第7章「翠瞳の少女」
4.
「ねぇ、聞いた? 結界の話」
「えぇ、ビックリよね。昨夜しっかり点検を済ませたばかりだったのに、今日のお昼頃に突然消えてしまったのだとか」
「東西の門は厳重に閉鎖されて、夜間の警戒も強化されるらしいわ」
時は夕方頃だった。
斜陽に曝されたシュシュの町は、穏やかな茜色に包まれていた。商店街で立ち話をしている二人の女性もまた、オレンジ色に染め上げられている。夕刻の買い物中にどうやら二人は出会ったようである。
さて、この商店街だが、いつもより人気が少なかった。普段ならば人ごみで歩きにくい中心部も、大手を振って歩くにも余裕があるくらいしか人が居ない。買い物客たちの足並みもどこか早々としていた。日が完全に沈んでしまう前に、皆帰路に着きたいのだろう。当たり前である、昨夜から続く物騒な魔物騒ぎに、今日の昼間に起こった結界の件で、町人達はピリピリしているのだ。
「ここの所物騒みたいだし。このあたりからリストンにかけて、イリスピリアの東部全体が似たような騒ぎみたい。まったく、奇妙よね」
「奇妙と言えば」
二人の女性のうち、背の低い方が話を切り替える。
「聞いた? ホーリス亭の子の話」
「あぁそれ、ホーリスさんのとこの、あの女の子の事でしょう?」
トーンを落とした声で、囁くように返したのは、背の高い方の女性。事ゴシップが関わると彼女らは目の色を変えるようだ。溢れんばかりの好奇心がその瞳の輝きから見て取れた。
ホーリス亭というのは、この町でホーリス夫婦が運営している宿屋の事で、女の子というのは、その宿屋に預けられている少女の事である。名はラナ・リスディル。金に近い黄土色の髪と、深い色合いの緑の瞳を持つ少女だ。
「あの子が騒ぐと、必ず厄介な事が起こる。今日もそうだったらしいわ。知ってる? あの不思議な色の瞳に見つめられると、魂を持っていかれるって」
「さすがにそれは大げさとしても、あの子、おかしな事をよく言うらしいわね。まるで人の心を読んでいるような事を。魔性のものじゃないかって噂が立つくらい」
「ちょっと、それも大げさじゃないの?」
そんな調子で、立ち話に満開の花が咲き誇った頃、女性たちのすぐ横を黒い影が通り過ぎた。思わずヒッと息を呑んだ背の低い女性を、背の高い女性が軽く諌める。何のことは無い、彼女らの側を、黒いフードの人物が通り過ぎただけの事だ。ただし、かなり怪しい雰囲気をかもし出している人物ではあったが。
「……あの人、ホーリス亭に宿泊している旅人ですって」
しっかりとした足取りで歩み去るフードの人物を、不審な目でねめつけて背の高い方が告げる。ちなみにこのフードの人物、列記とした男性で、名はルダと言うのだが、彼女達はもちろん知る由も無いだろう。昨夜、シズク達が乗り合わせた馬車で、銀狼と戦った者のうちの一人だ。
「街道が閉鎖された関係で、旅人が増えてるらしいし……その中に、よからぬ連中がいなきゃいいけど」
背の小さい女性の言葉が、商店街にむなしく響いた。
ホーリス氏の宿屋にシズク達が戻った時には、もう町中が騒然とした雰囲気で包まれていた。町を魔物から守る結界が突然その効力を失ってしまったのだ。前代未聞の出来事である。
あの後門はすぐさま閉鎖され、バリケードを守っていた兵士達も安全のために町の中へ入った。見張りは続けているらしいが、町の外部には一切誰も出てはならないという通達が駆け巡ったのは、それからすぐの事だ。夕方に差し掛かった現在、役人達は結界魔法に明るい魔道士連中に協力を依頼して、張りなおしの作業と、原因の究明を行っている最中だとか。
「シズク! 大丈夫だった?」
部屋に戻るなり、心配そうに駆け寄ってきたのはアリスだ。闇色の瞳は少しだけ焦りを滲ませている。それを見ただけで、シズクを一人で外に出した事を悔いているのだと知れた。
「大丈夫大丈夫。魔物が出たわけじゃないしね」
棒は持っていたし、魔法は使えずとも最低限の護身は出来る。少しは信用してくれてもいいのに。とシズクは苦笑いしたが、それを敢えて口に出したりはしなかった。
「……で? 帰りが随分遅いけど、門が閉鎖された後どこをほっつき歩いていたんだよ? それに、どういう状況だ? それ」
アリスの背後で腕を組みつつ言ったのはリースだ。ちなみにここは、アリスとシズク用の部屋だった。彼の部屋はこの隣にある。
「えっと……」
リースの言葉に、シズクはまず何から説明するべきだろうか、と首を捻った。彼がそれ、と言って目配せした方には、シズクともう二人の来客が居る。いや、来客という言葉は少しばかり違うだろうか。シズクが連れてきたのは、この宿屋の子供であるゲイルとラナだったのだから。
ちらりと彼ら二人に視線を寄せてみる。ラナはシズクの手をしっかり握ったまま、表情を硬くして先ほどから一言も喋らなかった。そんな彼女を気遣いながらも、ゲイル少年もひどく困惑した様子である。バリケード前での一件以降、彼らはずっとこんな調子なのだ。
何故シズクが夕刻まで宿屋に戻らなかったかと言うと、成り行き上、そんな彼らに付き合う事になったからだった。シズクの予想通り、ラナ達はお昼時に突然学び舎を飛び出してきたらしかった。だから門が閉鎖された直後、彼らに付き添って町の学び舎まで行っていたのだ。そうこうしているうちに町中大騒ぎになり、結局その日の授業は途中で取りやめになってしまい強制下校。現在に至るという訳だった。
付け加えると、フェイもこれに同行してくれたのだ。先ほど廊下で別れたばかりである。面倒くさいと言いながらもしっかり付き合ってくれるところからして、やっぱり根は優しい人なんだろうな、と思う。
「ラナちゃん、とりあえず座ろうか?」
リースの質問は無視する形になってしまうが、ひとまずこちらの方が先だ。そう思い、空いている椅子を見つけて、ラナを座らせる。頑なに黙ったままの彼女をこのまま放っておく事は出来なかったのだ。リースもラナの様子のおかしさに気付いたのだろう。何も言ってはこなかった。
「…………」
口をしっかり閉じたまま、ラナは俯いた状態で椅子に腰掛ける。手は未だにシズクをしっかりと掴んでいた。彼女が離したがらないので、シズクはしゃがみ込む形になる。小刻みに肩を震わせるのを視界に入れて、シズクは瞳を細めた。
ラナがこんな状態になった原因は大体想像がついてしまう。バリケード前で彼女が町の危機を知らせに来た直後、タイミングよく結界崩壊の知らせが届いたのだ。それは、彼女の訴えが事実であった事を示したが、それ以上に周囲の彼女に対する印象を大きく変えてしまう結果にもなってしまった。あの一件以降、兵士達はおろか、その場に居た旅人達までもが、奇異の視線を一斉にラナへと浴びせたのだから。自分達とは違う存在。そう思われる時の気持ちはシズクにも少しだけ理解する事が出来た。
肩をそっと抱くと、ラナはようやく顔を上げる。虚ろであったが、その不思議な色の瞳はしっかりとシズクの方を見つめていた。
「私……良かったのかな……あんな事言って……」
涙目のまま、掠れた声を上げる。
「ラナは悪くなんて無いよ! 町が危ないって思ったから飛び出したんだろう? 皆のためにやった事が、悪い事なはずない!」
必死にそう叫んだのはゲイルだ。彼の言葉に、ラナの瞳からはとうとう涙が溢れ出す。シズクの手を掴む力は、益々強くなった。
ゲイル少年の説明によると、ラナがあのバリケード前に現れたのは、彼女が町の危険――すなわち結界の崩壊をいち早く察知したためらしい。学び舎で丁度昼食を食べ始めた頃、突然真っ青な顔で立ち上がると、そのまま彼女は教室を走り去ったのだと言う。それらの事を聞いて、シズクには一つ、思い当たるものがあった。
「ラナちゃんは、魔法が使えるの?」
「え……?」
ポツリと零したシズクの言葉に、ラナは泣くのをやめて目を丸くする。隣に立つゲイルもまた同じような顔をしている。何故それを知っているのか。彼らの表情からそんな気持ちが読み取れた。やっぱり。と、胸中で呟く。
「すぐに結界が壊れた事に気付けたんでしょう? とても強い器を持っていないと出来ない事だから」
魔道士でも、気を張らないと結界の異常にはなかなか気がつかない。それくらいに、結界の放つ魔力は普通の魔法に比べて弱いのだ。だから町を守る結界は定期的に点検が行われる。魔道士が常駐するような規模の大きな町になると、毎日行われているところもあるらしいが、シュシュの町は魔道士が常駐していない町である。今回の結界の異常にしても、偶然誰かが気付いたから対策が早く打てたのだろうと思われる。
「力に驕る事なかれ。魔道は人のためにこそある」
「?」
涙で濡れる瞳のまま、不思議そうに首を傾げるラナにシズクはやんわりと笑いかける。
「魔道士の戒めの言葉。悪戯したり、軽はずみな事をしたりすると、絶対にこう言われて説教されるの。自分のためだけに魔法を使ったりしないようにね」
魔法連所属の紋章には、必ずこの言葉が刺繍される。シズクの胸元にも同じものが刻まれているのだ。
驕るほどの力はシズクには無かったから、実を言うとあまり真剣にこの言葉の意味について考える事はなかった。しかし、旅立ってみてちょっとは理解できるようになっていた。私利私欲のためだけに魔法を使ってしまった魔道士を見たからだ。そして、人を傷つけるために魔法を揮う魔族(シェルザード)との邂逅も大いに関係している。
「ラナちゃんは正しい力の使い方をしたんだよ」
自分のためではなく、人のために魔道を用いる。それこそが魔力者の本来あるべき姿だ。
「…………」
今度は真剣な顔でラナはシズクを見つめてくる。不思議な色を宿す翠瞳は今は大きく見開かれていた。だが、ややあって彼女の顔は、まるで針で指先を刺した時のように一瞬しかめ面に変わる。小さく息を呑む声も聞こえてきた。
「お姉ちゃんは……魔道士?」
掠れた声の問いに、今度はシズクの方が目を見開く番だった。そうして考える。自分は一体何なのだろう、と。
魔道士見習い。確かにその身分は未だに存在している。オタニア魔法学校にも生徒として登録されたままであるし、イリス魔法学校にも未だに籍を置いている手筈だ。だが、星降りの件以降、自分は魔力を完全に封印されてしまった。そればかりか、魔女の元へ行って、自分はその魔力を完全になくしてもらおうとさえしている。怖いのだ。これ以上、魔法を揮う事が。正しい方向に力を使える自信がない。
「……さぁ、どうだろう。わからないや」
苦笑いになって答えにならない答えを紡ぐ。いくら子供に対する言葉といっても、これはないだろうと思ったが、これ以上の返答を用意することは出来なかった。
ゆっくりラナの頭を撫でてやると、再び彼女は涙を落とす。先ほどの怯えたような表情とは違い、今は穏やかな涙だった。それが何を意味するかはシズクには分からない。おそらく、ラナにしか分からないのだろう。