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第8章「異変の始まり」




5.

 さやさやと、葉が風に遊ばれて囁く。風は湿り気を帯び、灰色髪をゆるりとかきあげていった。
 どうにも雲行きが怪しいな、と今晩の空を見上げながらフェイは思う。ひょっとしたら、明日あたり一雨来るかもしれない。雨は鬱陶しくて駄目だ。出来れば降らなければ良いのに。と、柄にも無く神に祈りたい気持ちに駆られた。
 「なかなか簡単に、片付きそうにないねぇ」
 ため息交じりの愚痴は、夜空へと溶けていく。
 「俺は出来れば、余計な事はしたくないんだけどね」
 「そう言うな。これも仕事のうちと思え」
 新たな声は、フェイの後方からかかった。振り返らずとも声で分かる。
 「あんたって、ホント人使い荒いな――ルダ」
 風が向かった先には、すっぽりと黒いフードに覆われた、長身の男が居た。






 「あれって……」

 ラナの部屋に案内され、最初は所在無さ気にきょろきょろしていたシズクだったが、ふと窓の外へ視線を寄せたところで声を上げた。宿屋に面する街路を、歩いていく二人組の姿を認めたからだ。
 「剣士のお兄ちゃんと、フードの人」
 しかめ面をしているシズクの元へやってきて、ラナも窓の外を見る。
 彼女らの視線の先に居たのは、灰色髪の剣士フェイと、黒いフードの男ルダだった。今日の昼間も街路で目撃した組み合わせである。
 (やっぱり、仲間同士なのかな)
 魔物騒ぎの時も、シズクのピンチを救ってくれたのはフェイだった。そして続けて現れたのがルダ。あの時彼らが交わしていた会話から、二人は仲間若しくは、かなり親密な間柄である事が推し量れた。だが、リースが言うには、彼らは乗合馬車の銀狼退治の時点では初対面そのものだったのだという。たった数日で二人の間に何かがあったのだろうか。
 「あの人達ね、ちょっと注意した方がいいと思うの」
 「え?」
 思わぬ発言に、シズクはフェイたちの姿を見るのをやめて、すぐ隣に立っているラナの方を向いた。シズクの視線を受けて、ラナもこちらを見る。
 「剣士のお兄ちゃん、私と話す時だけ私と一切目を合わせないの。この目の事、知ってるのかも知れない」
 「目を合わせない?」
 言われて考えてみるが、シズクと話すときは、フェイは確かにシズクの目を見て話をしていたように思う。普通、人と話すとき、相手と目を合わす人がほとんどだ。それが、ラナに対する時だけ違うというのは不自然な事に思える。しかし、それが注意しなければいけない要因となるのは、一体何故なのだろう。
 「お姉ちゃん、隣どうぞ」
 ぼふんと弾んだ音をたてて、ラナはベッドに腰掛ける。その隣を指して彼女はシズクに座るよう促してきた。疑問は尽きないが、とりあえず彼女の勧めに応じる事にする。ゆっくりとベッドに腰掛けると、シーツの柔らかな感触がした。
 ラナはしばらく、足をぷらぷら揺さぶって、ベッドの感触を楽しんでいるようだった。緩やかな沈黙が過ぎる。
 「私はハーフだから。普通の人とは違う力を二つ持っているみたい」
 ややあってラナは、12歳の少女にしては、大人びた声で告げた。
 ハーフとは、ハーフエルフの事を指すのだろう。商人のハンスによれば、エルフ自体人より様々な能力において優れた一族であるが、ハーフエルフには敵わないのだという。他種族同士の混血が達成された途端、各々の種族に秘められた特別な力が芽を吹き出すのだ。
 「一つは大きな器と魔力を持っているという事。魔法も気付いた時には使えるようになってた」
 ピッと華奢な人差し指を立てながら告げると、ラナは翠色の瞳をシズクへと据える。相変わらずその瞳は、独特の色彩を放っていた。人を惹き込む不思議な色。それ故にハーフエルフの瞳は、闇取引の道具となってしまうのだろう。
 「そしてもう一つが――この目なの」
 シズクの心を読んだかの発言に、どきりとする。視線はそのままに、ラナは人差し指で自身の瞳を指差すのだった。
 「私の目は、特別製。人と目を合わせると、その人の『昔』を覗くことが出来てしまう」
 「昔って……」
 「過去の事。その人が見た、聞いた、感じた色々な事。それを私は見ることが出来る」
 衝撃の告白に、シズクは思わず息を呑んだ。過去を透視する。そんな事が、果たして可能なのだろうか。いくら人知を超えた力といえども魔道にも限界というものがある。普通の魔道士や呪術師が引き起こせる力は現在に対してのみだ。過去は既に起こってしまった事で、未来はこれから起こる事。それらに作用する事は不可能であるはずだ。精霊使いが用いる天災の予知能力ですら、未来への『予測』でしかない。彼らとて本当に未来を見ている訳ではないのだ。そんな、魔道の常識を覆すような力が存在しているとは。
 「だから、フェイには注意しなくちゃいけないと思うの?」
 シズクの問いかけに、ラナはゆっくりと頷いた。
 人の過去を透視する事が出来る瞳。もしそれが本当なのだとしたら、先ほどのラナの発言にもが点がいった。ラナと目を合わせようとしない者、それも、彼女と会った時からそうである者。それはすなわち、ラナがハーフエルフで、彼女の能力の正体に気付いているという可能性が高い。頑なに目を合わせようとしないのは、彼女の能力によって、己の過去を透視されるのを拒んでいるともとれる。見られたらまずい過去がある訳だ。
 「あの人達の目的が何なのか、それは私にも分からない。お姉ちゃんのネックレスじゃなきゃ、いいんだけど……」
 ぽつりと呟かれた台詞に、シズクはもう一度息を呑む。そうだ。そういえばラナは、シズクのネックレスの存在を知っていたのだ。そしてそれが、他人に渡してはならない重要な何かだという事まで認識出来ていた。一体どうして彼女に知られてしまっていたのだろうと、ずっと疑問に思っていた。しかし、ラナから自身の能力の正体を打ち明けられて、それらを考えに入れると不思議なくらいあっさりと答えは出てしまうではないか。すなわち――
 「いつもなら、見ようと強く思わないと見える事はほとんどないの。たとえ偶然見えたとしてもほんの少しだけ。でも」
 軽い音をたてて、ラナはベッドに両手をつく。そうして必死の様相でシズクの方を見つめてきたのだ。
 「ごめんなさい……私見ちゃった。見えちゃったの。お姉ちゃんの『昔』」

 ――すなわち、ラナがシズクの過去を透視していたという事。

 「お姉ちゃんが一体誰で、何でここに居るのかも、全部……」
 うなだれるようにして、ラナは涙目で俯いた。
 おそらく、あの時だ。結界の崩壊騒動の後、シズクの自室にゲイルとラナを連れ帰って話をしたあの時。シズクと真正面から目を合わせて、確かに彼女は一瞬表情を強張らせた。そうして、静かに涙を流したのだ。二度目に見せた彼女の涙は、恐怖や自責の念からくるものとはどこか様子が違っていた。あれは、あの時ラナの眼前に映ったであろう、シズクの過去に対する涙だったのだ。
 「わたしが誰で、何で旅をしているのかも見えた?」
 「うん」
 「ひょっとして、ずっと昔の記憶も見れたりする?」
 「……うん」
 一瞬戸惑った後で、控え目な声でラナは返事を返してくる。彼女に自分の過去が、一体どういう形で伝わったかはシズクには分からない。だが、全部というからには、本当に全ての過去をラナに知られているのだろう。イリスピリアで起こった事も、エレンダル・ハインとの戦いの事も、菜の花通りでの一件の事も。そして――
 「紅い空」
 ぽつりと、どこか寂しげに零された声は、乾いた布にしみ込むように、あっという間に部屋の空気へ消えていく。しかしシズクの耳の中で、彼女の言葉はいつまでも反響を繰り返していた。黙ったままシズクは、不思議な力を持つというラナの翠瞳を凝視する。視線の先でラナは、悲しそうな顔をしていた。
 「お姉ちゃんの昔には、紅い空が見えたの。悲しかった、辛かった。……私のと同じ景色。だからお姉ちゃんには、全部話したいと思った」
 今度は自嘲的に、ラナは笑う。おおよそ12歳の少女が、到底浮かべないであろう笑みだった。悲しむようで、心のどこかで安心している。そんな複雑な笑み。
 「私の力の事を話したのはお姉ちゃんが初めて。ゲイルにも、父さん達にも内緒の事なの」
 どうしてそんな重要な秘密を自分に話してくれるのだろう。疑問が心の中に浮かんできたが、同時に答えはシズクの中で出ていた。
 (紅い空)
 それは、シズクが母キユウから例のネックレスを託された日の空の色で間違いないだろう。甘い郷愁の気持ちと、苦い痛みが胸を突く。12年前、全てを失って、シズク・サラキスになったあの日の出来事。それと同じような光景を、目の前のこの少女は見たのだと言った。だから、同じような経験をしたシズクに自身の事を話したいのだとも。
 「私の故郷もお姉ちゃんのように、襲われたの。国中が火に包まれる中で、本当の母さんだけがなんとか私を連れて逃げだす事が出来たみたい。私は生後間もない赤ちゃんだったけれど、その事実だけは何故だかしっかり心の中に刻み込まれている」
 ラナが生後間もない頃なのだから、12年前と考えて良いだろう。先日ハンスから聞いた、エルフの国でのお国騒動の時期とほぼ重なる。そしてそれは、自分が故郷を失った時期とも重なっていた。偶然か必然かと問われれば、必然と答えた方が正解に近い。丁度それは、世界中あちこちで情勢が悪化していた時期でもあったのだから。シズクやラナだけが、故郷を焼かれた訳ではないのだ。
 今は無き大国、ファノスの王が暗殺されたのがすべての始まりだと言われている。それを皮切りに、13年程前からファノス国内での紛争は絶えず、たくさんの町や村を巻き込む戦いが起こった。その結果アンナやナーリアも家族を失って孤児になったのだ。更に戦いは国内の紛争というレベルに留まらず、大陸の東北部から次第に拡大して大陸の東西へ延びた。あの平和国家で有名なミール族の国にも火の粉が及んだというのだからよっぽど酷い戦いだったのだと想像出来る。セリーズ地方にあったというラナの故郷も、イリスピリアにあったというシズクの故郷も、その煽りをくらった形なのではないだろうか。
 (え……? でも)
 だがここでふと、シズクは一つの引っかかりを覚えて眉をしかめる。シズクの故郷が失われたのは確かに12年前である。しかし、紛争に巻き込まれて戦火が襲った訳ではないはずだ。そんな事などあり得ない。なぜならば、シズクの故郷を襲ったのは人間ではなく、魔族(シェルザード)の者なのだから。
 何だろう。何か重要な事を自分は忘れている気がする。魔族(シェルザード)に襲われた故郷。紅い空。そして雨。思い出すのは辛いはずなのに、気がつけばシズクは昔の記憶を掘り起こそうと必死になっていた。けれども何も思い出せない。結局自分は、自分について知らない事の方が多い。
 「お姉ちゃん?」
 いつの間にか、物凄く集中して考え事をしていたらしい。目まぐるしく巡っていく思考の向こうで、ラナの澄んだ声が響く。はじかれたように顔を上げると、ぐっしょりと額や背に汗をかいていた。どくどくと激しく打ち付ける心臓を落ちつけてからラナを見るも、彼女は何かを気遣うような顔でシズクを見ていた。
 「……お姉ちゃんは、大切ななくしものをしているのね」
 少しずつ落ち着きを取り戻していた頭に、ラナの声はしみ込むように入ってくる。なくしもの。確かにこれは、そうなのかもしれない。探しても探しても、完成させたいパズルのピースは見つからない。
 「でもお姉ちゃんは今、自分の力が無くなってしまえばいいのにって望んでるよ? 過去の記憶を取り戻したいと願うのに、過去の力は手放したいと願っている。そのどちらも、お姉ちゃんの過去である事に変わりはないのに」
 それは、とっても矛盾した願いだわ。と少し厳しめの語調で言い放たれる。そこにはもう、ゲイルと一緒にはしゃぐ12歳の少女の姿は無かった。あるのはただ、自分よりも年下であるはずなのに、自分の何倍もの貫禄をもって迫る知性の瞳。同じ種類の光を、シズクは見たことがある。今はイリスに居る水神の神子。セイラの瞳の輝きに、それは非常によく似ていた。彼と同じ輝きの瞳で、ラナはシズクを諭す。シズクの望みは矛盾しているという。手放したいものと手に入れたいものは同じものなのだと。
 「……わたしは、どうすればいいんだろう」
 自嘲気味に呟くと、シズクはラナから目をそらした。心の中に大きな影が落ちる。それはどんどん広がって、シズクの全身を侵食し始める。全身が真っ黒に染まってしまいそうだった。仲間も助けられない。世界の光にもなれない。魔道士見習いとしての自分ももう戻ってこない。一体自分は何なんだろう。この先どうすればよいのだろう。
 「それはお姉ちゃん自身が決める事だよ。私はお姉ちゃんの過去を見ることは出来ても、未来を見ることは出来ない。何が一番良い方法なのか、それは誰にも分からない。ただ――」
 研ぎ澄まされた刃のような光を瞳に宿すと、ラナは真っ直ぐシズクの方を向く。こちらを向けと言われたような気がして、シズクもぎこちない動きで彼女へ視線を戻した。
 「なくしものを本当に取り戻したければ、受け入れる覚悟を決めなきゃいけない。そうしなければ、鍵は見つからない」
 「鍵……?」
 オウム返しに呟いて、シズクは首を傾げる。なぞなぞめいた言葉だった。
 「鍵はきっかけとなる何か。暗号だったり言葉だったり物だったり、人それぞれ違うものだよ。だからお姉ちゃんの鍵が何かも私には分からない。私の鍵は、これだったけど」
 ころんと、冷たい感触がシズクの手のひらに転がり落ちてくる。ラナが何かを手渡してきたのだ。正体を確かめようと手を開くと、新緑の色をした丸いクリスタルが部屋の明かりを受けて輝いていた。先日ゲイルの話に出ていた、ラナの母親が残していったという緑色のクリスタルだと気づく。親指の先程の大きさの、小さなものだった。だが、ひとたびそれを視界に入れて、シズクは今度は違う意味で硬直してしまう。クリスタルを乗せる手が一気に汗ばんでいった。
 「それが、私の一番の秘密だよ。父さんと母さんは気づいたみたいだけど、町の人もゲイルも知らないとっておきの秘密」
 掌に乗っているクリスタルは、一度だけシズクが目にしたことがあるものだった。ただし、以前見たものとは色が違っていたが。そこに掘られた竜の紋章に、見間違えるはずが無い。手のひらで輝くクリスタルは、以前セイラが身分証明代わりに用いたクリスタルと色以外は全く同じものだったのだ。竜は、神の代弁者である証。新緑の色が示すのは風――風神の神子。 
 あぁ、だからゲイルの両親はこれを頑なに隠したがっていたのか。静かに納得する。
 「ラナちゃん……貴方は……」
 「気づいた時は怖かった。でも、私は受け入れたよ。私が誰か、知りたかったから。ねぇ……お姉ちゃんは一体どうする?」
 神秘的な翠瞳に見つめられて、シズクはそれ以上何も言うことが出来なかった。



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