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第8章「異変の始まり」




4.

 街路にイリスピリア国軍が駆けつけたのは、騒ぎが鎮静化して、町人達も落ち着きを取り戻しかけたそんな時だった。一見すると対応が遅いようにも見えるが、リースやアリス、それにフェイとルダの活躍によって、異常ともいえる速さで事態は収拾に向かったのだ。知らせを聞きつけて兵士が駆けつけた頃には、粗方全てが終わっていた。そんな感じだ。
 幸いな事に、死人は一人も出なかった。けが人は十数人出たが、それらの多くはアリスの癒しの術によって既に問題ないくらいまで回復している。大怪我を負った者数名が、病院に運ばれたくらいで他は特に問題無いそうだ。
 宿屋に戻ると、ゲイルの両親であるホーリス夫妻は、半泣きの状態でシズク達を出迎えてくれた。ラナとゲイルが騒ぎに巻き込まれたと聞いたときには、夫妻はもう駄目だと思ったらしい。最愛の子供達の無事を確認し、彼らをきつく抱きしめた後で、こちらが申し訳ないと思うほど、シズク達に何度も何度も頭を下げてくれたのだ。
 シズクはただただ、目まぐるしく流れていく時間に、目を回していた。何故とか、どうしてとか。いろいろな疑問が頭の中で渦巻いていたが、今はとにかくそれらを整理して考えられる状況ではなかった。胸にぽっかりと穴が開いたような、奇妙な気分になる。疲労は不思議と感じていない。ピークをとうに過ぎてしまったか、あるいは未だに緊張の糸が張り詰めたままなのか。どちらにしても、自室に戻ってきてからもそんな状態が続いていた事に変わりは無い。椅子にリースが腰掛け、アリスが彼の治療をし始めた状態になっても、ほんの少し冷静さを取り戻せたくらいだ。扉の前に突っ立ったまま、彼ら二人の様子を眺める以外、他に出来る事はない。
 顔色の悪いリースを見つめていると、シズクは全身の血液を持っていかれそうな気分になる。外傷はほとんど無い。あの人面の魔物との戦いでも、彼の優勢は変わらなかった。それなのに――

 「……なんで?」

 何故、血を吐いたりなんてしたのだろう。漆黒の剣が真っ白に染まった、あれは一体何だったのだろう。魔物を一刀両断にするほどの力が、果たしてリースにあっただろうか。浮かんでは消えていくたくさんの疑問は、一言に集約されて弾けた。
 大して大きく呟いた訳ではないが、同じ部屋に居る人間に聞き取れないほど小声ではない。シズクの呟きを耳に入れて、アリスは難しい顔を作ってこちらを向いた。何かを伝えたいのだが、何も伝えられない。そう訴えるような表情だ。そんなアリスとしばし見詰め合ってから、シズクは椅子に腰掛けている金髪の少年の方を見た。アリスから治療を受けているリースは、俯いたままの状態でシズクを見ることはない。聞こえていない訳ではないだろうに。
 「右腕、痛むの?」
 かばうようにリースは右腕を左の手で掴んでいる。その様子を見て、なんとなしにそう零しただけだったのだが、リースの反応はあからさまだった。肩を強張らせると、右腕を掴む力を強めたようなのだ。しかし、何も言わない。
 アリスが呪を唱える小さな声が響くだけで、宿屋の部屋は気まずい沈黙に包まれ始めていた。
 「リース」
 名を呼んでようやく、リースはエメラルドグリーンの瞳をシズクへ向ける。アリスの術の効果か、部屋に入った時よりは若干顔色が良くなっている。端正な顔には未だに脂汗が浮いているが、街路ではあんなに荒かった息遣いが、今は規則正しいものに変わっている。命の危険は無さそうである。そのことにひとまず、シズクは安堵のため息を零した。
 聞きたいことが沢山ある。不機嫌そうに細められたリースの瞳は、一切の追及を拒絶していた。しかし、それでも尋ねずにはいられない。ゆっくり息を吸い込むと、疑問をそのまま言葉に変えた。
 「何か、わたしに言ってない事、ある?」
 先日、フェイも言っていた。リースは何か隠し事をしているのだと。その隠し事と、最近リースの様子がおかしい事とは、関係があるような気がして仕方が無かった。アリスはおそらく、知っているのだろう。何も言えずに瞳を泳がす彼女の様子から、そう悟る。
 「……ねーよ、そんなもん」
 「嘘だ」
 ぴしゃりと言い捨てても、リースは怯まず、若葉色の双眸を真っ直ぐにシズクへと向けてくる。負けじとシズクも無我夢中でリースに視線を送った。いつしか両者の見つめ合いは、睨み合いへと変わっていく。
 「…………」
 こういう状況になってしまうと、普段ならばシズクがリースに言い負かされて終わりとなる所だ。口達者の彼に、シズクが勝てる事は少ない。だが、今回は引き下がる気にはなれなかった。このままリースが自分に何も言ってくれないままなのは嫌なのだ。何故そう思ってしまうのかは分からなかったが、確かにシズクの心は、そう告げていた。
 「秘密にしなきゃいけない事なの?」
 「違うって」
 「アリスには言えて、わたしには、言えない事?」
 「だから違う」
 「嘘言わないでよ!」
 頑としてシズクの追求を拒むリースに、いい加減苛立ちが隠しきれなくなる。両手をぎゅっと握り締め、眉間に皺を寄せると、とうとう叫んでしまっていた。
 「近頃リース、変だよ!」
 そう、変なのだ。
 最初にそう感じたのは、おそらくイリスを旅立った時だ。あの日のリースはいつもとどこか様子が違っていて、何かを決めたような、そんな顔をしていた。隠し事をされているのも、旅の中で薄々感じ取っていた事だ。でも、それは本当に些細な秘密だと、シズクは根拠もなくそう信じていた。まさかリースの身に異変が起こるようなものとは……血を吐くようなものとは、思いもよらなかったのだ。
 「変なのはお前もだろ!」
 声を荒げたリースの言葉は、シズクの身体を鋭く貫いた。言われた内容に一瞬動きを止めてしまう。
 「え……?」
 (わたしが?)
 冷や汗が背中を伝う。睨みつけるのをやめざるを得なくなって、代わりにシズクは戸惑いで目を泳がせた。アリスが心配そうな視線を寄こしてくるが、それもシズクを落ち着かせる事は出来ない。心臓の鼓動が一気に速くなる。
 自分の中では、十分普段どおりの自分でやっていたはずだ。旅立ってからの時間は、先行きを考えると不安な事がたくさんあったが、楽しいといえるものだった。重苦しい雰囲気が拭えないイリスピリア城は、やはりシズクにとって息が詰まる場所だったから。そこから抜け出す事が出来て、気持ちが楽になっていたのは事実だったから。
 だが、リースの目には、一体自分はどう映っていたのだろうか。
 「人の事をどうこう言う前に、自分の事を見直したらどうだよ」
 「……どういう意味?」
 「そのまんまの意味だよ」
 シズクを睨みつけたまま、リースはやや乱暴にため息をつく。全身から苛立ちがにじみ出ていた。
 「隠し事をしてるのは、お互い様だろ」
 「……え!?」
 驚いた声を上げたのは、アリスだった。癒しの術を中断すると、彼女はリースとシズクを交互に見やった後で、一体どういう事だ、といった調子でリースに強い視線を浴びせ始める。
 一方のシズクはというと、リースの発言に、それこそ今までに無いくらい大音量で心臓を跳ね上げていた。
 (お互い様って……)
 シズクの隠し事といえば、思いつくのは一つしかない。旅立ちの前夜、イリスピリア王にのみ打ち明けた、シズクの決意である。東の森の魔女に会って、全ての魔力をなくしてもらう事だ。魔道士の自分を捨てる。世界の光としての道を拒絶するために。
 リースは、シズクが何か隠している事に勘付いていたのだろうか。こちらを睨みつけてくる彼の視線は、問いただすような色を持っている。先ほどリースにシズクが向けていたものと同じ種類のものだ。それに捕らわれて、目が離せなくなる。
 お互い様。そう……確かにその通りだ。自分は、リースの事を決して責められる立場ではない。むしろ、散々旅に巻き込んでおいて、本心を仲間である彼らに告げていない分、シズクの方が罪は重い。それに気づいて、愕然とした。全身が急速に冷えていく。

 「……ごめん」

 口をついて出てきたのは、そんな言葉だった。一体何に対して、誰に対して謝っているのか、もはやシズクにも分からない。けれども、これしか言葉が浮かんでこなかった。
 リースの視線が耐えられず、とうとうシズクは俯いてしまう。今回もまた、完敗だ。
 「――――」
 「シズク?」
 この場にこのまま居ると、一生動けなくなってしまいそうな気がする。そうなる前に逃れようと、シズクは無言で踵を返した。アリスが心配そうな声で呼びかけてきたが、それに返事を返す事もなく、静かに部屋を出て行ったのだ。






 「――――っ」
 廊下に出た途端、何故だろう、物凄く泣きたくなった。涙が零れる寸前まで上ってきたが、大きく深呼吸する事でなんとか落ち着ける。
 時刻は既に夕食時だ。窓の外はすっかり夜の帳を下ろし、町の家々には明かりが灯り始めていた。階下の食堂から香ばしい食べ物のにおいと、賑やかな談笑が流れてくるものの、宿の廊下は比較的静かな方である。
 緩やかな夜の空気をその身に感じながら、薄暗い廊下でしばらくシズクは佇んでいた。興奮が冷め、普段どおりの自分を取り戻すまでに数十分かかっただろうか。落ち着いたところでようやく、さてどうしようかと考え始める。
 自分の部屋を出て行ってしまったのだ、当分は部屋には帰れない。かといって、食事をする気分でもなかった。食堂に下りていく選択肢もこれで消えてしまう。残された最後の選択肢は、宿の外に出るというものだったが、魔物騒ぎが起こった直後だ。日も沈んだ後であるし、宿屋のスタッフに止められてしまうかも知れない。
 (でも、外の風にあたりたいなぁ)
 激情の波は引いていったが、未だに体の芯が熱くて仕様がない。夕刻の風にでもあたって、頭を冷やしたいところだ。そう結論付けて、やっぱり行き先を宿の外へと定める。誰かに止められても、やんわり受け流せばすむ話だろう。

 「お姉ちゃん?」

 ぎしり。と木張りの床を軋ませて歩き出した所でしかし、シズクは突然呼び止められた。振り返り、声の主の姿を確認すると、そこには、きょとんとした顔で立っているラナの姿があった。黄土色の巻き毛が少々乱れており、翠色の瞳はぼんやりしている。今まで寝ていたのかもしれないなと心の中でのみ呟く。襲撃事件の後、彼女は確か自室で休んでいたはずだ。
 「ラナちゃん。休んでなくていいの?」
 「うん、少し寝たから、もう大丈夫。……お姉ちゃん、どこ行くの?」
 のんびりした動きでシズクの側までやって来たラナは、首をかしげて問うて来る。どこ、と問われてシズクは悩んだ。特に行く当てもないし、その目的もなかったからだ。
 「うーん、どこだろう。とりあえず、外の空気にでも当たろうと思ってたんだけど」
 「外? もう暗くて危ないよ?」
 窓の外を確認した上でラナは怪訝な顔で返す。確かに、こんな微妙な時間帯に一人で外に出るなんて事、普通はやらないだろう。不審に思われても仕方が無かった。どうしたものかとしばし頭を悩ますも、ラナを誤魔化す良い手立ては見つからない。
 「あ、分かった!」
 比較的明るめの声が響いたのは、すぐの事だ。無い知恵を絞って上手い言い訳を考えていたシズクは、ひとまず思考を中断させてからラナの方を向く。彼女は、にやりと意味ありげに笑っていた。
 「喧嘩とかして、飛び出してきちゃったんだ」
 「う……」
 痛いところを突かれて、思わずシズクは呻いてしまう。ずばり的中である。
 あからさまに表情を変えたシズクが面白かったのだろう、ラナは可笑しそうに笑いだす。子供らしい彼女の笑顔を見ていたら、昼間の大人びた彼女の様子など忘れてしまいそうだった。何だかんだ言っても、ラナはまだ12歳の少女なのだ。
 「行き場所がないの?」
 「まぁ、そういう事」
 ちょっと恥ずかしかったが、観念してシズクは認める事にしたのだった。肩をすくめてラナに苦笑いを向ける。
 「じゃぁ、私の部屋においでよ」
 それに笑顔で応えてから、ラナはすっとシズクの右手を取った。



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