+ 追憶の救世主 +

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第5章「証」




1.

 流星のような光が去ったイリスは、静かな夜を迎えていた。月明かりが異様に強い夜ではあったが、優しい雰囲気が降りる。それは、新たに張り直された結界の力だろうか。

 『――星降りなんて、もう見られないと思っていたわ』

 ぼうっとそれらの光景を見下ろしていたパリスに、声をかける者が居た。全身青づくしの美女。偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)である。振り返り彼女を見ると、サファイアの瞳には懐かしむような色が浮かんでいた。十三年ぶりに見る星降りに、思うものがあったのだろう。パリスにしても、それは同じであった。歴代のティアミスト達と関わって来た彼だが、ここまで多くの光をイリスに降らせた者はそう多くないからだ。シズクの母であるキユウ・ティアミストが降らせた光も美しかったが、それより彼女の光は、姉のものに似ている気がした。たった一人の姉であった、シーナに。
 「……何とか踏み止まったようですな」
 『ええ、リースが落ち着かせてくれたみたいだし。セイラが来たから、一先ずはね』
 リオの言葉に、パリスはほっと短い安堵の息を吐く。他に方法が無かったとはいえ、シズクの魔力をあんな形で解放する事は大きな賭けだったのだ。あのまま魔力が暴走していれば、この城はおろか、イリスの町をも滅茶苦茶に破壊されかねなかった。それほどに膨大なものを、あの少女は秘めていたのだ。
 身に余るほどの力を手に入れた時の恐怖。大昔にパリス自身も経験している事だ。だからこそ、シズクの心境を察する事が出来る。シズク自身が覚悟した事であったとはいえ、彼女にした事と、彼女が受けた痛みや傷を思い、現実にはあるはずの無い胸がずきりと痛んだ。
 『貴方のお陰で、最悪の事態だけは避けることが出来たわ、パリス。感謝してる』
 そんな時に、リオが真剣な表情でそう言ってきたものだから、パリスは拍子抜けしてしまった。先日の晩、シズクにした事に対して非難された相手に、こうして礼を述べられる事は少々不思議でもあった。
 「……私は、シズクさんに自分の願望を押し付けようとした訳ですから。これはその罪滅ぼしですよ」
 苦笑いを浮かべて、伝説の杖に言う。そう、これは罪滅ぼしである。勿論これだけで罪が全て拭えるとは思わないが、シズクのために何かが出来た事は、パリスの心にぶら下がる錘を少しは軽くしてくれた。
 「あの秘密会議の晩、リオに言われて、考えました。私はシズクさんに、今起こっている状況を知って欲しくてあんな行動に出た訳ですが、あくまでそれは建前であって、ひょっとしたら自分の願いを彼女に果たして欲しかったからであったのか、と」
 ふっと、今度は自嘲的に笑う。
 現イリスピリア王とシズクの間に出来た溝に、心を痛めていたのは事実だ。
 パリスとてこの国の王を担ったことがある身。現イリスピリア王の心中を思うと、彼の難しい立場に同情すら浮かんでしまう。
 しかしそれでも、圧倒的にシズク不利で進む状況にやきもきもしていた。イリスピリアの要人達だけで、シズクの身のあり方が決められてしまう事だけは避けたかった。シズクも事実を知るべきである。そして、それを知った上で彼女も自分の意見を持つべきだ。そう思った。だが、それよりも――
 「私は、シズクさんに姉を重ねていたのですよ」
 そう紡いだ声は、少しだけ枯れていた。
 今でも眼前に思い出すことが出来る金色の長い髪、強い意志を宿す真っ青の瞳。髪の色も瞳の色も違う。しかし、シズクとシーナの容姿は寸分の狂いが無いほどにそっくりなのだ。初めてイリスピリア城の廊下で彼女を見たとき、姉が戻ってきたのかと錯覚したくらいに。だから思ってしまったのだ。彼女ならば、自分が思い描いていた事を形にしてくれるのではないかと。
 「姉がイリスを出て、王家とティアミスト家の関係が始まりました。双方は決して交わる事が出来ない。二つに分かれた王家は、二度と一つには戻れなくなった。だがせめて、双方が幸せであるようにと。交われずとも、分かり合う事はできるようにと。それが私の願いだった」
 自分は、姉を救うことが出来なかったから。500年前のあの時、彼女が王家を去る事をただ黙って見守るしか出来なかったから。せめて、彼女の血を引く者の行く末を見たいと思った。そして、自分の血を引く者達と手を取り合って生きて行って欲しいと願ったのだ。それが、パリスがあの球体に触れて、精神だけの存在へとなった理由と目的。自分は、安心したかったのだ。王家が二つに分かれてしまっても、大丈夫であると。イリスピリアは大国として永遠にあり続けていられるのだと。自分達の結末は、決して良いものではなかった。けれども、最悪ではなかったのだという証が欲しかった。
 『……パリス。私もね、いろいろと考えたのよ。貴方のやり方は、強引だったと思う。けれども、全く間違いだった訳では無いのではないか。そういう結論に行き着いたの』
 イリスの町並みに向けていた視線を、リオのほうへと向けた。視線の先で彼女は、パリス以上に自嘲的な表情を浮かべている。悠久の時を過ごし、世の全ての事を知るとされている伝説の杖が、こうも人間くさい表情を浮かべるのは珍しい事だった。五百年前のあの頃に戻ったような錯覚が、パリスを包む。
 潤んだサファイアの瞳は、すうっとイリスピリア城へと移動する。月明かりを受けて、イリスピリア城は淡い青色に浮かび上がっている。それは、魔法の光に似ている気がした。
 『シズクにも知る権利はあったし、辛い現実だけど、知った方が良い事だった。でも、私もセイラも、それをあの子に伝えるのを避けた。早い話が、怖かったのよ。大人の判断を気取って、事態がどんどん悪い方向に進んでいくのに、それをシズクに打ち明ける勇気が出なかったの』
 ははっと、乾いた苦笑いがイリスの夜空に響いた。そうしてリオは、くるりと身体を半回転させて、完全にパリスと向かい合う形になる。彼女の表情は、いつものあの達観した賢者の笑みに戻っていた。先ほどまでの自嘲的な色はパリスの見間違いだったのかとさえ思える。
 『自分の願望を優先したのは貴方だけじゃない。私もセイラも同じ。――だから、お互い様って訳よ』
 そこで一旦息をつくと、リオは瞳を伏せた。
 『……それに、事は既に動き出してしまった。ティアミストの魔力は目覚め、シズクは文字通りティアミスト唯一の生き残りである娘になった。あの力をどうするかはあの子の自由だけれど、もう無関係を決め込んで逃げるという道は断たれてしまった。あの子を軸に、近いうちに事はまわりだす』
 最後のリオの台詞に、ずきりと胸が鳴る。シズクを帰り道の無い迷路へ導いたのは、間違いなく自分であるからだ。だがそれと同時に、胸に熱い炎が灯ったのを確かに感じていた。

 六神の子は集い始め、滅びの危機が近づく。悪しきものの目覚めは魔族(シェルザード)を動かし、ティアミストを動かし、果ては世界を動かす。

 「500年前の……再現」
 100パーセントそうでなくても、それに近い事が起こりかけている。直感ではなく、確信としてパリスの中にはその考えがあった。水神が予言したように、これは世界の危機である。悲しい事も恐ろしい事もたくさん起こるかもしれない。しかし……世界にとってもイリスピリアにとっても、これはあの厄災を封じる最大のチャンスでもある訳だ。
 『私、決めたの。シズクだけ渦中に放り込める訳ないもの。まわりだした歯車を止める事は出来ないけれど、一緒に回ることはできる。怖がってたら駄目なのよ。だから、私はあの子を見守り続ける。どんな結末でも、最後まで見届ける』
 凛とした声に、パリスは満足げに頷いた。伝説の杖である偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)がここまで熱烈に誓いを立てるのを見たのは2回目の事だった。1度目は姉であるシーナに対してである。そうして彼女は、宣言どおり、あの結末を最後まで見届けてくれた。どちらかと言うと悲しい結末であったシーナの物語を。
 「今度見届ける結末は、幸せな結末なら良いですな。リオ」
 500年前と似たような事が起ころうとしている。そのような予感に、大いなる不安を抱きつつも、あの少女の行く末に幸多かれと願わずにいられない。この道へ彼女を導いたのは自分である。そのような事を願う事自体、おこがましいのかも知れない。だが、それでも心から願う。
 しゃらりと光が散った。光はそのまま、イリスの夜空を昇っていく。自身の身体から発せられている光と、イリスの町並みとを交互に見て、パリスは瞳を薄めた。時が来たのだ。
 『……もう、いくの?』
 少しだけ悲しそうにリオが問うて来る。おそらく彼女は、パリスがこうなるであろう事を予想していたのだろう。
 「どうせ近いうち、限界がきていたのですよ」
 次第に光の数は多くなる。それと同時に自身の身体が少しずつ薄くなるのを感じていた。
 500年もの間、精神だけの存在としてこの城をさまよい続けていたのだ。いくら半永久的に生きられるといっても限界はある。
 「それに、先ほどは、我ながら大分無茶をしましたから」
 苦笑い交じりにそう言うと、視線の先でリオは何かに耐えるように、眉間に皺を寄せていた。
 元々魔法を使えないパリスにとって、シズクの魔力を目覚めさせるために魔力にあそこまで干渉した事は、自殺行為に等しかった。予想通り精神が限界を超え、こうして今消えようとしている。パリス・ルルフォス・ラグエイジ・イリスピリアという人間は、今度こそ完全にこの世界から居なくなるのだ。生きていた訳では無いが、十分すぎるほど長い時間、この存在であり続けた。だから、あまり悲しくは無かった。
 「後悔はしていませぬよ。リオ。むしろ、500年さまよってやっと、何かの役に立てた事が嬉しいのです」
 にこりと浮かべた笑みは、嘘でも偽りでもない。本当の心からの笑顔だった。だが、パリスの笑顔とは裏腹にリオの瞳は潤み、口を真一文字に引き伸ばしている。500年前、共に戦った最後の仲間が逝く事を悲しんでくれているのだろう。リオは、人間以上に人間臭くて心の優しい杖だと思う。姉であるシーナの死に目にも、当時の水神の神子をけしかけて訪れ、看取ったと聞く。そして今、パリスを見送るために彼女はこうして自分と共に居てくれていた。
 ふっと、視線をもう一度だけイリスの町並みに向ける。パリスが生まれた時から、少しずつ様変わりは続けているが、美しく温かな町である事だけは変わりが無かった。どれほど混沌とした時代でも、この町だけは光を失う事はない。大好きな町だ。

 「『石』の継承者であった私から、同じく6神の『石』である貴方へ、一つだけお願いをして良いですかな? リオ」

 『何かしら?』
 かすれ気味の声でリオが問うて来る。あまりこの立場は好きではなかったが、今彼女に願いを託すには、この立場が最も相応しいと思えた。だからパリスは、イリスへ向ける緑の瞳に深い慈愛を宿して、それを細める。
 「シズクは母であるキユウから『石』を託された。アリスの母国、エラリアには私が託した『石』が在る。彼女はいずれ、あの国と真正面から対峙しなければならぬでしょう。そして……リースは、私と同じだ。私と同じものを受け継いでしまった」
 自分の血を引く、現イリスピリア王子の姿を思い浮かべ、それと500年前の自分の姿とを重ねて見る。ティアミストが滅亡し、水神の予言が下ったこの時代に、自分と同じ力を持った王子がイリスピリアに生まれた事が、なんとも予感めいていてパリスには恐ろしいと思えた。イリスピリア王家の例に漏れず、リースは聡明で責任感の強い少年だ。それがかえって彼を押しつぶしてしまわないか、不安なのだ。
 『…………』
 視線をリオの方に戻した頃には、彼女は真剣そのものといった表情を浮かべていた。彼女もおそらく、自分と同じ事を考えている。偶然に出会ったにしては、シズク達の周りには『石』の影がちらつき過ぎている、と。普通ならば一所に集まるはずの無い者達が、奇妙な線で結ばれ始めている。これも、500年前の再現の一つだろうか。
 「貴方の事ですから、人には極力干渉しないように努めるのでしょうが……必要な時には必ず、彼らに手を差し伸べてあげてください。彼らは若すぎる。あの時の私たちよりもまだ歳若いのですから」
 『約束、するわ』
 もう自分にはこれ以上の時間は許されていない。だから最後に、今度は自分のためではない願いを託していきたいと思った。偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)。彼女以外に、それを託せる相手はいまい。
 真剣な眼差しでリオが頷いたことを確認してから、パリスはもう一度笑った。キラキラと光の粉がイリスの夜空に舞う。まどろむようにそれらを見つめながら、パリスはゆっくりとその瞳を閉じる。直後にはもう、彼の姿はどこにも存在しなくなっていた。空気に溶け込むと、パリスだった者は完全に消えてしまう。

 『――お休みなさい、パリス』

 遙か昔、親友であったシーナを看取る時にも向けた言葉を夜空に託して、リオは涙で潤む瞳を眩い月へと向けていた。



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