+ 追憶の救世主 +

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第5章「証」




2.

 「おはよう、ミレニィ」

 あの大事件の翌朝、学校に登校したミレニィに真っ先に声をかけてきたのは他でもない、赤髪の少年、ジャン・ストライフだった。その隣には、いつもどおり茶色髪を丁寧に編み上げたクレアの姿がある。二人とも控えめな様子でミレニィに視線を寄せてくる。昨日あれだけ彼らの前で泣き喚いたのだ、ミレニィの事を気遣ってくれているのだろう。だが、昨日学校でシズクを突き飛ばしたあの時よりは随分と心は軽かった。
 「おはよう」
 極力明るい声で返すと、意外だったのか、ジャンとクレアはお互いの顔を見合わせる。その姿がおかしくて、ミレニィは小さく吹き出していた。
 「思ったより元気そうだけど……疲れてない? 大丈夫?」
 「まぁ疲れてはいるけど、元気よ。こうして無事に生きてるし」
 「生きてるって……当たり前じゃないか。そう簡単に死なれたら困るよ」
 わしわしと頭を掻きながら、困惑気味に告げるジャンの姿に、思わず苦笑いが零れてしまう。確かに死んでしまったら意味がない。だが、生きていられる事が今日は一際特別の事のように感じられていた。昨日、何度も死にかけた経験からくるのは間違いない。
 心とは正反対で、身体は重くて疲労困憊だった。だが、身体のだるさの元凶はもちろん、ジャン達が想像するようなものではない。
 昨日一日で、一年分の気力と体力くらいは使った気がする。本当は、今日は一日ベッドの上で休んでいたい気分だったのだ。事実、そうしてもきっと誰にも文句は言われなかっただろう。ジャン達は昨日の廊下での騒ぎを目の当たりにしているし、魔法学校の教官は、昨夜の事件を少しばかり嘘の入った内容で聞かされている。だが、それでも学校に登校したのは、他でもないミレニィが居ても立っても居られなくなったからだった。
 「…………」
 教室内をきょろきょろと見回すも、ミレニィの探し人の姿は見当たらない。ほとんど毎日この教室で見た、焦げ茶色のポニーテールは、ミレニィの瞳に飛び込んでくる事はなかった。
 (……昨日の今日だし、来られるわけ無いよね)
 当たり前の事に多少落胆しつつ、ミレニィは短く息を吐く。
 昨日、水神の神子を呼びに夜の廊下を疾走した後、彼に抱えられてシズクがあの小部屋を出た所までは見た。しかし、その後に関してはほとんど説明される事もなく、こうして夜が明けてしまったのだ。
 おそらくシズクは、神子の癒しの術を受けたのだ。世界最高の呪術師の力を受けて、まさか死んだりしていないとは思うが、それでも彼女の安否は気になる。少なくとも自室に篭っているよりは、こうして学校に出てきたほうが何か情報が入るかもしれない。そう思い、気だるい体をおして登校した。だが、肝心のシズクが居ないのでは出てきたところで同じだったのかも知れない。
 (今日、放課後に部屋を訪ねてみようかしら)
 そう思うも、療養中の訪問は、あまりするべきでないのかも知れない。それに、王家の居住エリアに魔法学生が果たして簡単に入れるものかどうか。八方塞がりになり、ミレニィはまた小さく息を吐いて肩をすくめた。そんな時だ。

 「おはよう」

 聞き覚えのある声が、後方から聞こえた。
 「あぁ、おはよう」
 「おはよう、シズク」
 なんでもないいつもの挨拶を交わすジャンやクレアと違って、ミレニィの胸はその名を聞いて大音量で鼓動を打った。物凄い勢いで後方を振り返ったミレニィの顔は、この上なくマヌケなものだったのだろう。ぎょっとしたようなジャンとクレアの表情から、そんな事を読み取る。
 「――――」
 いつも通り、焦げ茶髪をポニーテールにして、イリス魔法学校のローブに身を包んだ状態でシズクはそこに居た。顔色も良いし、表情も明るい。こちらを見つめてくる例の珍しい色をした瞳は、昨夜のように虚ろではなかった。しっかりと生気を宿し、輝いている。
 「おはよ、ミレニィ」
けろっとした笑顔で挨拶されてしまうと、昨夜のあれは全て悪い夢だったのかも知れないとさえ思えた。だが、
 「おはよう……シズク」

 ――シズク。

 彼女の名前を呼ぶ事に、自分の心はもう何の抵抗も覚えない。それに……
 「…………」
 胸元に手を持っていくと、昨日まで確かにそにあった紅いクリスタルは存在していなかった。自分を惑わす甘い声も、もう聞こえる事は無い。リオの手によって昨夜、クリスタルは砂と化したのだ。昨日のあれは夢などではない。確かに現実として、ミレニィとシズクの間に起こった事なのだ。ぎゅっと口を引き結ぶと、考えを新たにする。
 「ねぇミレニィ。まだ始業まで時間あるよね」
 「え?」
 そんな時にシズクがなんとなしにそう言ってきたものだから、ミレニィは焦ってしまう。
 「ま、まあ少しくらいなら……」
 時間を慌てて確認してからそう返答するのが精一杯だった。ミレニィだけではない、シズクとミレニィの間にいるジャンとクレアなど、まるで珍しい大道芸でも見ているかと思うほどに、目を見開いて動きを停止させてしまっている。当たり前である。昨日の朝、あれだけミレニィから敵意をむき出しにされていたシズクが、ミレニィと普通の友人同士が交わすのと変わらない会話をし、ミレニィもそれに答えているという状況なのだから。
 しかしジャン達の様子を特に気にする事なく、シズクは満足そうによしとか何とか言う。そうして、あの不思議な青い瞳をぱっちりとミレニィに寄せて、こう言ったのだ。

 「ちょっとだけ話、いい?」






 場所は、歴代の成績優秀者のトロフィーが並ぶ、あの展示室だった。ミレニィにとっては学校の授業などでしか踏み入れた事が無い場所である。ミレニィでなくとも、この学校のほとんどの生徒にとってそういう位置づけの所だと思う。久々に足を踏み入れて、少しだけひんやりした空気に驚かされる。人通りの多い廊下とは空気が完全に違う。静かな、見守るような雰囲気が舞い降りていた。
 シズクにここまで連れて来られた訳だったが、ミレニィは別に不審には感じなかった。むしろ、相応しい場所だと思った。これから交わされる会話が、あまり人に聞かせて良いものになるとは思えなかったからだ。

 「昨日は、ありがとう」

 ミレニィの耳にシズクの声が飛び込んできたのは、ミレニィが展示室に並ぶ金のトロフィー達に視線を奪われていた時だった。穏やかな調子で告げられた感謝の言葉には、特別な重みはない。別に、感情が篭っていないとかそういう意味ではない。昨日あれだけの目に合っておきながら、シズクの声にはそれらを匂わせるような影はちっとも落ちていなかったという事だ。
 「……お礼を言うのなら筋違いよ。むしろ言わなくちゃいけないのは私の方なのだし」
 振り向いてシズクの顔を見ても、やはり彼女の表情はどこか飄々としていて、疲労を全く感じさせられなかった。
 「ありがとう、シズク」
 真剣な顔で言うと、シズクは少し面食らったようだった。目を丸くすると、照れくさそうにはにかむ。あまりお礼を言われるのが得意ではないのかも知れない。お人よしのティアミスト。昨日、リオが言っていた意味が少し分かった気がした。
 ミレニィとて、お礼を言うのは得意ではない。こんなにも真っ直ぐな言葉を誰かに投げかけたのは、ひょっとしたら生まれて初めての経験かも知れなかった。ドキドキして、照れくさい。でも、決して嫌な気持ちではなかった。
 「体調は大丈夫なの?」
 「ん? うん、それは大丈夫。セイラさんが看てくれたから」
 セイラさんとは、水神の神子、セイラーム・レムスエス氏の事だろう。そんな事が頭を過ぎる。シズクは、神子の名を愛称で呼ぶ事を許されているのだ。それだけではない。昨夜、リース王子達に助けを求めた際、リサ王女やアリシア姫までもが彼女の事を知っていた。しかも、知り合い等という関係ではない。あれは、確実に親しいと感じさせられる仲だ。
 シズク・サラキス。一体彼女は何者なのか――

 「……わたしね、本当にただの魔道士見習いなんだよ。ミレニィ」

 ミレニィの心を読んだかのシズクの発言に、心臓が跳ね上がった。思わず目を見張ると、焦げ茶髪の少女を見る。視線の先で彼女は、なんとも言えない苦笑いを浮かべていた。
 「魔力も低いし、成績もさっぱりでさ。オタニア魔法学校でも落ち零れの部類に入るような奴。普通に学校生活を送って、普通に卒業して。それなりの魔道士になった後、それなりの人生を送るような、どこにでも居る、特別でも何でもない人間だったんだよね」
 だけど。と、少しだけトーンを落とした声が、展示室に響く。
 「自分で望んでイリスピリアに来たのに、全く予想外の事に巻き込まれて……結果的に渦中の人になっちゃったみたい」
 声を上げて、から笑いを零すと、シズクはミレニィとは視線を外して展示室に並ぶトロフィー達に視線を注ぎ始めた。そうしてある一点で目を留めてふっと息を吐く。
 巻き込まれたって何に? と思ったが、訊かなかった。訊いてもきっと、シズクは教えてくれない。ミレニィなどが関わるには大きすぎる何かが、シズクの周りに有る気がした。おそらく今シズクが自分に告げている内容が、自分に告げられる精一杯の内容なのだろう。
 「シズク」
 彼女の横顔に、どこか苦しい色を認めて、ミレニィは声を上げた。
 水神の神子やイリスピリアの王族までもが彼女の裏についているのだ。シズクが一体何者なのか。気にならないと言えば嘘になる。だが、そう思ったすぐ後に、それらの事が実はとてもどうでも良い事だと気付いたのだ。
 「私は貴方を問い詰めたりなんてするつもり無いわよ」
 シズクの言うとおり、彼女はオタニア魔法学校から来た魔道士見習い。シズク・サラキス。それで良いではないか。
 「昨日の事は、誰にも言わない。もちろんジャンやクレアにも。これで、お互い貸し借りなしね」
 腰に手を当てた状態で、わざと勝気に言い放つ。その様子に、シズクも毒気を抜かれたようだった。ふっと笑みを零すと、ありがとうと小さく呟く。
 「……ミレニィには、何も言わずに出て行くって事はしたくなかったから」
 ぽつりと発せられた言葉に、ミレニィは胸が痛くなった。
 「どうやら私、ここには居られなくなったみたい。明日から、イリスを出ることになったの」
 心のどこかで予想されていた事ではあったが、実際言葉に出して言われると認めたくないという気持ちが沸き起こる。昨夜のあの大事件の後だ。シズクの身辺に何か変化が起こっても不思議ではない。あれは大きな転機だったに違いない。故に、シズクは旅立つのだろう。
 せっかく知り合えて、そうしてやっと仲良くなる事が出来たのに。皮肉にも、仲直りのきっかけとなった事件が原因で、シズクはここを去るのだという。
 ふとシズクの方に視線を寄せると、苦笑いのシズクの奥に、もう一人のシズクを見たような気がした。何か固い決意を胸に秘めた、揺るぎの無いシズクの姿を。
 「…………」
 何を決意したとか、そういう事はミレニィには全く分からない。ミレニィでなくとも、きっと誰にも分からないのだと思う。シズク自身が打ち明けない限りは。
 強いな、と思うと同時に、その強さがとても危うくて、不安を覚える。だからミレニィは、その不安を消し去るためにもあんな事を口走ったのだと思う。
 「……二つね」
 「え?」
 目を見開いて、不思議そうに首をかしげるシズクを強く見つめ返す。そしてびっと人差し指を立てた。
 「?」
 「貴方が学校を去っている間、ジャンとクレアを上手く誤魔化しておいてあげる事が一つ。それと――」
 気合を入れるように、ミレニィは息を大きく吸い込む。肺に満たされていく展示室の静かで神聖な空気は、ミレニィに勇気を与えてくれるような気がした。
 「シズク、貴方はね。ただの魔道士見習いなんかじゃないわよ。普通の魔道士見習いなんかよりずっと」

 (そう、ずっと)

 「呆れるくらいにお人よしで、周りが心配するくらいに優しい人間よ」
 「――――」
 視線の先で、シズクがなんとも言えないといった感じで表情を無くすのが分かった。
 「だから自信を持ちなさいよね。そんな取り繕ったような笑顔なんか貴方に似合わないんだから。笑うときはね、ちゃんと心の底から笑いなさいよね。こうして褒めてあげてるんだから。私が人を褒める事なんて、滅多に無い事なのよ?」
 わざとらしく頬を膨らませて言ってやると、シズクはたまらなくなったようだった。ぶっと吹き出すと、直後にはおかしそうに笑い出す。つられてミレニィも笑ってしまいそうになるが、それは今は駄目だ。笑いを堪えて変な顔になっているとは思うが、いかめしい顔らしきものを取り繕うと、
 「ほら笑顔料。これで二つ」
 中指をぴっと立てて手をピースサインの形にする。
 「二つ?」
 「私から貴方へ貸しが二つって事よ。借りは返さなきゃならないのよ? だからシズク、私に返しなさいよね。二つよ? またイリス魔法学校に戻ってきたら、絶対に」
 そう言葉を紡ぎながら、ミレニィは今度は堪えきれずに笑い出した。大笑いという訳ではない。どちらかというと、泣き笑いのような、ちょっと酸っぱい笑みだった。だが、それは目の前に居るシズクとて同じ事だ。彼女もまた泣き笑いのような顔で瞳を細めると、また小さい声で、ありがとうと、告げた。



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