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第8章「異変の始まり」




3.

 大陸に存在する町や村には、魔物避けの結界が施されている。各地域の魔法連、魔法学校が管轄で、そこから魔道士が派遣されるのだ。シュシュの町ももちろん例外ではなく、町の周囲を結界が覆う。昨日の昼間に何らかの原因で一旦は崩壊したが、今日の昼には完全に復旧したはずである。だから、今現在魔物が町を襲う事はほぼ不可能な事だった。そう、本来ならば。

 現れた魔物の数は3匹。
 商店街のメインストリートに比べれば狭かったが、この街路も、10人くらいは横に並んで歩けそうなくらいの幅があった。しかし、それも魔物達にしてみれば狭すぎるのだろう。魔物はその体躯を利用して、破壊の限りを尽くす。俊敏な動きでしなる尾は家々のガラスを割り、壁を崩いた。大型の魔物が3匹も同時に暴れるのだ。レンガ張りの街路は、彼らの足踏みに合わせて小刻みに振動を繰り返していた。
 たとえどんなに丈夫に作られた建物だとしても、さすがに魔物に襲われる事態までは想定していない。規格外の破壊力を前に、街路の両脇の建物はもろくも崩れ去り、とばっちりを受けた何人かが瓦礫で負傷する。ラナとゲイルも危うく巻き込まれかけたが、シズクが即座に二人の手をひいて事なきを得た。直後に、シズクは二人の背中を押していた。
 「あそこまで走って!」
 前方に2匹、後方にもう一匹。要するにシズク達の現在地点は魔物の包囲網の中だった。逃げ出す事は得策ではない。ひとまず優先させるべきは魔物の側から少しでも離れる事だろう。一瞬でそう結論付けると、シズクはラナとゲイルに、魔物の居ない方角にある小さな広場を指し示す。
 泣き叫んだりはしないが、ゲイルもラナも突然の出来事にすっかり表情を失っていた。シズクの言葉に無表情のまま頷くと、二人は走り出す。彼らの後を走りながら、シズクは棒を一振りして組み立てていた。そうして二人をかばいながら、広場へと逃げ込んだのだった。

 「に、逃げろ!」
 「うわぁぁあぁっ!」

 怒号や悲鳴があちこちから上がると、運悪くこの場に居合わせた町人達はパニックを起こし始めていた。我先にと押し合いながら魔物の居ない方へと走り出す。魔物の包囲網の外に居る者ならばまだそれでも逃げ切れる可能性は高い。だが、包囲網の内に居る者にとって、それは彼らを刺激する行為でしかない。更に、騒ぐのはこの場合禁物である。標的にされる恐れがあるからだ。
 「ひぃぃっ!」
 案の定人々の喚き声は魔物達にとって耳障りなものだったのだろう。逃げ遅れた男性に、尻尾の一閃が走る。
 「――――」
 ザンッと空気の切れる音がすると、次の瞬間には蛇の姿をした尻尾は空を舞っていた。当の男性は一体何が起こったのかわからなかっただろう。ただ、失われるはずだった自身の命が未だにある事に放心し、目の前に立つ少年の姿を不思議そうに眺めるだけである。
 男の命を救ったのは言わずもがなリースだった。彼が根元付近からばっさり切り落とした尾は、レンガ張りの街路の上でしばらく蠢くものの、やがて活動を停止する。
 「ひぃあぁぁ! また来る!」
 男性の喚き声が再び街路に響き渡ったのは直後の事。尻尾を切られて逆上した魔物は、今度は獣の爪でリースを襲ったのだ。だが、リースに焦りの色は見えない。割と鋭い爪の一撃を避けると、そのままの動きの流れで腸を切り裂く。痛みに怯んだその隙を突いて、リースの更なる一撃は魔物の首をはねていた。

 「落ち着け! 逃げられそうな人は今すぐ避難。囲まれてる人は安全な場所に隠れる!」

 整った顔と返り血を受けている事とが相まって、リースの発した一言はかなりの迫力を持って町人へと伝わったようだった。それまで一行に落ち着きを見せなかった人々が、突然黙り込むと皆彼の指示に従い始める。

 『弐の雷火(らいか)!』

 力ある言葉が響き渡ると、今度は街路の反対側で町人に襲いかかろうとしていた魔物の上に一筋の雷が下る。人の顔をしたそれは、しばし苦悶の表情で感電し、やがて倒れ伏した。アリスが術を放ったのだ。
 カツンッと彼女は杖を、力強く地面に打ち鳴らす。
 「イリスピリア兵を呼んできて下さい! 動かせる負傷者は病院に。身動きがきかない人は私が看ます」
 凛と張り詰めた声は、町人を更に落ち着かせる。パニックがほぼ収まったのを確認してから、アリスは倒れている負傷者の元へと向かった。
 残り一匹の魔物には、必然的にリースが向かう事になる。三匹の中で一番体格が大きい魔物にも、リースは躊躇する事なく、素早い動きで間合いをつめると、剣を振り下ろして切りつけた。魔物も反撃の爪を仕掛けるが、これも飛びのいて避ける。尻尾の連撃をかわしながら再び間合いをつめると、リースは止めの一閃を振るう体勢に持っていく。これで決着がつく。誰もがそう思っていた。そんな時だ。
 (何……?)
 広場から戦いを見守っていたシズクは、リースの漆黒の刃が、一瞬だけ白く染まったのを確かに目撃した。たった一瞬の事なのに、それだけで物凄い光量が周囲に飛散する。視界を失ったのは、シズクだけではなかっただろう。
 予想をはるかに超えた轟音は、目が眩んだ中シズクの耳に届いた。

 「――――」

 光が発生したのは、ほんの一瞬だっただろう。それでも、眩んでいた目が慣れるまでにしばらくの時間を要する。ようやく視力を取り戻しても、周囲には薄い砂煙がたっており、完全に状況を把握することが出来なかった。一体あの轟音の正体は何だったのだろう。首を傾げてシズクは目を凝らす。やがて砂煙が晴れ始め、その先に見えた光景が、疑問の答えを教えてくれた。
 「リー……」
 砂煙の中心には、リースが居た。そして、彼の目の前には、つい先ほどまで獰猛さを見せていた魔物だったものの残骸が転がっている。緩い風が、生き物が焼ける独特の臭いを運んできた。
 あまりの光景にシズクはただ立ち尽くして唖然とするしかなかった。すぐ隣でラナとゲイルが息をのんで身を寄せ合う。彼らも……いや、この場に避難した町人の全員が、シズクと全く同じ感情を胸に抱いているのだろう。背中を何か冷たいものが這い上がってくるようだった。同時に震えもやってくる。これは間違いなく『恐怖』という種類の感情だ。
 「何が起こった……一体」
 町人の誰かがそう呟いたのも無理の無い事だ。剣で止めをさしたとか、そういうレベルの状態でない事は誰の目にも明らかな事だったから。魔物はばっさりと両断され、二つに分かれた体躯は、そのどちらもが原型を残していないくらいに焼け焦げている。
 一刀両断は、手練の剣士ならば出来ない事は無いだろう。だが、焼け焦げるというのは一体どういう事だ。魔法でも使わない限り、こうはいかない。剣一本で成し遂げられる芸当ではないのだ。
 騒がしかった街路の空気が一気に冷えていく。周囲は水を打ったように静まり返り、その場に居る全員が、事を起こした金髪の少年に向けて、畏怖の視線を向けた。ごくり。と、誰かが唾を飲む音が聞こえる。
 「リース!」
 それでも名を叫んでシズクが飛び出したのは、彼の様子がいつもとあまりに違っていたからであった。焼け焦げた魔物の残骸の方を向いていた視線は、呼びかけによってシズクに向けられる。普段なら嫌味を言いながら細められるはずの若葉色の瞳は、今は酷くぼんやりとしていた。瞳に注意を向けていたシズクの耳を、ごほりという咳き込む声が侵食していく。
 「あ……」
 パタパタと地面をうがつのは紅。リースの口から零された血に、リース自身が驚いているようだった。右手に付着した血液を、呆けた様子で眺めるもつかの間、また咳き込む。
 「――――っ」
 声にならない悲鳴を上げて、シズクはその場に立ち止まってしまった。
 リースの身に一体何が起こったのか、想像すら及ばない。だが、心の中で警鐘が鳴り響いて止まらないのは確かだ。とても嫌な予感がする。沸騰寸前の頭に浮かんできたのは、つい先日の出来事だった。星降りを起こし、本来の魔力を取り戻した自分が、その後辿った道のり。それら全てに今のリースの状況が重なって見えて、仕方が無い。このまま行くと、リースはあの時の自分のようになってしまうのでは――
 どおんと、不吉な轟音が上がっても、シズクはその考えから抜け出せずに居た。四肢が一気に冷えていく。緩慢な動きで音のした方を見て、新たな魔物が2匹現れた事を知った後でも、うまく思考がまわらない。1匹がわき目もふらずにシズクへと向かってくる事で、ようやく自分が標的にされている事に気がついたくらいだ。
 慌てて棒を構えるが、シズクの腕で戦うには魔物との力差があまりに大きかった。そもそも体格の差からしてかなりのものがあるのだ。飛び掛ってきた魔物の爪を受け止めて、棒は硬質な悲鳴を上げる。はじめの数秒は拮抗し、お互いの力比べに発展するがシズクが勝てるはずも無い。
 「ぅわぁっ」
 力任せに横にはじかれると、哀れ棒はシズクの手を離れて街路を転がり飛んでいく。棒の後を追う事はもちろん出来なかった。痺れる両手を押えることがやっとで、視線を魔物から離す事すら出来ない。人面の赤い瞳に魅入られて、金縛りにあったように固まってしまったのだ。背筋を、冷たい汗が伝った。
 (魔法が使えないわたしは、無力だ……)
 一度も攻撃する事無く、こんな風に追い詰められてしまう。いくら魔法が苦手といっても、いくら棒術が得意といっても、結局シズクは魔法が無ければ魔物と戦う事が出来ない。それを、強く思い知らされた瞬間だった。
 人の顔をしたそれは、勝利を確信したらしく、にぃっと厭らしく微笑んだようだ。続いて繰り出される爪に、もうシズクの出来る事は無い。
 「――――」
 咄嗟に目を瞑るが、助けは意外なところからやって来たのだった。



 「まーた、えらくど派手に暴れたなぁ」



 魔物の背後から飄々とした声が耳に届くと、その時にはもう、シズクに襲い掛かっていた魔物の体は轟音と共に真っ直ぐ縦に両断されていた。断末魔の悲鳴を上げることすらせずに、魔物はその場に倒れ伏す。屍から毒々しい色をした血が流れ、街路を赤黒く汚していった。魔物が真っ二つにされた光景を見たのは、今日で二回目の事だ。
 「ヒーローは遅れて登場するもんだろ?」
 魔物の屍を超えて現れたのは、灰色髪の剣士。
 「フェイ……」
 「怪我はなかったか? シズク」
 釣り目を細めて笑い、フェイはシズクの顔を覗き込んで来る。その質問に、シズクは頷く事で答えた。彼が魔物を倒してくれたお陰で、酷い傷などは一切負っていない。あれだけ至近距離で魔物と対峙しておいて、奇跡に近い事だなと思った。
 それにしても、フェイ――彼は一体何者なのだろう。彼が戦う姿を、シズクは今初めて見た。それも一瞬だけである。しかし、たったそれだけの時間でも、フェイがただ者ではない事が分かってしまった。剣に関しては素人のシズクの目から見ても、そこら辺にいる普通の冒険者とは一線を画する力量だと知れる。リースもかなりの剣の使い手だが、ひょっとしたらフェイは、その上を行くのではないかとさえ思えるのだ。
 怪訝な顔をするシズクの真意に気付いたのだろうか。フェイは意味ありげな視線をシズクに向けるも、それ以上何かを語ろうとはしなかった。代わりにニヤニヤ笑いを浮かべると、シズクの後方へその笑みを投げかける。
 「残念だったなぁ、リース」
 一体何だと追った視線の先は、シズクとは少し離れた場所。そこに立って居たのはフェイの言葉通り、リースだった。
 「…………」
 肩で息をさせてリースは、苦しそうに喘ぐ。先ほど吐血した場所よりは、若干彼の今居る位置はシズクに近かった。無理矢理走ろうとしたのかもしれない。心なしか、フェイの言葉に不貞腐れているような印象も受けた。
 「ま、あれだけの状態で走り出した所までは褒めてやってもいいか。でも、シズクを助けるにはちょっとばかし遅かったな。まだまだ修行が足りないって事で。ヒーロー役はしばらく俺が貰っておくぜ」
 「あのなぁ――」
 「さて……そっちは任せたぞ、ルダ」
 からかいが存分に篭った言葉に、リースは反論を試みようとする。だが、フェイが一転してやけに真剣な声色になったものだから、阻まれてしまった。
 (ルダ?)
 慌ててシズクもフェイが言葉を投げた先を見る。空気を切り裂くような魔物の叫びが聞こえたのはそれとほとんど同時だった。視界に銀が踊る。何かと思えば、それは細長い剣の軌跡だった。剣を操るは黒いフードの人物――ルダ。
 残り一匹の魔物を、彼は軽やかな動きで翻弄すると、もう一閃剣を繰り出した。フェイのように一刀両断することは無かったが、確実に急所を捉えた一撃はあっさり魔物を絶命させる。どぉん。と、巨体が崩れ落ちた事によって街路には鈍い振動が走った。
 あたりが静かになっても、その場の誰も動き出そうとはしなかった。二度魔物は現れたのだ、三度目が起こってもおかしくない状況だったからである。だが、周囲のそんな心配は杞憂に終わったようだ。それきり街路は静まり返ると、これ以上の魔物が現れることもなかった。しばらくの後、町人の誰かが安堵のため息を零した事で、緊迫した静寂は、ようやく解ける。その場に居た多くの者が、力を抜いてその場にへたり込んだり、助かった事で歓喜の声を上げたり、あるいは泣き出したりし始めた。そこまでの状況になって、ようやくシズクも全身の力を抜いたのだった。
 「さっすが」
 「お前ほどではない。それより――」
 ルダは、魔物の血を払って剣をしまうと、フェイとシズクの居る方へ歩み寄って来る。側に居ても、フードの奥に隠された素顔を見ることは叶わなかった。
 「気付いたか? フェイ」
 周囲を見渡しながら、ルダは低い声で告げる。彼の場合、声色から感情を読み取るのは難しそうだったが、今のこれは緊張を宿したものであろう事がシズクには分かった。彼が警戒を投げかける要因に、心当たりがあったからだ。
 「あぁ。まーた余計に面倒な事になりそうだな、こりゃ」
 肩をすくめながら、フェイはさも面倒くさそうに吐き捨てる。軽口だったが、張り詰めたものを持っているのは彼も同じ事だ。
 「魔物の屍が消えている。全部だ。……召喚された可能性が高い」
 抑揚ない声でルダが告げた内容に、シズクもリースも息を呑んだ。



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