+ 追憶の救世主 +

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第8章「異変の始まり」




7.

 「――――」

 名を呼ばれたような気がした。空を見上げると、真っ赤な色が広がる。自分のすぐ傍には、焦りを滲ませる母の姿。
 (あぁ、またこの夢か)
 自覚してシズクは呟いていた。そう、これは夢だ。故郷を焼かれた日の、悲しい記憶。
 幼いシズクに銀のネックレスを託すと、母は逃げろと告げる。いやいやをして拒否しても、決して聞き入れてくれることはない。過去は既に起こってしまった事だ。変わりはしない。だから、シズクがどんなに願ったとしても、夢の中で母は同じ事を繰り返す。
 「この『石』は、偉大なる遺産。荷が重いものを託すことになる」
 ネックレスの事を母はそのように述べる。石とは、あのプレートの裏側にはめ込まれた透明な石の事なのだろうか。悲しい光景を見詰めながら、シズクは考える。しかし、これだけではちっとも足りなかった。自分にはたくさんの記憶が欠落している。

 ――なくしものを本当に取り戻したければ、受け入れる覚悟を決めなきゃいけない。そうしなければ、鍵は見つからない――

 そうだ鍵だ。鍵を探さなければ。無くしたものが手元に戻ることはない。
 「さぁ、走って!」
 母に背中を強く押されて、幼いシズクは走りだす。無我夢中で走った。
 探さなければ。
 ――何を?
 鍵を。
 ――何のために?
 欲しくてたまらないものを取り戻すために。
 ――そのためには覚悟が必要なんだよ? その覚悟が出来ているの?
 でも、欲しくて欲しくてたまらないの。
 ――それは、答えになっていないよ。
 いやいやと首を振り、幼いシズクは泣きながら走る。探さなきゃ探さなきゃ。
 真っ赤な空は、徐々にどんよりとした鉛色に変わっていく。轟音と震動は消えない。戦いも未だに続いている。魔族(シェルザード)は完膚なきまでにシズクの町を破壊したのだから。
 走って走って、やがて幼いシズクは何かにぶつかってこけてしまう。

 「ねぇ、どうしたの?」

 懐かしい声が、聞こえた――






 「――――っ」
 声にならない悲鳴をあげて、シズクはベッドから飛び起きていた。水を打ったような静けさに包まれる部屋とは裏腹に、胸はありえないくらいの高速で早鐘を打ち続けていた。
 隣のベッドを見ると、同室のアリスは未だに夢の中だ。気持ち良さそうにすやすやと眠っている。規則的な彼女の寝息を聞いているうちに、シズクは徐々に冷静さを取り戻していた。くしゃりと、焦げ茶色の前髪を鷲掴みにする。額には大量の汗が浮かんでいた。
 ――久しぶりに、変な夢を見た。
 悪夢というよりは、不可解な気持ちにさせられる夢だった。何故こんな夢を見たのか、答えは明白だ。昨日の夜ラナと交わした会話が原因だろう。昨夜自室に戻った後も、様々な事を考えすぎてなかなか眠れなかったのだ。
 (覚悟、か……)
 魔道の力を捨てる覚悟なら、イリスを出る時に既にしたはずだった。だが、ここにきてそれに揺らぎが生じてきている。自分の中にある矛盾した考えに気づいたからだ。過去の力を捨ててしまいたいのに、シズクは過去の自分を強く求めている。二つの願いが同時に叶う事はない。片方が叶った瞬間に、もう片方の希望は切り捨てられる。
 (……止そう。考えても今は答えなんて出ない)
 無限ループに迷い込みそうな思考を強制終了させると、溜息を一つつく。
 徐に窓へ視線をやると、外は未だ薄暗かった。起きるには大分早い時間帯である。その上、しとしとと雨が降る音も聞こえるものだから、雨が嫌いなシズクは、しかめ面を作ってもうひとつ溜息を落とした。こういう時は二度寝をするべきだ。けれども目はすっかり覚めてしまって、そんな気にはなれなかった。しばし考えるも、このままぼうっとしているのも勿体ないように思える。
 「…………」
 意を決してベッドから出ると、ひんやりした床の温度がシズクを迎え入れた。初夏に近づく季節ではあるが、まだまだ朝は冷え込む。アリスを起こさないよう慎重な動きで靴を履いて立ち上がると、シズクは身支度を整え始めたのだった。パジャマを脱ぎ普段着に着替える。顔を洗ってから焦げ茶髪をいつものようにポニーテールにくくると、念のためにと棒を腰に下げ、そっと部屋を出ていった。
 廊下の窓から覗く空もやはり薄暗く、街路は雨のせいもあって朝霧に包まれている。さすがに宿のスタッフは起きているようで、階下から物音が聞こえてきていた。食堂で仕込みをしているのかもしれない。他の宿泊客も寝静まっているような時間だ、朝食にはまだ早い。さてどうしようか。と首を傾げたところで、すぐ隣の扉が開いたものだから、シズクは驚いてしまった。
 「あ……」
 それは、扉を開けて出てきたリースも同じであったようで、シズクの姿を視界にとらえるや否や呆けた表情でその場に停止した。起き抜けなのだろう。普段はサラサラと流れる蜂蜜色の髪は、ところどころ寝癖で軽くはねていた。なかなか見られない光景に、シズクは自然と頬を緩ませる。
 「おはよう」
 「……おはよう」
 喧嘩の翌日だ。気まずさはぬぐえなかったが、それでも努めて爽やかに挨拶すると、意外にもすぐに返事が返ってくる。あくびをかみ殺すと、リースはくしゃりと頭をかいた。気だるそうなその様子から寝不足である事は容易に見てとれる。
 「あんまり眠れなかったの?」
 「まぁそんな感じ。寝たのも遅かったし。……そっちこそこんな早朝に何しに行くつもりだ?」
 「さぁ、目が覚めちゃったからとりあえず起きてみただけなんだけど」
 苦笑い交じりに告げるシズクに、リースはなんだよそれは。と零した。しかし、リースの早起きの理由もきっと自分と似たようなものだろうと思う。寝ぐせがついているあたり油断していたのだと思うが、身支度を整え、腰には例の黒刀の剣が下げられていた。剣を見ると、流れとしてついリースの右腕へと視線が行ってしまう。気にならないといえば嘘だ。だが、もう問いただすような事はしなかった。それよりは、目下一番解決せねばならない問題をどうにかすべきだろう。
 「うん。リースが起きてるんなら丁度良いわ」
 「?」
 「ちょっと付き合ってもらいたいのよね」
 怪訝な表情を浮かべたリースの腕をひいて、シズクは言った。






 朝霧がかかるシュシュの町は、晴れた日中の賑やかな時とは全く違う姿をしていた。人影どころか道を横切る野良猫の姿すらなくて、とても静かだ。耳に届くのは、傘の上を踊る雨粒の音と自分たちの足音だけである。起きている町人の方が少ないのだから当たり前といえば当たり前の事だったが、違う町にやってきたような錯覚に襲われていた。まだ空が薄暗いというのも、その事に拍車をかけているのかも知れない。
 ホーリス亭前の街路を抜けて、シズク達は大きめの道へと出る。その道をしばらく歩くとそこは、昨日の魔物騒ぎが起こった現場だった。
 3匹の魔物が残した爪痕は深い。街路のタイルはところどころ剥がれたりひび割れたりしており、周囲の建物は全壊半壊様々だ。倒壊した家屋を雨が濡らす事で、より一層の悲壮感を見る者に与えている。改めて、死者が一人も出なかったのが奇跡的な事であったのだと思い知らされた。
 イリスピリア国軍によって仰々しいバリケードが設けられていたが、この時間帯は兵士の姿を見かけなかった。既に事が起こった場所より、町の出入り口と結界へ警戒を向けているのだろう。
 傘を一旦畳んでから、バリケードを軽い身のこなしで乗り越え、二人はほぼ廃墟と化した街路に降り立った。風が吹くと、埃と湿り気を含んだものがこちらに流れてくる。
 「……ねぇ、リースはどう思う?」
 「どうって、昨日の魔物騒ぎか?」
 周囲をきょろきょろと見まわしながら述べるリースに、シズクは肯定を示す意味で頷いた。
 「結界も修復された後だったし、普通に考えて、街中で魔物が出現するなんて有り得ない話だよな。だとしたら考えられるのは一つ。人為的に奴らが召喚されていたという事」
 「だよね。フェイとルダも言ってた」
 倒した直後に亡骸が消えてしまったところからしても、そう考えるのが最も妥当である。昨日あらわれた魔物たちは、十中八九誰かが召喚してけしかけたものだ。
 「で、そこまで考えて、物凄く嫌な思い出と被ってしまう事に気がついたのよね」
 「同感。俺もそれは思ってた」
 リースが一歩足を進めると、足もとのレンガが鈍い音をたてて盛り上がる。構わず歩き続ける訳だが、盛り上がるレンガは一つや二つではなかった。油断していると、足をひっかけて転んでしまいそうである。憂鬱な気分になりながら、シズクは足もとに注意を払って歩く。
 街中で魔物が出現して騒ぎを起こすような事態に、シズクは過去にもう一度だけ遭遇した事があった。隣にいるリースも同じだ。なんといっても、彼と初めて出会った時こそがそうだったのだから。忘れもしない。
 『菜の花通り』
 打ち合わせしたわけでもないのに、シズクとリースの声が見事に重なる。そのあとに零された、重苦しい溜息までが同じタイミングであった。
 シズクが初めてセイラと出会い、野盗や魔物が絡むなんともきな臭い事件に巻き込まれた通りの名前、それが菜の花通りだ。あの時シズク達を襲った魔物も、今回のシュシュでの件と同じように、召喚されたものだった。
 もちろん、街中に魔物が召喚される事などそう滅多に起こる事ではない。普通の魔道士ならば、たとえどれだけ強力な魔力を持った魔道士であったとしても、一般人がひしめく町に魔物を解き放つような暴挙は犯さない。だが、そんな滅多に起こらないものが、現にシズク達の身には二回降りかかってきているのだ。嫌な予感がする。
 「……クリウスだと思うか?」
 街路の隅っこまで歩いたところで、ゴリッとレンガの一つを盛り上げてから、リースは立ち止まる。そうして、真剣なエメラルドグリーンの瞳をシズクに据えた。
 菜の花通りの件と今回の件が、もし同一の者による行いだったとしたら、それは魔族(シェルザード)によるものだ。執拗にセイラの杖を狙い、シズク達と敵対をし続けてきたのが彼らであるから、この考えはおそらく間違っていないと思う。魔族(シェルザード)の少年クリウス。菜の花通りで魔物を召喚していたのは、彼だった。だが――
 「わたしは、違うと思うの」
 視線はリースに合わせたまま、シズクはゆっくりと首を横に振る。それを見て、リースは怪訝な表情を露わにするのだった。
 「クリウスは、確かにエレンダル・ハインの一件でわたし達を襲撃していた犯人だった。それは間違いないのだけど」
 つい最近、再会したばかりの銀髪少年の姿を思い浮かべる。イリスピリア城で出会った時の彼は、初めてシズクと出会った時とは違う雰囲気を纏っていた。あれが、より本来の彼に近い姿なのではないか。
 「彼は、街中に無差別で魔物を放つような事は、しなかった」
 「? なんでだよ。菜の花通りで――」
 「あの時もクリウスは結界を使って、特定の人だけを魔物に襲わせるようにしていた。カンテルの町でアリスを攫った時もそう」
 初めは、結界魔法が得意な魔族(シェルザード)だから、見せびらかすように無意味に結界を構築しているのかと思っていた。愉快犯なのかとも思っていたくらいだ。だが、実際にクリウスが結界を用いたのは、町の中で何か事を起こす時と、エレンダルの城でセイラの動きを封じる時だけだった。街道で魔物を召喚してきた時は、結界など用いた形跡は無かったのだ。
 「ところが、昨日の魔物騒ぎではそんな配慮は一切無かった。町の人が居る街路のど真ん中に、巨大な魔物を三匹も召喚しているの」
 そんな事をすればどうなるかは、誰でも分かる。戦闘の知識をほとんど持ち得ない町人達はパニックを起こし、傷つき逃げ惑った。街路は見るも無残に破壊されてしまい、現在シズク達が居る現場の通りだ。
 「……随分あいつの肩を持つけど、あいつはカンテルで美女を十数人誘拐して、間接的にではあるけど、彼女らを殺してるんだぞ? 投獄されたエレンダルを殺害したのも恐らく奴の仕業だし。今までがたまたまそうだっただけで、今回のこれは本当に無差別犯罪だったのかも知れない」
 あからさまに不機嫌な表情を浮かべるリースにシズクは苦笑いを浮かべる。クリウスの話題となればいつもこうだ。
 確かにリースの言う事も一理あるし、シズクとしても、クリウスが善人であるとは欠片も思っていない。彼がこれまでやってきた事はどれもこれも、決して良い事ではないのだから。しかし、結界を構築するには綿密な作業と集中力、加えてそれなりに大量の魔力が必要とされるのは事実である。それだけの手間を、いちいちやってきていたクリウスだ。彼は、目的のためには手段を選ばないが、その対象はあくまで目的となる人や物に対してであって、それ以外の人に向けられるものではないのではないか。だから結界で、彼が対象とする人物以外への被害を防ごうとしたのではないか。そのように感じるのだ。無差別に町人を襲わせる事を、快くやるような人物ではない。
 「……まぁ、その辺をハッキリさせるために、こうして俺をつれてきたんだろうけど」
 シズクを見やり、リースは小さくため息をついた。そうして、二人して廃墟と化した街路の隅っこで、雨に濡れ、ひと際毒々しい赤を放つ魔法陣へと視線を向けたのだった。



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