+ 追憶の救世主 +

 第6章(4)へ / 戻る / 第7章(2)へ


第7章「翠瞳の少女」




1.

 『東の森の魔女』と呼ばれるように、魔女の住む森は、イリスピリアの最も東に位置していた。リースに見せてもらった地図によると、リストンと言う町に面した森であるため、リストンの森。という名前が正式らしい。徒歩と馬車を駆使して3日。出発当初、セイラが予測していた所要期間は旅の2日目である現在のところ、順調に消化されていた。明日の夕刻には、リストンに到着出来るだろう。
 旅の大部分には、乗り合い馬車が使われた。イリスピリアは馬車交通が特に発展しているらしい。大都市イリスからは、日に何便ものペースでイリスピリア中を繋ぐ馬車が出ているのだ。
 路銀は高くつくし、若干回り道にもなるが、それほど長距離にならなければ馬の足の方が速い。街道を用いるため危険はそれほど多くないし、体調が本調子ではないシズクにはこちらの方が良いだろうとの判断だった。しかし、実はシズク、馬車には数える程しか乗った事がない。そして案の定、断続的に続く不安定な揺れに慣れず、酔ってしまったのだった。歩くよりもむしろ、こちらの方が体力を奪われてしまった気がする。

 「始発から乗ってたようだけど、お嬢さんは、イリスの出身?」

 車窓を流れていく夕刻の景色を見つめていたシズクの視線を、車内へと戻したのは中年の男の声だった。二日目もほとんど終了という頃になっても相変わらず馬車の感覚に慣れず、シズクは未だに気分が悪かった。しかし、恰幅の良い男の笑顔に頬が緩んだのは確かだ。今日停まった町で乗り込んできた人だ。見るからに陽気そうな感じである。
 「いや、わたしはオタニア国です。この子はそうですけど」
 「お兄さんがそうだったのか。確かに、イリスピリア国民の典型的な色をしているね」
 隣に座るリースを指差しつつのシズクの言葉に、男は納得といった風で頷く。
 「お兄さんの隣の美人さんは?」
 「私はエラリア国です」
 シズクとは反対方向の車窓へ向けていた視線を戻してアリス。
 「オタニアにイリスピリアにエラリアか。また随分バラバラな組み合わせだね。冒険者とか?」
 「まぁ、そんなところ。で? おっさんは?」
 実際のところ冒険者ではないのだが、この年頃で旅の途中となればそういう風に思われてもおかしくないし、こちらとしてもその方が都合が良いだろう。曖昧に返事を返すと、リースは頭の後ろで両腕を組んだ。どうでもいいが、腕を組まれるとただでさえ狭い車内が更に狭くなるのでやめて欲しいと思う。乗り合い馬車はそれほど大きくない。荷物の事も考えると人が8人、乗れるか乗れないかの瀬戸際であるのだ。夕方に乗り込んできた目の前の男性は荷物が多かった事もあり、今現在馬車の中はほぼ満員に近かった。
 「おや、こりゃ失礼したね。俺はセリーズ国の出だけどね。商業を営む傍らこうしてあちこち渡り歩いてる者だよ」
 礼を失した事に少しだけ気まずさがあるのか、頭を一掻きしてから男は自己紹介をする。新しい商談があるとかで、終着町であるリストンに向かっているのだそうだ。なるほど、商人であればあの荷物の多さも納得だった。だが、シズクの関心はもっと別の方へと傾いている。
 「セリーズ?」
 「そ、大陸の東の。昔はのどかな田舎って風情だったけど、最近じゃあ風神の神子が若くして突然亡くなられるわ後継者がなかなか見つからずにてんやわんやするわで。ちょっと荒れてるね」
 東のセリーズといえば、風神(セレス)が風を起こした地。風神の神殿がある場所としてとても有名な国である。数年前に亡くなった風神の神子は、エルフ族の出だった。森の中にエルフの国がいくつか存在するのも、東部地方の特徴である。他の地域に比べてエルフの数が多いのだ。
 「おじさんはエルフを見たことあります?」
 「おぉ、あるよ。といっても昔の話だけど。そういえば、十数年くらい前にお国騒動があったとかで、あまり見なくなったね」
 物騒な世の中になってきたものだよ。と商人の男性は肩をすくめる。大陸の中部、正確にはオタニア近辺しか知らないシズクにとって、エルフ族は非常に珍しい存在であった。精霊魔法の祖とされる、気高く美しい種族。外界との関わりを好まない彼らは大陸の東部からはよっぽどでない限り出ない。唯一エルフがたくさん居る東部でも、近頃あまり見なくなったというのだから、本当に稀有な存在に近づいてしまったという事なのだろう。
 「まぁ、不穏な空気が漂うのは東に限った話じゃないね。ここのところイリスピリア国内でも物騒な空気が漂い始めてるようだし」
 「え?」
 「あれ、知らないのかい? ここ数年……特に今年に入ってからかな。世界中で魔物の数が増え始めたんだよ。治安が良いイリスピリア国内でも、魔物による被害が激増しているらしいよ」
 目を丸くして驚くシズクとは違って、彼女の隣に座るリースは難しい顔をして頷いていた。どうやら知っていたらしい。
 「気候の変動も無いし、原因は不明だけど。魔物が増えるっていうのは、大昔から不穏な出来事の前触れって言われているから……各国の指導者もピリピリしてきてるって話だぞ。ってか、オタニアでもこういう話は割と有名だと思うけど。お前、少しは世界情勢とかに関心持てよ」
 「う、うるさいわね!」
 呆れのこもった目線を送られて、シズクはしかめ面で反論する。……まぁ、リースの意見は間違ってはいないのだが。そういえば、ナーリアやカルナ校長が、近頃物騒だから町の外には出ないようにと生徒達に念をおしていた姿を思い出す。あれは、こういう事だったのか。
 「安全が売りの乗り合い馬車も、ここの所不振らしいわね」
 リースの隣で、アリスも深刻な面持ちで述べる。
 魔物の数が増えて、縄張り争いが激化した結果、街道近くまで出てきてしまう魔物の数も増えているのだそうだ。乗り合い馬車が魔物とトラブルになった件数も、増加傾向。まぁ、旅自体が危険を伴うものなので、旅人にもある程度の覚悟はあるだろうが、魔物に遭遇しないに越した事はない。
 「俺なんかは、ほとんど護身術を持たないから、乗合馬車だけが頼りなんだけどね――っと」
 ガクンッと、突然馬車が前進をやめて停止したのは、そんな時だった。和やかに交わされていた会話はこれによって取りやめになってしまう。シズク達以外の乗客も同じように黙り込んだようで、車内は水を打ったように静まり返った。嫌な雰囲気だ。
 「……何があったのかな?」
 「やれやれ、嫌な噂はするもんじゃないね」
 不安そうなシズクの言葉に、商人の男は苦笑いで述べる。シズクのその言葉が皮切りだったようで、一時的に口を閉じていた乗客たちはこそこそと囁くような会話を開始していた。ややあって御者台との間の布を持ち上げて、細身の男が顔を覗かせる。馬車を操っている御者である事は間違いがない。
 「お客さんの中に、魔避けの結界を張れる魔道士か呪術師はいますかね? あと……魔物相手に戦える人も」
 緊張感のある御者の言葉に、嫌な予感が当たったのだという事を思い知らされた。
 曰く、魔物の気配が強いのだそうだ。今の所襲い掛かってくるかどうかは分からないが、向こうを刺激する訳にもいかず、馬を止めたとの事。馬車には御者の他に、戦の心得がある者が用心棒として乗っているが、念のために客にも備えておいて貰おうというのだ。御者の言葉に、アリスが呪術師であると名乗り出て、リースを含む3人が手を挙げた。シズクは手を挙げる事が出来なかった。魔法はもちろん使えないし、棒はあるが、魔物相手に通用するか怪しいものだったからだ。それでも、リース達が馬車から出ようと動き出した時に、棒を手にして立ち上がろうとした。
 「……シズクはここに居ろ」
 厳しい顔つきでリースに言われて、再び座り込む結果に終わってしまったのだけれども。






 日が沈み始めた事もあって、辺りは少しずつ薄暗さを増していた。街道の周囲は林になっており、恐らく魔物達は木々の陰に隠れて、こちらの様子を伺っているのだろうとの事だった。とすると、知能の低い魔物ではないという事か。
 アリスは御者に頼まれて、馬車に魔よけの術式を張っている最中だ。呪術を行使している彼女の様子を確認した後で、リースは自分の側で同じように周囲に警戒している3人の姿を視界に入れた。
 一人は乗り合い馬車に乗っている用心棒の戦士。体格の良い大男である。そして大男の隣に居るのは、真っ黒なフードを目深に被った長身の人物。顔が見えないので性別が分からないが、身長と体格からして男性だろうなと思う。三人目はリースより数歳年上くらいの、若い剣士だった。
 「まったくついてないよな。高い路銀を払ってこれかよ」
 悪態をついたのはその若い剣士だ。釣り上がった灰色の瞳を不機嫌そうな色に染めて、彼はしかめ面になる。
 「お客にこういう事をさせるのは不本意だが、もうすぐ日の入りだ。更なる魔物を集めてしまう前に、近場の町まで辿り着きたい。ご協力願う。俺の名前はヴィンツだ」
 用心棒の男の言葉に、若い剣士はへいへい。と気だるそうに言い、自らも名乗る。
 「俺はフェイね。どうぞよろしく。で、そこのフードの人は?」
 「……ルダだ」
 抑揚なく紡がれた声は、男性のものだった。どうやらリースの予想は外れていなかったらしい。
 それきり何も言わないルダに、愛想悪いなぁと零してから、フェイはリースの方を向く。あまり好意的ではない視線だった。というかこの男、そもそも人相がよろしくない。
 「で? そっちのお育ちの良さそうなお坊ちゃんは?」
 「リースだよ」
 人相どころか、どうやら性格も悪いようだ。しかめっ面で素っ気無く返してから、リースはフェイから視線を外す。無愛想が二人か。と皮肉を零す声が耳に入ったが、気にしない事にする。
 オーンと、一際甲高い咆哮が周囲に響いたのは、丁度その時だった。声からして狼の類だろうかと思う。だとしたら少し厄介だ。奴らは群れになって襲い掛かってくる。
 「俺とルダは馬車の右側と前方を。フェイとリースは左側と後方に回ってくれ」
 用心棒のヴィンツは早口で指示を下すと、自分の持ち場へと走っていく。フェイと組むのは正直気が進まなかったが、どうこう言っている場合ではないだろう。小さくため息をついてから、リースは馬車の左側へ走り出していた。






 「……やれやれ。団体でおでましみたいだぞ」
 剣を抜きながらのフェイの言葉通り、左側の木の陰からは、いくつもの目がこちらを睨みつけていた。地を這うるような低い唸り声も聞こえる。――銀狼だ。
 チッと舌打ちしてからリースも剣を抜く。一匹辺りは大した強さを持たないが、数が多い。
 (大物一匹の方が、今は都合がいいんだけどな)
 長期戦で体力を削られたら、果たしてこの右腕はもってくれるだろうか。一瞬不安が頭に過ぎったが、飛び掛ってきた一匹の姿に思考は奪われる。
 「――――」
 両腕に鈍い衝撃が伝わると同時に、キャンっと悲鳴を上げて狼が地面に転がった。他でもない、リースが剣で斬り付けたのだ。致命傷だったらしく、びくびくと痙攣してから狼は絶命する。
 「へぇ。……案外やるんだ」
 軽口ではあったが、本心らしい。意外そうに目を見開くフェイもまた、飛び掛ってきた狼を切り捨てたところだった。へらへらしつつも、フェイの方こそ並の使い手ではなさそうである。口だけの男かとも思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
 先発隊があっさり倒された事に、後方の銀狼たちは怯みを見せたようだった。しかし、それでも空腹の方が勝るのだろう。鋭い咆哮を挙げてから群れを成して一気に襲い掛かってくる。二匹目を上から剣を振り下ろして倒し、その流れのままに続く三匹目を切り付ける。
 「…………っ」
 ピリッと、電流でも走り抜けるように右腕が痛んだのは三匹目に止めをさした直後だった。右腕から伝わった痛みは、そのまま神経を駆け上って頭の方までやって来る。やっぱりな、と胸の中で悪態を零しつつも、注意は飛び掛る準備をしている四匹目から離さずに居た。
 「どうした? 息が上がってるけど」
 「別に、何でもない」
 返り血を手で拭いながら、自分より後方で戦うフェイにとりあえず返事をしておく。そうして飛び掛ってきた四匹目に取り掛かる。右手の疼きが若干増したが、今は気にしている場合ではない。どぉんと、馬車の反対側から赤い光と爆音が響いたのはそんな時だ。
 「あちらさんも、派手にやっているようで」
 ぎゃうんという狼の断末魔と、フェイの面白がるような言葉はほとんど同時だった。火柱の立った方角を視界に入れて、リースも眉をしかめる。今のは確実に魔法だ。用心棒のヴィンツは魔法など使いそうにないから、フードの男――ルダが放ったものだろうか。
 「あいつの腰に下がってた剣はお飾りだった訳か?」
 「さぁ、魔法剣士って線もあるけどな」
 「まぁ今はどうでもいい話か。こっちを片付けないとな。ってことで、足手まといになるなよ、リース」
 「そっちこそな!」
 軽い嫌味の応酬とは裏腹に、戦いはというと混戦に発展していた。なにせ数が多い。リースとフェイとで、今の所十匹以上は倒したと思うが、まだ居るらしい。
 飛び掛ってくる狼を切り捨てる度に、リースの背中を嫌な汗が伝っていくのが分かった。疲労からくるものではない。確実に原因は一つだ。
 「くっ!」
 渋い顔で何匹目かになる狼を切り捨ててから、とうとうリースは右腕を反対の手で押さえつける。一際強い痛みが全身を走ったのだ。剣を取り落とさなかったのがせめてもの救いだろうか。
 どくどくと波打つ右腕を左手で無理矢理押さえつけ、続く狼を横に薙いで切り飛ばす。しかし、直後に目の前の景色がぐにゃりと曲がった。意識がどこかに持っていかれそうな感覚がするが、それだけはなんとしても避けなければいけない。必死で逃れようとするも、そちらに集中しすぎて狼の存在を忘れかけていた。対応が若干遅れて、一匹に飛び掛られてしまう。慌てて喉笛をつくが、狼が絶命したか確認する間もなく、目の前が真っ白に染まっていた。
 (しまっ――)
 ザンッっと、鋭く空気が戦慄いた音で、沈みかけたリースの意識は現実に舞い戻っていた。突然鮮明になった景色に驚くが、襲い掛かってくる狼はそこにはもう居ない。尻餅をついて座り込むリースの傍らに、白目を向いて絶命する狼の姿があるだけだった。他でもない。フェイが倒してくれたのだ。
 「……お前、なーんかややこしいもん抱えてる?」
 胡散臭そうな顔で、フェイは呆気に取られていたリースを覗き込んでくる。先ほどの戦いの様子で、彼はリースの何かを見抜いたらしかった。戦いながら、なんて洞察力だと感心してしまう。
 「…………」
 「ま、俺には関係のない話だけどね」
 「……助かったよ」
 どういたしまして。と言ってから、フェイは刃にべっとりと付着した血を、剣を振る事で吹き飛ばす。どうやら彼が倒した狼が、最後の一匹だったようだ。起き上がってリースも彼に倣うと、反対側からこちらを呼びかける声がした。向こうでも戦いは終わったらしい。



第6章(4)へ / 戻る / 第7章(2)へ
** Copyright (c) takako. All rights reserved. **