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第7章「翠瞳の少女」




3.

 「これが? バルガスさんに貰ったっていう剣?」

 視線を、壁に立てかけられた黒刀の剣へ向けて、アリスは言った。両手は、きびきびと治療のために動き続ける。
 場所は、リースの寝室であった。昨夜、とりあえずの傷の処置は済ませたが、唯一気になる点が残ったのでこうしてもう一度診ているのだ。
 「光は闇で制する、か。上手く言ったものね」
 「あのおっさんらしいだろ? ――っ!」
 治療するアリスの手が、リースの右腕に延びた途端、リースは苦悶の表情を浮かべる。触れただけでも痛むのだ。実際、見た目からして若干腫れているし、触れた手にかなりの熱を感じる。どくどくと波打つ振動も伝わってきた。
 「……まぁ、確かに普通に剣を振るえるくらいには効果あるようだけど。銀狼と戦っただけでコレとは、凄く役に立つって程じゃないみたいね」
 「まぁな」
 それはバルガスにも忠告された。とリースは零す。
 痛がるリースを少しだけ気遣いながらも、アリスは彼の右腕に冷やしたタオルを押し付けた。アリスが気にしていたのは、彼の右腕の事だった。そして案の定、あまり良くない状態である事が見て取れる。戦いで出来た傷などはほんの少しだった。それらは時間を要せずに癒しの術や薬で治す事が出来る。だが、これだけは別だ。この右腕だけはアリスの力ではどうにもならない。大した治療効果は発揮できないだろうが、冷やすのが唯一出来る手段だ。みるみるうちに温かくなるタオルの温度を感じて、アリスはため息を零していた。
 「本当に良かったの? あの剣を手放して」
 バケツの中に再びタオルを浸しつつ、アリスは問いただすような視線をリースに送る。あの剣とは他でもない、それまでリースが愛用していた王家の剣――『封印の剣』の事である。
 「……他に方法が無かっただろ」
 「何が? 証を立てるためとかそういうのが?」
 違うわよね。とアリスはきつく言い捨てる。
 「証を立てるだけなら、もっと他にもいろいろとあったはずよ。あの剣が唯一のものではなかったはずだわ」
 「…………」
 「他でもない、リースが、あの剣を手放す事を選んだのでしょう? でも、それで本当に良かったの?」
 冷やし終えたタオルをもう一度リースの右腕に押し付けてから告げる。またあっという間にタオルは温もりを帯びるが、今度はしばらく押し付けたままにしておいた。宿屋の一室に奇妙な沈黙が訪れる。
 「……シズクには、このまま黙っているつもり?」
 小さく零した台詞に、リースはあからさまな反応を見せた。びくりと、身体を強張らせたのだから。
 旅立ちの朝、リースがあの剣を手放した事に、少しの驚きも見せなかったのはリサとシズクの二人だけだった。リサはきっと事前に知っていたか、どこかで予想していたかのどちらかだろう。だが、シズクは違う。彼女は知らないのだ。リースの体の事を。あの剣を手放す事の意味を。
 「守るために来たんでしょう? こんな状態のままじゃ、次に何かあった時、それすら出来なくなるわよ」






 街道が閉鎖されて、物々しい雰囲気に包まれてはいたが、シュシュの街角は、それなりに賑わいを見せていた。大通りには出店が並び、呼び込みの張りのある声が響き渡る。それらを横目にシズクは更に直進する。抜けた先には、町の出入り口に当たる門があった。大きな街道に面したそこに、小さな人だかりが出来ている。よく見ると、人だかりを構成している者のほとんどが、昨晩この場で見かけた旅人達である事が分かる。

 「あーやっぱり駄目みたいだな」

 シズクの後ろから、飄々とした声がかかる。振り返って見てみるとそこには予想通りの人物が居る。
 「フェイさん」
 「さんは余計。フェイでいいって。あと、敬語もいらねーからな。堅苦しいし」
 照れくさそうに呟いたのは旅の冒険者であるフェイだ。彼の言葉に、シズクは笑いながら了承の言葉を述べる。軽口だが、悪い人ではない。それが、シズクが彼に対して抱いている印象だった。
 「にしても、面倒な事になったな」
 灰色頭をがりがり掻きながらのフェイの言葉に、シズクも彼の視線の先を追う。街道の両面にはイリスピリア国軍によるバリケードが張られており、厳つい顔をした兵士が数人仁王立ちになっている。人だかりは丁度そこで出来ていた。旅人達が、なんとか通れないだろうかと兵士と交渉しているのだ。上位の兵士らしき中年の男が対応にあたっている。残念ながら、旅人達の願いは聞き入れてもらえなさそうである。難しい表情の兵士と、落胆した様子の旅人達を交互に見て、シズクは思った。
 「安全のためには仕方の無い事かも知れないけど。こう身動きがとれないんじゃ困るよね」
 なにせリストン方面はおろか、イリス方面にも引き返せないのだ。旅人達は完全にシュシュの町に閉じ込められた状態となってしまう。長期滞在すればするほど宿代は嵩むだろうし、それぞれ先を急ぐ用事もある。身の安全も大事だが、困った事態である事には変わりなかった。
 「数日中に魔物の討伐隊が出るらしいぞ。そうなればさすがに完全閉鎖も解かれるだろうけどな、何日かかるんだか」
 「本当にね……」
 肩をすくめて、二人はお互いを見合う。
 とりあえず、今日明日に片付く問題ではなさそうである。討伐隊が出るといっても、彼らが増えすぎた魔物を落ち着かせるまでにはしばらくかかる。乗合馬車も運休状態。徒歩で出ようにも、バリケードと兵士の見張りが居るために、なかなか難しいだろう。
 「ところで、シズク――だっけか? あんた一人で町を散策かよ。リースとあの美人さんはどうした?」
 シズクが一人歩きしている事に疑問を感じたのだろう。フェイは同行人の二人の様子を問うてくる。
 「アリスがリースの治療をするっていうんで、二人は宿に残ってるよ。何も出来ないのに見てるのもなんだし、わたしだけこうして街道の様子を見に来たの」
 「へぇ。見たところ大した外傷は無かったみたいだけど……悪いのか?」
 不思議そうに眉をしかめるフェイに、シズクは曖昧な表情を向けて首をかしげた。実際の所、シズクにも良く分からないのだ。
 フェイの言うように、昨夜の戦いでリースはほとんど外傷を負っていなかった。正確には、シズクの目からは負っていないように見えるだけだが、とにかく大怪我などは全くないし、出血を伴うようなものもなかったのだ。昨夜宿屋に着いた後で、アリスは軽い消毒と治療を行っていた。本来ならばそれでおしまいのはずである。だが、今朝になってからアリスは、リースにもう一度診せろと強く迫ったのだった。
 「悪くは、ないはずなんだけど……」
 何かがおかしい。確かにそう、シズクは感じていた。昨夜、戦いを終えた後のリースの様子も、今考えれば普通ではなったかも知れない。いくら銀狼退治で動き回ったとはいえ、異常な量の汗をかいており、顔色もどこか悪かった。以前の旅ではこんな事、もちろんなかった事である。
 「…………」
 だがフェイは、シズクの言葉から何かを感じ取ったらしい。口に手を当てて考える仕草をする。ややあってから、灰色をした瞳はシズクの方を向いた。
 「シズク。あんたってさ、リースの何な訳?」
 「へ?」
 突飛な質問に、思わず間抜けな声が出てしまう。
 「だから、仲間? 恋人? それともただの同行人とかそういうの?」
 「それは――」
 何なのだろう。いきなり聞かれても、咄嗟に答えは出てこなかった。仲間……だとは思うが、果たして今の自分の状況から考えて、それは適切な表現だろうか。本来ならばシズク一人で片付けなければならない問題に、アリスとリースを巻き込んでしまっている形だ。明らかに今自分は、二人のお荷物なのだ。ろくに戦闘も出来ない上に、アリスのように治療をしたり応急処置が出来たりする訳でもない。
 「……ま、いいけど。確かにあいつ、頑固そうだもんなぁ。俺はともかく、あんたにも秘密って訳か」
 「?」
 フェイの言葉の意味を図りかねて、シズクは首を傾げてしまう。だが、彼の言うように、リースには頑固なところがあるのは確かである。そう感じさせられる彼とのやり取りを幾つか思い出して、苦笑いが零れ落ちた。
 そんな時だ。視界の隅を見覚えのある姿が通り過ぎていった事で、シズクの思考は途切れてしまう。あれ? と思い視線をそちらへやるが、間違いない。商店街を抜けたあたりを走ってくるのは、今宿泊している宿屋の子供、ラナとゲイルだった。
 (こんな時間に?)
 時刻はお昼前。彼らくらいの年の子供なら町の学び舎で授業を受けているか、昼食をとっているような時間である。それが、旅人達で混み合うバリケード前へと向かってきている。学校を抜け出してきたのだろうか。しかも、どこか様子がおかしい。ラナが青ざめた顔で走り、それを後からゲイルが追いかけるといった風な状況だ。
 「……どうしたんだ?」
 フェイもシズクの視線の先にいる人物に気がついたのだろう。胡散臭そうに眉間に皺を寄せていた。
 ラナとゲイルは真っ直ぐに門へと向かってくる。旅人達の群れを押しのけるようにして突破すると、旅人の対応に当たっていた中年の兵士に詰め寄っていた。ただでさえ物々しかった雰囲気は、幼い二人の登場で一気に混迷を深めたものへと変わる。
 状況からして、なんとなく不安を感じ取ったシズクは、彼らの元へと駆け寄っていた。渋々とした表情でフェイもそれに続く。人ごみを抜けるのは至難の業だったが、なんとか通り抜けるとバリケードの前で問答しているラナと兵士の姿が見えた。
 「今すぐここから離れた方がいいの!」
 「ラ……ラナ!」
 すがりつくような格好で兵士に訴えるラナの隣で、おどおどしながら彼女を諌めようとしているのはゲイル。だが、さっぱり効果はなさそうである。ラナの耳に彼の声が届いているかさえ怪しい。
 「どうしたんだお嬢ちゃん、突然」
 「門をきちんと閉じて、皆避難した方がいいの!」
 「あはは。まぁ昨日の今日だからね。不安な気持ちになるのはよーく分かるよ」
 切羽詰った様子のラナとは対照的に、中年の兵士はのんびりとした風に微笑む。
 「確かに魔物が増えて物騒な世の中だけど、大丈夫、ここは結界で守られてるし、皆それなりの腕を持ってるからね」
 いざとなったら兵士達が魔物に立ち向かう。幼い子供をなだめる調子で優しく兵士の男は告げる。彼のいう事がまさしく正論であった。魔よけの結界の効力は、町の中が最も強いが、ある程度の範囲であれば町の外でも有効である。要するに、町近辺に魔物が近寄りにくくなるように作用しているのだ。いくら魔物が増えていると言っても、門の側まで奴らがやってくる事は珍しい。仮に近寄ってきたとしても、これだけ国軍が警戒している状況だ。一掃されるのに大した時間もかからない。
 しかし、それでもラナは引き下がらなかった。
 「違うの! その結界が丁度さっき、急に消えちゃったのよ!」
 「またまた、そんな冗談を――」
 「嘘じゃないの!」
 苦笑いになる兵士の言葉を遮って、ラナは鋭く叫ぶ。見ているこっちが痛々しくなる程、必死の表情だった。
 (結界が、消えた?)
 全く信じていない様子の兵士とは違って、シズクはというと、ラナの言葉に少しだけ耳を傾け始めていた。冗談で騒ぎ立てているにしては、彼女の表情からは偽りの色は伝わってこなかったからである。
 結界が急に消えるなんて事、普通に考えてありえない話である。だが、仮にそれが真実だとしたら、彼女のこの慌てぶりにも頷けた。町を守る結界が消えたりすれば、大変な事になる。すぐにどうこうとはならないだろうが、最悪魔物が町に侵入してくる可能性だってあるのだ。
 魔力が感知出来たらな。とシズクは胸中で舌打ちしていた。そうすれば、結界に異変があるか分かるかも知れないのに。封印を刻まれたこの体では、普通の魔道士なら当たり前に出来る事が何一つ出来なかった。……まぁ、結界魔法が放つ微量の魔力は、並の魔道士でも気を遣わないと感じられるものではないのだが。
 と、そこではた。と気付いた。この町にいる魔道士は、シズク一人ではないのだ、と。
 昨日結界を張りなおした魔道士と、他にも数名居た気がする。もし本当に結界に異変が起こっていたのだとしたら、彼らの誰かがそれを察知していてもおかしくない。そして、このシズクの予想は正しかった。
 「今すぐ結界を調べて! そうじゃないと大変な事に――」
 「隊長殿!」
 張り詰めた感じの声は、ラナと問答する兵士に向けて発せられた。兵士とラナも含む、その場の全員が後ろを振り向くと、町の入り口から慌てた様子で走ってくる若い兵士の姿があった。多数の視線に曝されて、兵士は一瞬怯んだものの、すぐに真剣な表情でこちらを目指して向かってくる。人ごみは、彼のために真っ二つに分かれて道を作った。それらを通り抜けて、隊長と呼ばれた中年の兵士に辿り着くと、若い兵士は緊張した面持ちを上司へと向け、何かをそっと耳打ちする。
 「――――」
 報告を受けた隊長は、一瞬大きく目を見開いたようだった。そして、奇異の視線をラナの方へ向け、続いて突然の事態に困惑する旅人の群れを見た。バリケード前は、一瞬水を打ったような静けさに包まれる。誰もが息を呑んで状況を見守る中、最初に言葉を告げたのは、隊長の男だった。

 「皆町の中へ避難。門を閉鎖します。結界が――突然消えてしまったらしい」



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