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第5章「証」




5.

 夕飯時から随分過ぎて、食堂付近の廊下にも生徒達の姿がほとんど見受けられなくなった頃、イリスピリア城にもようやく静かな夜がやって来ていた。窓から覗く夜空は、昨日の眩しいほどの月夜とは打って変わっての、生憎の曇り空。故に夜空に光る星は、数えるばかりしかなかった。銀の光を撒く月も分厚い雲に覆われて、窓から差し込む光も頼りない気がする。だから逆に、等間隔に廊下を照らすオレンジのランプが頼もしい。
 リースはゆっくりと、夜の廊下を歩いていた。夜と言っても、まだ皆が寝静まるには若干早い。それでも、こんな時間に廊下を歩く者の姿は、極少数だった。どこかへ行く用事でも無ければ、自室に下がっているはずである。

 「……行くの?」

 そんな静かな廊下に、落ち着いた声が舞い込む。リースがここを通ると予想していたのだろうか。彼女は廊下の角になる付近で、待ち伏せしていたようだった。両手を後ろに組んで、ゆるりと姿を現すと、真正面からリースと向き合う。姉である、リサ・ラグエイジだ。しかし、いつもの飄々とした表情は今は無い。珍しく真剣な色を瞳に宿していた。
 あまりのタイミングの良さに、リースは苦笑いを零して肩をすくめる。出来れば今回は誰にも会わずに居たかったからだ。息を大きく一つ、吐き出す。
 「……その様子じゃ、あんたにしては真剣に考え込んだみたいね。で? 答えは出たわけ?」
 リースの顔を覗き込むようにして、リサが問うてきた。猪突猛進でイリスピリア王家きっての考えなしであるあんたには言われたくない。とは思ったが、反論するとかえって話がややこしくなるだろうと思い、余計な事は何も言わないでおく。
 「一晩考えてみた。でもまぁ、そんなに短い時間で答えなんて出るわけないよな」
 もう一度肩をすくめると、静かにリースは告げた。
 昨日の夜、セイラに言われて、リースなりに考えたのだ。イリスピリアの王子としてか、シズクの仲間としてか。果たしてどちらの立場で居るのが正しいのだろう、と。けれども、最終的にこれが正しいといった明確な答えは出なかった。正解なんてきっと、無いのだと思う。どれを選んでも正しくて、そして間違っているのだろう。
 「でも行くんでしょう? あんたが行こうとする理由は、何なのかしら?」
 「そんな大げさな理由なんかないよ。けど……」
 「けど?」
 真剣な表情のまま、首をかしげる姉の姿を真正面に据えた。彼女の事だ、リースの考えている事などだいたい分かってしまっているのだろう。それでも、リースの口から直接言わねばならない。そうでなければ意味が無い。そう、自分は――
 「立場とか、未来とか、そんな大げさな物を中心に考えたって、自分の感情と折り合いがつく訳ないよな。結局どう動いても厳しい状況になるんだったら、自分にとって一番後悔しない道を選ぼうって考えた。そうしたら……出て来た道は一つしかなかったよ」
 すなわち、シズクを助けるために力になりたいと。そうしなければ、絶対に自分はこの先後悔するのだと。
 「自分の立場でそれをする事が、どういう事か理解してる?」
 「してるよ。これでもな」
 「じゃあ、それを全部踏まえたとして、シズクちゃんの選ぶ道によっては物凄く大変な事になったとしても、あんたの気持ちがそこに向いた原因は、何なのかしら?」
 リサの言葉を受けて、リースはしばしの間黙り込む。
 姉とのやり取りは、会話というより、初めから取り決められた問答を交わしているようなものだった。淡々としたリサの言葉には、質問ではなく確認といった意味合いを乗せる方がしっくりくる。
 「別に俺がどうとかそういうんじゃねーよ。ただ、あいつを信じている。……それだけだよ」
 暫しの沈黙の後、リースは最後だけ半分嘘をついた。だが、残りの半分は本心からの言葉だ。
 救世主だティアミストだとかそういうのではなくて、リースは、シズク・サラキスという人間を信じようと思ったのだ。誰かが無理矢理歩ませた道ではなく、彼女自身が決めて進んでいく道の先にこそ、最良の結果が待っていると信じたい。

 「そう……それを聞いて安心したわ」

 リサが真剣な表情を崩して、満面の笑みを浮かべたのと、夜の廊下の空気が急激に動いたのとはほぼ同時だった。ほとんど本能的な判断でリースは動くと、直後に鋭い音が響く。両腕に重たい負荷がかかったのも同時だった。
 「――ったくアンタは……正気か!?」
 そのままの体勢で、今は目と鼻の先まで迫っている姉に向けて、呆れた声を上げる。不適な笑みはリサの顔に完全に戻ってきていた。その手に握られるのは一振りの真剣であり、リースが今手にしているものとほとんど同じデザインのものである。二本の真剣はぎりぎりと火花を散らしそうな均衡を保って互いの刀身を合わせていた。
 突然リサが抜き身の剣を繰り出してきたところを、リースが自分の剣で受け止めたのだ。隙の無い動きはさすがというべきだろうが、褒められるような行動でない事はリースでなくても分かる。ネイラスがこの場に居たら、絶叫ものだ。
 「姉に向かってアンタは無いでしょ。私はいつでも正気よ」
 「ほぉ、何の変哲も無い廊下で、弟に向かって本気で切りかかる人間が、正気なのかよ」
 半眼で睨みつけるも、ほほほっとわざとらしい笑みではぐらかされるだけだった。
 稽古場や試合でもない場所で、しかも真剣で、リサは切りかかってきたのだ。この国の王女がして良い事ではない。いや、王女でなくとも、国立学校の生徒にしたって、こんな事を白昼堂々やらかしてみろ。下手をすれば停学以上の罰則はくらうだろうし、相手を負傷させたりなどすれば、最悪退学である。更に言うと、表情はけろりとしているが、動きと速さは、本気だった。ありったけの殺意を乗せて、リサはリースへその剣を振り下ろしたのだ。リースが気付かなかったら、一体どうするつもりだったのだ。……まぁ彼女とて、リースが気付いて受け止めると思ったから、こんな行動に出たのだろうが。相変わらず、無茶苦茶だ。
 暫しの睨み合いの後、先に剣を引いたのはリサの方だった。満足そうに微笑むと、彼女は右手だけで剣を持つ。
 「構えなさいな、リース。イリスピリア流の送り出しをしてあげる。決めるときには決めなきゃ」
 言って、右手の剣をリースの方へ向けて構える。
 「…………」
 姉のしようとしている事を悟って、一瞬だけ呆れ顔になる。しかし、今回は彼女の希望を聞く事にした。少しだけ照れくさい気持ちがあったが、彼もまた右手で剣を構えると、差し出されたリサの剣と自身のそれを緩く交差させたのだ。オレンジ色の光を反射して、2本の刀身はきらりと輝く。
 「リサ・エルタナ・ラグエイジ・イリスピリアから、親愛なる弟リースへ。その旅路に、光の加護がある事を祈って」
 それは大昔から有る、イリスピリアの送り出しの言葉と儀式だ。大昔からあると言っても、現在ではその本来の意味はほとんど失われていて、ただの形式しか残っていない。書物や授業などで見聞きして、強制的に何度かやらされた事があるだけで、あまり好きなものではなかった。だが、今はそれも悪くないと思う。
 軽く剣を鳴らすと、リースは姉の顔を真正面から見つめた。
 「リース・アーリン・ラグエイジ・イリスピリアから、親愛なる姉リサへ。帰郷の先に、闇夜の安息がある事を誓って」
 そう告げ、もう一度鳴らしてから、お互い剣を引いて収める。たったそれだけの事。だが、目の前の姉は満足そうな笑みを浮かべていた。あまり認めたくは無いが……おそらくリース自身も、似たような表情をしているのだと思う。
 「唯一の不満を挙げるとすると、私も行きたいのにって事よね。先を越されたって感じ」
 「あんたを城の外に放ってみろ。何をしでかすか分からないだろ?」
 リースの言葉に、しっつれいねー! と頬を膨らませて憤慨するリサだったが、本気で怒っている訳ではなかった。リサ自身、何故自分が半ば幽閉のように城の中に押し込められるか、理解しているからだ。愛娘を心配して、極力外に出さないという面ももちろんある。妻をあんな形で失った手前、娘までもそうなる事をあの父は恐れているのだ。だがそれ以上に、このじゃじゃ馬娘を外界に放つと、何をしでかすか全く分からない。そういう部分を危惧しての事だ。
 怒りのポーズで数分ぶーぶー言っていたが、やがて気が済んだのだろう。表情を崩すと、姉はリースと再び向き合う。
 「いってらっしゃい。お父様は私と違って手ごわいわよ。心してかかるようにね」
 下手をすれば切り殺されそうであった分、この姉の方が父などよりよっぽど手ごわいとは思うが、基本彼女はシズクを気に入っている。シズクを真っ向から否定している父を説得するよりは楽なのかもしれない。
 「同盟員の名に恥じない行動を」
 「同盟?」
 首をかしげて訪ねるリースに、リサは今度はにやりとした笑みに変わると、こう言うのだった。
 「忘れたとは言わせないわよ? シズクちゃんを助ける同盟よ!!」
 あぁそう言えば、そんな恥ずかしいネーミングの同盟があったっけかな。とリースが苦笑いを零したのは、その直後の事だ。



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