし、自分の置かれた立場を認識して、精神的にも肉体的にも滅入るのは無理もない。
 だが、一度目の涙を見たあの時と昨日とでは、涙の矛先も、お互いの立場も、全く異なってしまっていた。一度目のあの時のように、詳しく問い詰める事は、今のリースでは不可能だ。信用できなくなっている。そう言ってシズクに、強い拒絶を示されてしまったから。
 「…………」
 それだけ思い出して、リースは疲れた調子でため息を一つ零した。これ以上重たい気分になるのはごめんだ。そう思い、話を変える事にした。
 「そういえば、こんな場所に俺を呼び出して何の用だよ? ってか凄い本の量だなそれ。正気か?」
 目の前に座るアリスの様子を、半ば呆けたように眺めつつ、リースはそう零す。
 アリスから呼び出しがあったのは、今朝の通学中の事だった。通学路になる城の廊下で、彼女はリースを待ち伏せしていたのだ。アリスとのツーショットは、イリスピリア城内においてはいろんな意味で目立ってしまうため、この誘いに関してもリースは大いに嫌がった。しかし、それ以上にアリスの迫力が物凄かったため、こうして放課後に図書館まで来る事を承諾せざるを得なかった訳だ。
 それにしても、彼女、一体先ほどから何をしているのだろうか。閲覧用の机に堆く積み上げられた本達は、皆重量級のものばかりだ。世界史だの魔道書だの歴史書だの……読書好きのリースでもあまり触手が動かない部類のものだった。一体何を――

 ――バタンッ!

 リースが率直な疑問を口にした直後、目の前でアリスが分厚い本を閉じた。その音にどこか戦慄を覚えて、思わず表情を引きつらせてしまうリースだったが、視線の先には彼以上に引きつった表情のアリスが居た。
 「……正気かですって? 誰のせいで私がこんな事をしていると思うの?」
 「??」
 やけにどすの聞いた声で、恨みでも篭ってそうな勢いで睨まれる。氷の眼差しと表現するのが最も適切だろうか。
 「誰かさんが会議の席で大層な事を提案したばっかりに、こうして私がいろいろと資料集めをしなくちゃならないのよ!?」
 「――――っ」
 アリスの言葉に、思い切りリースは硬直してしまう。ぎょっとしたように目を見開くと、視線の先でアリスが、面白いものを見たと言った表情を浮かべていた。
 彼女が言う会議とは、一昨日の深夜に行われた、例の秘密会議のことだろう。その場で、父であるイリスピリア王に、シズクの扱いについて問われた時、リースが答えた言葉があった。
 「師匠も言っていたわ。屁理屈の腕に関しては父親譲りだって。まぁ……そのお陰で一時的ではあるけれど、時間稼ぎが出来るようになったんだけどね」
 「だからって、何でアリスが資料集めなんて……ってか、お前。会議の事何で知ってるんだよ」
 相変わらず作業を進めながらのアリスに、狼狽しながらリースが問う。完全にアリスのペースである。昔から、又従兄妹であり、幼馴染でも有るこの少女からは、なかなか主導権を奪い返せずにいる。屁理屈に関しては父親譲りと言われたが、アリスの方こそ、ここぞという時の口の達者さや押しの強さに関しては師匠譲りだと思う。
 「……資料探しは、ティアミスト家以外に、例の神託に当てはまる一族や物事は無いかを調べるためよ。ま、その可能性を否定するために行っているのだけど……師匠から押し付けられたに決まってるでしょう。会議の事に関しては、この件を依頼された時、師匠に問い詰めたの。いい加減蚊帳の外は嫌だったから」
 それまで淀みなく動いていた手を初めて止めると、アリスはその瞳に暗い影を落として言った。
 「さすがの師匠も、ここまで訳の分からないことを依頼しておいて、説明なしでは無理って思ったみたいね。話してくれたわ。今、何が起きているのかを――」
 伏せ目がちになると、アリスは重苦しいため息を一つ零す。彼女がセイラからどこまで説明を受けたのか、リースには分からないが、事の次第を聞いて陰鬱になる気持ちは理解できた。
 自分が関わるにはまだ当分先であると思っていた国家の取り決めに関する会議。その場に一昨日自分は、この国の王子という立場で招かれた。そして招かれた先で議題に上ったのはティアミストの娘、シズクの件だったのだ。というか、先日の会議ではそれ以外に関しては一切話される事はなかった。これは、単に偶然とかそういうのではない。おそらく父であるイリスピリア王が、わざとそうしたのだろう。
 「……で? 否定してくれる事を期待して言うけど、リースはどうするつもり? この国の王子としての立場を優先せざるを得ない状況?」
 試すような口調でアリスが言う。言われてリースはまた、先日の会議の光景を回想していた。
 あの席で、リースが反抗的な発言をした瞬間の、父の表情が脳裏に焼きついて離れない。おそらく父は、リースがそういう態度に出る事は予想済みだっただろうが、妙に勝ち誇ったようなあの顔の、意味するところはそれだけではないと思える。
 自分と同じ歳の頃の父は、随分と奔放な人間だったらしい。昔ネイラスからそのように聞いた記憶がある。性格は王子という柄では絶対になく、しょっちゅうイリスの町に繰り出したり、果ては国外へ外出したりと、いろいろな冒険を繰り広げていたそうだ。それが今はどうだ。20代前半という異例の若さで即位した彼は、その後すっかり王座に腰を下ろし、かつてそうだったという粗野な一面は全く見られない。完全なイリスピリア王となってしまったのだ。
 甘いと思われたのだろうか。国の政治を司るようになれば、いずれはリースも父のように時には冷徹な判断も下せるようになる、と。
 『……そうか。それがお前の判断か』
 そう言って、落胆するでもなく淡々と零した時の父の顔が浮かぶ。やっぱりな、といったものを含む一方で、そんな事を言えるのも今のうちだ、と暗に告げられたような気がして、妙な胸騒ぎを覚える。それに――



 『信じる事なんて、出来なくなってきたよ……リース』



 昨日の、シズクの言葉が胸に過ぎり、ずきりとした痛みが走ったような気がした。
 自分が彼女に対して出来る事。それを考え、また気が重くなる。先日の会議でリースが、考えられる可能性を全て否定しなければ、水神の神託が指す人物がシズクであるとは言えない。と提案した事から、シズクの扱いについての審議は延長される事になった。だが、それだけだ。リースが出来る事といったら、せいぜい時間稼ぎの提案が限度なのだ。やがては彼女に関する審議は、再開されてしまう。根本的に彼女をこの騒動から逃れさせる力など無いし、その方法も今のところは全く思い浮かばない。
 会議で彼女に関する情報が入れば良いと軽く考えていた。わだかまり無く彼女がイリスを去ることが出来たら、それでも十分だと思っていたのだ。だが、事はリースの想像をはるかに上回るスケールで展開してしまっていた。それを果たして自分が。仮にもイリスピリア王の息子である自分が、妨害しても良いものかどうかも、分からなくなってきている。

 「リース?」

 回想にふけるリースを呼び戻したのは、アリスの声だった。見ると、先ほどまで気だるそうに資料をめくっていた彼女の表情は、今は不安を宿したそれへと変わってしまっている。ずっと黙したままのリースの様子が不思議だったのだろう。
 「……例えばさ」
 「?」
 リースの言葉に、アリスは身を乗り出して耳を傾けてくる。それを何と無しに横目で確認しつつ、本で溢れかえる書棚達へと視線を注ぎながら、リースは続きの言葉を紡ぐ。
 「『ティアミストの娘』が、シズクじゃなくて、俺達の知らない誰か他の人物だったとしたら。アリスもセイラも、ここまで『ティアミストの娘』の保身を考えると思うか?」
 「え……」
 「全く知らない誰かであれば、俺は親父のする事に不信感を抱かなかったかも知れない。世界の危機を救ってくれる救世主として、『ティアミストの娘』を歓迎してしまっていたかも知れない」
 「…………」
 口をきゅっと引き結んだまま、アリスは何も答えてこなかった。漆黒の大きな瞳を見開くと、訝しがるような様子でこちらを見つめてくる。
 「水神の予言は絶対。示されたのは十中八九シズクってのも事実。俺達がシズクをこの騒動から逃れさせられるかどうかは置いておいてさ、それをしようとする事って正しい事なんだろうか」



 『わたしの中に、どれだけ逃れようとしてもシーナの血が通っているように』



 「……師匠も、難しい立場なのよね。水神の神子としての立場と、シズクのお母様の親友としての立場の間で、苦悩している」
 神秘的な闇色の瞳に見据えられて、リースは息を呑む。こちらを見る彼女の表情からは、陰鬱な空気はすっかり抜け落ちて、どちらかと言うと真摯な色が漂ってきていた。
 「水神は、シズクを予言してしまった。それに付け加えて、師匠が、シズクを保護してくれると見込んでいたおじ様は、シズクへの態度を硬化させてしまった。挙句の果てには『救世主』としてまつりあげようとまでしている。本来ならば、それを擁護し、支えるのが水神の神子の役目なんでしょうね。けれども、師匠個人の気持ちとしては、シズクをこんな事には巻き込みたくないのよ。どちらの立場をとるのが正しいのか、ずっと悩んでる。あの師匠が悩むのよ? よっぽどよね」
 言って、アリスは疲れたようにため息を一つ零す。だがやがて、パッチリとした瞳をすうっと細めて、何かを見定めようとするようにリースを見た。
 「だからねリース。師匠は懸念しているの。師匠と同じくらい曖昧な立場にいる貴方が、シズクの事を見放してしまうのではないかと」
 「っ――! 俺は別に」
 「分かってるわよ。誤解しないで。貴方がシズクの事を心配して、なんとかしようと思っている事は、皆がよく分かってる。私も師匠もそうであるように、ね。だけど、貴方は今考えてしまっている。世界の存亡に関わる重要人物をイリスピリアの王子として、彼女を救う方へ加担しても良いのだろうか、ってね」
 「…………」
 言われた内容に、反論を試みようとしたが、出来なかった。頭の片隅で、ほんの少しだとしても、確実に考えてしまっていた事だったから。世界の存亡を考慮に入れた途端、本来一番優先されなければならないものを、優先順位の最後の方に持ってきてしまっている自分の考えに、背筋が凍る。
 「予言はあくまで予言よ。これから起こりそうな事であって、必ず起こるものではないの。師匠もリオも、そう言っていたわ。誰にも未来は決められないのよ。それこそ、世界を創った6大神にすら」
 視線は次第に、棘を持つバラのようにリースに絡み付いてくる。大きく深呼吸してから、アリスが今までにも増して、一際鋭く言ったのは次の瞬間の事だ。
 「シズクと出会ってイリスピリアに帰ってきてから、リース変よ? 前はこんな風に、自分の立場なんて頼まれても考えなかったのに。イリスピリアきっての切れ者と呼ばれたリース・ラグエイジはどこへ行ったの? 凝り固まった頭を、少しほぐしたらどうかしら?」
 射るようなその言葉に、がつんと頭を殴られたような気がした。



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