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第5章「証」




4.

 イリス魔法学校での最後の一日を終え、ミレニィ達と別れを告げた後、シズクが向かったのは自室ではなく、セイラの部屋だった。他でもない、セイラ本人からの呼び出しのためだ。
 シズクとは違い、セイラやアリスは、昔からよくイリスピリアを訪れているため、彼ら専用の部屋がそれぞれあるらしい。それらはシズクの部屋より少しだけ奥まった位置の、守られるように作られた廊下の先に存在していた。数回扉の前まで来た事があるだけで、部屋の中まで入った事は無い。だが、いざ入ってみるとなんの事はない。内装はシズクに与えられた部屋と大して変わるものではなかった。部屋の中をちらりと視界に入れながら、シズクはそんな事を考える。
 「どうぞ、かけてください」
 セイラに促されて、素直に従う。ソファに腰掛けていると、アリスがお茶をいれて持って来てくれた。アリスのお茶を飲むのは久しぶりであったし、何より出されたお茶がオタニア名産のリコだった事がシズクを喜ばせた。気を利かせてくれたんだろうなと思う。柔らかい香りが鼻をくすぐると、自然と笑みが零れた。
 三人分のお茶を用意し終わると、セイラの隣にアリスは腰掛ける。そうして、少しだけ心配そうにシズクを覗き込んできた。
 「師匠から聞いたけど、シズク、今日学校に行ったって本当なの?」
 「うん。じっとしてるのも退屈だったし」
 リコを飲みつつのシズクの言葉に、アリスは目を丸くする。無茶な、という気持ちが彼女の表情からありありと見て取れた。
 「平気だよ。本当に体はもうなんともないし」
 そう言うが、アリスは納得してくれそうに無い。怪訝な顔になると、本当に大丈夫? ときいてくる。
 まぁ、それも無理の無い話だ。今朝、シズクが学校に行きたいと言い出した時も、セイラだけでなく城仕えの女達からも猛反対されたのだから。普通に考えて、昨日大量に吐血して危うく死にかけた人間を、喜んで学校に送り出す者は居ないだろう。シズクもアリスやセイラの立場だったら、絶対に反対していたと思う。
 だがシズクの体は、多少貧血気味なのを除けば、だるさすら残らないレベルで回復していた。右肩の傷もセイラの術によって全く傷痕が残っていない。むしろ、病み上がりだった昨日までの方が、今より体調不良だったくらいだ。
 それに、明日からイリスを出るのだ。魔法学校での最後の一日を過ごしておきたかったという気持ちも強かった。
 「まぁ、顔色は悪くないですし、問題はなさそうです」
 シズクをじいっと見つめた後で、セイラが穏やかに告げる。
 「明日からの出発で、決まりですね」
 「?」
 続いて出たセイラの言葉に、シズクは首をかしげてみせた。一体何の事? と言わんばかりの顔で、黒髪の好青年を見つめ続ける。昨日、シズクが狸寝入りしながら聞いていた会話は、彼らの中で、シズクは聞いていないという事になっている。ここは敢えて、演技する必要があると思ったのだ。
 「誤魔化さなくても結構ですよ。どうせ昨日の会話、起きて聞いていたんでしょう? シズクさん」
 だが、別段責めるつもりでもなさそうに、けろっとした調子でセイラは告げる。その言葉に、シズクの頭の中は一瞬真っ白になった。シズクよりも更に、彼の隣に座るアリスの方があからさまな反応を示す。彼女は、ますます目を真ん丸に見開くと、ぽかんと口を半開きにしたのだ。和やかに進んでいた会話は、ここにきて突然途切れる。
 「……やっぱりセイラさんには、敵わないなぁ」
 苦笑いを浮かべながらシズクがそう言ったのは、しばらくしてからの事だった。
 昨日の狸寝入りは、我ながら相当に出来が良かったと思ったのだが、アリスは騙せても、天下の水神の神子様までは騙せなかったらしい。一体いつばれたのだろう。と思うも、もうばれてしまった後なのだから今更聞いても何にもならない。誤魔化すように頭をかくと、セイラの方を見つめてみた。
 「今朝も少しだけ説明しましたし……貴方の今の状況や明日からの行程なども大体分かってると思うので、確認だけでよろしいですね?」
 シズクと目が合うと、彼は穏やかな笑みのまま問うてくる。了承の意味を込めて頷くと、昨日も聞いた明日からの予定の説明が開始されたのだった。
 昨日のセイラの言葉どおり――これは、今朝も軽く説明を受けていた事だが――シズクは今、全く魔法が使えない状況になっているらしい。呪術師の力を込めた印で、魔力の流れを堰き止めているのだ。一体どこに印があるのかと思い今朝確認してみたが、左の胸元にそれはあった。赤黒い色をした、複雑な模様の印だ。心臓は魔力の流れの大元とされており、心臓に近い場所に刻むほど、印の効果が強まるからだそうだ。犯罪を犯した魔道士などに使われる方法でもあるようで、一部では罪人の証ともされている。普段目立たない胸元に刻まれたもう一つの理由はそんな所らしい。
 印で封じ込められている事で、ひとまずシズクの魔力が暴走する危険は無くなったわけだが、所詮はその場しのぎの手段でしかない。そこで、この中途半端な状況をなんとかしてもらうために、魔道士の最高峰である東の森の魔女に会いに行くのだ。魔女の住む森は、イリスピリアの東部、ここから足と馬車を用いて大体3日ほどの行程らしい。ただし、これは順調に行けばの場合である。
 イリスピリア王も、シズクの旅立ちを了承したそうである。彼らも、シズクを今のような中途半端な状態にしておきたくないのだろう。案の定12大臣の大部分は、イリスピリア側からもシズクを護衛する者を出すように言い出したらしいが、セイラはそれをきっぱりと断った。安全面から考えたら護衛は多いほうが良いだろうが、彼らに借りを作ってしまう事は避けた方が良いと踏んだのだ。シズクもセイラがそう判断してくれた事に大いに安堵していた。アリスには悪いが、たとえ危険が増えたとしても、アリスと二人きりの旅の方が気が軽い。
 それらの事を淡々と告げられて、明日の早朝に出発する旨を告げられると、セイラの説明は終了したようだった。簡単に確認すると言っても、結構いろいろな内容を語られた気がする。先ほどアリスに淹れてもらったリコ茶は、既にカップの中で冷たくなってしまっていた。最後に何か質問は? と訪ねられるが、特に思い当たる節も無くて、シズクは首を振る。
 「…………」
 冷めたリコ茶を意味も無く睨みつけつつ、シズクは考えていた。本当に明日から、東へ向けて旅立つのだ、と。
 厄介な騒動が渦巻くイリスを出られる事は、正直嬉しかったが、せっかく知り合えたジャンやクレア。それに、やっと和解できたミレニィと別れるのは寂しい事だった。第一、例えイリスを離れたところで、騒動そのものがなくなるかというともちろんそうではない。魔女の元に行って、シズクの暴走しかけている魔力を何とかしてもらった暁には、再び向き合わなければいけない。要はその時が延期されただけなのだ。根本的な解決にはならない。
 「……さて。明日からの説明を済ませたので、本題に入りましょうか」
 ティーカップに集中していたシズクの視線は、セイラの一言で彼の方へ戻される。シズクの心中を悟っているのだろうか。セイラは、優しくもどこか切ない色の瞳をしていた。
 本題って? と首をかしげるシズクの目の前に、一枚の紙が差し出されたのは、直後の事だった。
 「?」
 テーブルの上に置かれた紙は、ただの紙ではない。古びたセピア色の写真である。その写真の中に、4人の男女が写っていた。一体誰なのだろうと、手にとって確認しようとした瞬間、大きく胸が跳ねた。
 一番左に写っているのは、穏やかな表情を浮かべた長身の少年。どことなくアリスのような、優しい雰囲気を宿す笑顔だった。
 一番右に立つ少年は、一目見ただけで誰なのかなんとなく分かってしまった。リースよりは少しだけ長髪で、大人びた雰囲気を纏っているけれど、容姿そのものはリースとほとんどそっくりだ。少し捻くれた感じの笑顔までよく似ている。そう、おそらくはイリスピリア王の若かりし頃。
 他の3人とは明らかに世代が違う、幼年とも言える男の子はセイラだろう。あどけなくて、まだ彼のトレードマークとも言える眼鏡もかけていないが、知性の宿る瞳は今のセイラと少しも変わらない。そして――
 「…………」
 幼いセイラの両肩に手を乗せて、包むように彼を抱いている少女。年齢は今のシズクとほとんど同じくらいだと思う。肩の辺りで切りそろえられた髪に、すうっと通った鼻筋。シズクのように童顔ではない。むしろ、美人と呼ばれる部類に入るくらいだ。けれどもシズクの面影はそこかしこに見て取る事が出来た。
 「キユウ・ティアミスト」
 記憶の中の母よりは幼いけれど、間違いなかった。金のトロフィーやアルバムの中の4行からしか知る事の出来なかった彼女の姿が、目の前に有る。
 「本当は、もっと早く話すべきだったんですよ。遅くなって申し訳ないです」
 苦笑いを零すと、セイラは本当に申し訳なさそうな瞳で、謝ってくれる。いろんな事がありすぎて、すっかり忘れてしまっていたが、ジュリアーノを発つ前日の晩、セイラとした約束を思い出してハッとなった。イリスピリアに着いたら、シズクの母について語って聞かせてくれるという約束を交わしたのだ。
 セイラが今日シズクを自室に呼んだのは、明日からの行程を知らせるためというより、シズクの母の事について話すためだったのだろう。
 「一番右に写っているのがレイ。リースの父上。現イリスピリア王です。左の少年がセルト。アリスの叔父に当たる人で、現エラリア王です。お分かりでしょうけど真ん中の小さいのが僕。そして、僕の上に写る少女がキユウ。貴方のお母様です」
 20年以上も昔、イリスピリア城での写真らしい。当時はまだ、先代の水神の神子が存命で、セイラは次期神子という立場。レイやセルトもそれぞれの国の王子という立場だった。今より自由が利く身であったようで、こうしてイリスに集合する事も比較的容易だったそうである。元々仲の良かった男3人組にキユウが加わったのは、彼女がイリス魔法学校の特待生として編入してきた頃からだという。それまで男3人の友情だったものが、紅一点の彼女の登場によって一気に華やかさが増したとはセイラの言。
 実際、母は美人だった。童顔のシズクなどとは大違いで、大人っぽくて、知的な感じがする。異性にも、さぞかしもてたのだろうと思う。
 「そそっかしくて、ドジなところはありましたけど。それも含めて、魅力的な人でしたね。レイやセルトまでもが熱を上げたくらいですから……と、これは余談ですかね」
 ぽかんとするシズクの顔を可笑しそうに見つめてから、セイラはまるで悪戯っ子のような笑みを浮かべる。ちらりと彼の隣に座るアリスの方も見てみたが、彼女もまた何とも言えないといった表情を浮かべていた。
 「ティアミストの名に恥じない、立派な魔道士でもありました。初めて会ったのは、キユウが17の時ですが、その時既に歴代最高と呼ばれるくらいに莫大な魔力を備え、魔道の知識にしても、大人でも舌を巻く程でした。彼女がイリスの結界を張り直した夜はいつも、それは美しい光がたくさん降った」
 金のトロフィーを受けるくらいだ。非常に優秀な人であった事は予想された事だった。だが、実際にキユウを知るセイラの口から紡がれた言葉は、何よりの重みを持ってシズクに伝えられる。母の事を話しているセイラは、いつもシズク達と一緒に居る、最年長者としての彼ではなくて、写真の中に写っている幼年の頃のセイラのような気がした。
 「いい時代だったと思いますよ。当時のイリスピリア王はティアミスト擁護派で、当時の12大臣のほとんども彼らに対して寛容な目を向けていた。キユウが城仕えの間イリス魔法学校に編入出来たのも、優秀者に贈られるトロフィーを受ける事が出来たのも、それ故です」
 あのままの関係が続いていたら、ティアミスト家とイリスピリア王家との隔たりは、時と共に薄れていったかもしれない。切なそうにセイラがそう告げたのが印象的だった。遠い昔に二つに分かれて以来、協力はするが理解はし合わないという関係が続いていた両家。時を経て、ようやく明るい兆しが見えてきた矢先に、ティアミストが滅んでしまったのだ。12年前、キユウ・ティアミストが死んで、シズクがシズクになったあの日に、全てが変わってしまった。
 「…………」
 胸が静かに痛んだ。もう戻らない過去に、確かに昔存在していた温かい空気に思いを寄せる。シズク自身はその場に存在した事すらないのに、それでも切なさが押し寄せてくる。写真にもう一度視線を戻すと、彼ら4人の抜群の笑顔が、かえって苦しい。
 レイ・ラグエイジ――現イリスピリア王も、キユウ・ティアミストの隣では心からの笑みを浮かべている。シズクにはこんな表情、決して向ける事は無かった。こんな表情をする事すら知らなかった。
 「その写真は貴方に差し上げます」
 「え?」
 セイラの言葉に、シズクは目を丸くする。自分にとって母の唯一の写真だ。貰える事は嬉しかった。しかし、レムサリアからの旅路にこうして持参する程である。これはセイラにとっても大切なものであるはずなのだ。
 「僕が持っているより、貴方が持っている方が良い。キユウの写真は貴方の手元には残っていないでしょうから」
 漆黒の瞳を細めて、セイラは穏やかに微笑んだ。そうは言われてもやはり気がひけてしまう。本当に貰っても良いのかどうか。迷うシズクにセイラは、自身の胸に手を当ててこう言ったのだ。
 「彼女との思い出は、この中にたくさん詰まっていますから」
 その真っ直ぐな言葉に、受け取りを辞退する方が失礼な気がして、最終的にシズクは写真を貰い受けるのだった。



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