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第8章「異変の始まり」




6.

 宿屋の扉を開けると、予想外に湿り気のある風が蜂蜜色の前髪を掻き揚げていった。夜空を仰ぐと、今夜は星が少ない事に気が付く。どうにも雲行きが怪しい。明日あたり、雨が降るのだろうか。街道は依然として封鎖されたままであったし、昼間の魔物事件で街の雰囲気はそれまで以上に重苦しいものになっていた。その上に雨とは、あまり歓迎されるものじゃないな。とリースは思う。
 「…………」
 きょろきょろと周囲を見渡してから、目的の人物の姿が無いと確認する。夜の闇も濃くなってきた時間帯であるし、加えてこのなんとも言えないじめじめとした空気だ。宿の外には出ていないのかも知れない。食堂には姿が見えなかったから、もしやと思ったのだが……

 「だーれ探してるんだ? リース」

 軽口で声をかけられたのは、眉間にしわを寄せて溜息を零した瞬間だった。今一番出会いたくない部類の人間に出くわした。それだけ認識すると、眉間のしわは益々深くなる。
 「あんま眉間にしわ寄せんなよ〜? ただでさえ無愛想なのに、余計に人相悪くなるぞ」
 「大きなお世話だよ」
 呆れながら声の主を振り返れば、予想通りの人物がそこに佇んでいる。どこからかの帰りなのだろう。街道の方からこちらへ歩いて来たのは、灰色髪のいかにも軽薄そうな印象の剣士、フェイ。しかし、そこに居たのは彼一人ではなかった。フェイの隣には、黒いローブに身を包んだ長身の人物の姿がある。顔が見えずとも、こんな怪しい出で立ちの人間はこの街に一人しか居ない。ルダだ。
 フェイとルダの二人は、リースのすぐそばまで歩み寄ってくると、その場で立ち止まる。それにしてもおかしな組み合わせである。いつの間に彼らは行動を共にするようになったのだろう。しかも、こんな夜に。
 「……私は先に帰らせてもらう」
 しばし緩い沈黙があった後で、ルダが抑揚のない声で暇を告げる。リースと話をする気満々で立ち止まるフェイに、構ってられんといった様子であった。そして、フェイの返事を聞くこともなく宿屋の扉を開けて中へ入って行ったのだ。相変わらず愛想がない。まぁ、自分が言えた事ではないのだが。
 ルダを見送った後、ひゅるりとまた生暖かい風が吹く。
 「ずっと思ってたけどさ。あんたとルダって、一体どういう関係?」
 抱えている疑問は、直接本人に聞けばいいだろう。そう思い、リースは胡散臭そうな眼でフェイを見つめる。視線の先でフェイは、どこかとぼけた顔で肩をすくめると、苦笑いを浮かべたのだった。
 「さぁ、何だろうなぁ。パートナー……は違うな。仲間でもないし……仕事相手?」
 「自分でも分からないって訳か?」
 「それはそうと、俺の質問にも答えてもらいたいねぇリース君。一体誰を探してた? ひょっとしなくても……シズクか?」
 にやにや笑顔全開のフェイに、嫌悪を露にする。だが、彼の口から飛び出した名前を耳にして、ぎくりと体が反応したのは隠せなかった。
 部屋を出て行ったきり一行に帰ってこないシズクを探して来いと、アリスから命令されたのはつい先ほどのことだ。何故自分が、と反論したが、シズクをそうさせた原因はリースにある。と言って彼女は譲らなかった。かなり不服ではあったが、彼女の言い分も尤もなわけで……だからこうして探しに出てきていた訳だ。ただそれだけ。だからフェイに、含みのこもった笑みを向けられる筋合いなどない。
 「なんだよ、その気持ち悪い笑顔は」
 「はいはい、苛々しない。そりゃぁ、昼間あれだけ格好悪い事したら、機嫌が悪くなる気持ちも分からないでもないけどな。だからって、女の子に当たるのは良くないよなぁ」
 やれやれといった動作で呆れの気持ちを示される。リースとしては穏やかではない発言に耳を疑った。
 「聞いてたのかよ……」
 「何が? 喧嘩か? いんや、単にそうだろうなと予想しただけだよ。で……ビンゴだった訳か」
 さっすが俺の洞察力。とかなんとか呟きながら、フェイはにやりと楽しげに笑う。大いに不服ではあったが、こうなってしまってはリースに反論の余地はない。代わりに思い切り睨みつけてやると、それすらも楽しいのか、フェイはひゅうっと口笛を吹く。自分は彼に、まんまとはめられた訳だ。
 どうにもこいつは苦手だ。男版リサと、シズクが笑いながら言っていたが、まさにその通りだとリースも思う。不敵に笑った顔まで、今はイリスに居るはずの姉に似ているような気がして仕方がない。
 「…………」
 かなり腹が立つが、シズクとの言い合いを聞かれていなかっただけマシだと思おう。そう勝手に結論付けながらリースは、無意識に右腕へ左手を添えていた。
 十分冷やしたため、右腕の痛みはほとんどひいていた。アリスの治療によって吐血のダメージもほとんど無くなっていたし、軽い貧血があるだけだ。これも、食事を摂って一晩寝れば治るだろう。だが、根本的には何も変わらない。胸の中で何か重いものが渦巻いているような気分だった。昼間の光景を思い出して、その重みが余計に増す。耐え切れずに暴走させてしまった右腕は、巨大な魔物を真っ二つに両断した。直後に急激な変化がこの身を襲ったのだ。大きな流れが右腕から逆流して、体の中を引き裂こうと回り始めた。そんな感じだった。
 どこかで似たような状況を経験した気がする。その答えは、こちらに駆け寄ろうとしたシズクの表情がくれた。イリスを発つきっかけとなった事件があった。あの晩のシズクと、自分の状態は恐ろしいくらいにそっくりだったのだ。

 「――なぁ、もうひとつだけ質問、いいか?」

 ひゅるりとまた、湿り気を帯びた風が吹き抜けていく。風に乗って届いたフェイの声は、それまでの軽薄なものではなかった。ぴりぴりと張りつめた、切れ味のよいナイフを突きつけられているような声色。彼の急な変化に興味を惹かれて、リースは顔を上げる。少しだけ前方に居る灰色の瞳は相変わらず吊り上って軽薄そうで、けれども不思議な凄みをこちらへ伝えて来た。
 やがてフェイは、にやりと口の端を引き上げて笑う。
 「リース・アーリン・ラグエイジ・イリスピリア――イリスピリアの王子様が、何で旅なんてしてる?」
 「――――」
 ちゃきりと、涼しい金属音を立てて、リースがいつでも抜刀出来る体制を作ったのはその直後の事だった。幾度ものからかいに不貞腐れていた表情は今はそこにはなく、代わりにあったのは見る者が痛いと感じる程に鋭い目つきと冷静な表情。リースの豹変ぶりにフェイが感嘆の溜息を零していた。
 和やかに流れていた空気が一気に冷めていく。もしここに通行人が居たら、その場のオーラに気圧されていた事だろう。幸いなことに、宿屋前の街路は誰一人として通るものは居なかったのだが。
 またもやフェイのカマかけだろうか。一瞬そうも考えたが、彼の瞳はリースに否と告げていた。確実に真実を告げる目的で、フェイはその名を口にした。イリスでは度々聞く、自分の王族としての名前だ。公の場は別として、イリス以外では絶対に口外しない名前でもある。いや、名前だけならば周知の事なのだろう。だが、名前とは違い、リースの顔を見て彼がイリスピリアの王子だと誰もが結び付けられる程、彼の顔は知れ渡っていない。イリスピリアの片田舎であるこの町であれば、それは尚の事である。そんな場所で、それが出来てしまうのだ。何らかの理由でリースの事を密に知っている人物に相違ない。それが敵という可能性も十分にある。
 「……まぁそんなに警戒するなって。俺は、とりあえず敵じゃない」
 「その言い方は、味方じゃないとも取れるな」
 「リース。俺はあんたの正体については気づいているが、あんたらの敵とする奴らが一体誰かは知らない。敵が誰か分からないんじゃぁ、味方にもなれないだろ? 要するにまぁ、通りすがりの知人って感じだと思ってくれよ」
 これだけリースが敵意をむき出しにしているのに、フェイは少しも動じなかった。それどころか余裕の構えで苦笑いを浮かべる始末。剣を構えようとかそういう動きは、一切無かった。しかしリースはまだ警戒を解かない。
 「知人? 俺はあんたの顔なんて会うまで見たことが無かったし、あんたが何処の誰かも分からないけど」
 「そういうニュアンスって事だ。俺だってイリスピリアのリース王子の顔なんて、お前がそうと気づくまで全く知らなかったよ」
 フェイの言葉にリースは怪訝な表情になる。顔を知らなかったのに、一体どうやってフェイは、自分がそうであると気づけたのだろう。
 「お前のその、右腕だよ」
 答えは、疑問に思った途端に、間髪入れずに与えられた。
 「右腕に化け物抱えてる金髪緑眼の美形の少年。これらの条件に当てはまって、更にそいつの名前が『リース』って事を知ったら、結論に至れる人間は、世の中に多少は居る。加えて決定打になったのは、アリシア姫の存在だな。水神の神子、セイラーム・レムスエスの愛弟子であるエラリアのアリシア姫。彼女はイリスピリアのリース王子の又従兄妹に当たる上に幼馴染だ」
 (こいつ……アリスの事まで知ってるのか?)
 いつになく饒舌なフェイを、今度ばかりは呆気にとられた顔で見るしかなかった。彼の剣の腕を見る限り、並の使い手ではないとは思っていたし、旅の冒険者と名乗っているが、果たしてそれが本当かどうかも怪しいところだと思う。だが、フェイがここまで自分とアリスについて核心の部分まで知っている人物だとは思いもよらなかったのだ。イリスピリアの貴族の者だろうか。いや、彼らならばリースの顔を知っている。魔法学校や国立学校の関連も考えてみたが、どれもこれもしっくりこなかった。
 「あんた、何者だよ?」
 「それはお前が考えろって。俺だって自力でお前の正体に気づいたんだから」
 それが出来ないから、こうして問うているのに。しかめつらで睨みつけるも、フェイは相変わらず飄々としている。数秒おかしなにらみ合いが続いたが、やがて諦めて溜息をつくと、リースは完全に警戒を解いたのだった。剣の柄から手を離して体中の力を抜く。そんなリースの様子を見て、フェイは満足そうに笑った。
 「ま、俺の正体なんて知っても、お前らには何の利益もないけど。そうだなぁ。ヒントをやるとすれば……」
 顎に手を当てるしぐさをしたかと思えば、フェイはリースに向かって人差し指を突き立てていた。
 「俺は、お前とアリシア姫の正体は見抜けたけど、シズク――彼女の正体だけは分からない」
 「シズク?」
 言われてまた、胸が変な音を立てる。今この名前を他人の口から聞くのは、どうにも心臓に悪かった。
 「そう、シズク。俺の知識の中にはそんな名前の人物は存在しない。彼女が一体何者で、何で王族御一行と旅をしているのかさっぱりわからねぇ。実を言うとかなり気になってるんだよなぁ。教えてくれたら、俺の正体教えてやってもいいけど?」
 「冗談。それこそあんたが自力で考えろよ」
 リースとしても、フェイの正体はかなり気になるとこではある。だが、それを知る引き換えにシズクの情報を漏らせるかといえば、もちろんそんな事出来るはずがなかった。シズクの情報は、シズクだけのものだ。リースが勝手にどうこう出来るようなものではない。それに、フェイとて本気で持ち出した取引ではあるまい。
 「やっぱダメか」
 案の定彼は、少しだけ残念そうに肩を落とすと、苦笑いを浮かべるのだった。
 「リース王子が体張ってまで守ろうとする少女。気になるんだけどなぁ」
 「何だよその言い方」
 いかにもな含みのある言い方をされて、リースはムッとなる。こういう部分まで姉のリサそっくりである。
 「守ろうとなんて……」
 ほとんど独り言のように呟いてから、リースはフェイから目を逸らす。
 守るとか守られるとか、そんな事、きっとシズク自身が望んでいない。自分の身は自分で何とかしたい。彼女ならばそう言って、この手をはねのけるだろう。第一、誰かを守れる程、自分は強くはない。今の体の状態を考えると、尚更そうだった。今日だって――
 「でも、守りたかったんだろ? 昼間は」
 やんわりと視線を灰色髪の男へ戻すと、穏やかなフェイの顔がそこにあった。普段軽薄そうな笑顔を振りまく彼にあるまじき表情である。一気に毒気を抜かれて、リースはまたもや放心してしまう。直後に零された勝ち誇ったような笑みを見ると、してやられたような気になるが、驚いていたのだから仕方がない。
 不思議な男だ。とリースは思う。乗合馬車の一件で出会った時は、何に対しても軽い人間だと思っていたのに、実際はそうでもないような気がする。
 「いいね。惚れた女を懸命に守ろうとする姿勢。俺は嫌いじゃない」
 「惚れ――」
 てなんかない。
 そう紡ごうとしたが、結局言葉が終わらないうちにリースの口は閉じられてしまう事になる。目と鼻の先の距離で突きつけられた、剣先の出現によって。
 少し視線をずらすと、剣を構えるフェイの姿が見えた。
 つい一瞬前まで彼は、いつもと変わらぬ調子で自分と会話をしていたのだ。抜刀の気配なんて全く感じなかった。彼の剣が抜き放たれた事にも、こうして目の前に突きつけられるまで気付けなかった。背中を汗が伝う。フェイは相変わらずの笑顔のまま佇んでいたが、切っ先に込められた殺気は尋常ではない。少しでも動くと命はない。そう言われているような圧力を感じる。そこに横たわるのは、圧倒的な力の差だ。
 「……どういうつもりだよ」
 競り上がってくる恐怖を無理やりに押し殺して、リースはフェイを睨みつけた。敵ではないとぬかしながら、やっぱり目の前のこの男は、自分の敵だったのだろうか。今から自分は、この剣で突かれて死ぬのだろうか。一瞬そんな事が頭を過ぎったが、他でもないフェイが発したため息によって、剣先から伝わる殺気は消えてしまった。するりとリースの眼前からフェイの剣が遠ざかっていく。
 「……お前だけが特別と思ったら、大きな間違いなんだよなぁ」
 「は?」
 「だから――『右腕』だよ」
 ザンッと空気が切れる音と同時に、リースの体を何かが貫いた。痛みを感じる間もなく血しぶきが自分の体から上がり、フェイの顔を怪しく濡らしていく。頭の中に浮かぶ敗北の二文字と、ものの見事に切断された自分の右腕。それは、赤い雫を零しながら空を――

 「――――っ」

 気がつくと、息を吹き返したように荒々しく肺の空気を吐き出していた。耳元で鼓動がうるさく鳴り響き、激しい動機がする。自分は一体、どうなった?
 恐る恐る右手を動かそうとしてみるが、それは何の障害もなく無事に動いた。両断されたはずの右腕はちゃんと自分の体と繋がっている。それどころか、無傷で全く痛くはない。フェイの顔も、返り血で濡れてはいなかった。
 「右腕に化け物抱えてるのは、お前だけじゃないんだぜ、リース」
 冷や汗を垂らしたまま立ち尽くすリースを、おかしそうに見つつ、フェイがこぼした。それにすら返答できずに、リースはただ困惑した瞳で見つめ返す事しか出来なかった。フェイは一体何をしたのだろう。一度は完全に消えた殺気が、さきほどの瞬間一気に増大した事だけは確かだ。それこそリースが白昼夢のように嫌な光景を見てしまうくらいに。
 「昔さ、お前みたいに突っ走った挙句、命を無くした馬鹿な男を知ってるんだよなぁ。まったく、危なっかしくて見てられねー」
 何の話だ。と思うものの、肩をすくめるフェイの様子を未だに見ていることしか出来ない。だから、妙に真面目くさった顔で述べられた次の台詞も、最初は何の事かリースには分からなかった。
 「……教えてやるよ、扱い方をな」



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