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第8章「異変の始まり」




8.

 シズクにとって、イリスでの一件だけでも十分すぎる程目まぐるしい変化だった。これ以上身の回りを変化させたくなくて旅立ったはずなのに、旅立って以降今度は全く別の方向から事件は起こり続ける。様々な事が起こりすぎていて、何から手をつければ良いのか分からないというのが正直な感想だった。気になる事も山ほどある。気になったところで、その全ての真相を知れるかというと難しいとは思うが……ただ、そんな中で、一番どうにかしなければいけない且つ最も手を出しやすい問題はこれだろうとも思った。そう思ったからこそ、リースを連れて雨の中ここまで出てきたのだ。
 湿気と埃を含んだ風が舞う。濡れたレンガの上で、その魔法陣は赤色を毒々しくくすませていた。現場検証を行っているはずの国軍はもちろんこれを発見しただろう。だが、その場にこれを解読できる人間が居たかどうかというと、怪しいものだとシズクは思う。シズクも、オタニア魔法学校から旅立つ直前まで知らなかった。
 「魔族(シェルザード)文字」
 傘を持ったまましゃがんで、シズクは魔法陣を覗き込む。一見すると模様のように思えるが、その一つ一つが文字であり、意味を宿す。さすがに解読は不可能であったが、旅の中で何度か見るうち、今ではこうして見た瞬間に何であるか判断するくらいは出来るようになっていた。魔族(シェルザード)が用いる魔族(シェルザード)文字である。魔法用の粉で書かれた文字群は、円形を形作り魔法陣を成していた。赤黒い色は魔法が既に発動したという事を示す。即ち、この街路に魔物を召喚した大本であるという事だ。
 「見た感じは、今までの召喚用の魔法陣と同じだな」
 リースもシズクの隣にしゃがみ込むと、雨で濡れる魔法陣を右手でなぞる。確かに、描かれた魔法陣は以前の旅でシズク達を悩ませたものと同じ形をしている。陣を描くために使われている粉も、全く同じものだろう。
 「うん。でも……」
 (違う)
 胸中でシズクは呟いていた。
 そう、違うのだ。これは少なくともクリウスが作ったものではない。文字が放つ雰囲気とでもいうのだろうか。魔法陣の持つ気配が、明らかにあの銀髪の少年のものとは違うと語っていた。筆跡と似たようなものかも知れない。
 「シズクの予想が当たりって訳か」
 リースも同じ考えに至ったらしい。視線を魔法陣に向けたまま、少しだけ不服そうな声色でそう告げてくる。だが、陣に羅列された文字を読み解くエメラルドグリーンの瞳は、真剣そのものだった。
 「――『ダイモス』」
 しばらくしてから、複雑に描かれた文字の、ある一点を指さしつつリースはそう零す。突然飛び出した単語だったが、シズクにはそれが一体何であるか分かった。術者の名前である。この魔法陣を構築した魔族(シェルザード)の名前はダイモスというらしい。それにより、クリウスが作ったものでないという事が確定する。そして同時にそれは、クリウスでもルビーでもない、第3の魔族(シェルザード)の登場を示唆していた。自分たちの旅に、彼らの存在は切り離すことが出来ないものなのだろうか。
 魔族(シェルザード)による町の襲撃。ここまで状況証拠がそろってしまうと、これまで起こってきた一連の事件も全て彼らの仕業と考えても無茶ではなくなっている。そして最終的にはやはり浮かんでくる疑問があった。すなわち、何故彼らがこんな事を行ったかという疑問である。そこまで考えが行き着いたところで、胸が小さく痛んだ。瞳を伏せると、シズクは力なく項垂れる。
 「わたしのせいなのかな」
 正確には、シズクが銀のネックレスを持っているからだろうか。
 服越しに鎖の感触を確かめて、ゆっくりとそれを握りしめる。イリスピリア城でクリウスと遭遇した時、これを手放すならばシズクは厄介な騒ぎから抜け出す事が出来ると告げられた。魔族(シェルザード)達は、何故だか分からないがこれを手に入れたいらしいのだ。
 もし、これが目的で町の結界を破壊し、更には町の中に魔物が放たれたとしたら、恐怖にひきつった町人達も、魔物騒ぎで負傷したり住む家を失ったりした人たちも、完全なるとばっちりという事になってしまう。シズクがこの町に滞在しているから。たったそれだけの要因で、彼らは被害を被ったのではないか。
 「それは、違うと思うぞ」
 「え?」
 驚いて顔を上げると、意外に真剣なリースと目が合ってどきりとする。しばし見つめあった状態が続くが、やがてリースの方から目を逸らし、彼はゆっくりとした動作で立ちあがったのだった。
 「……あんまり意識しすぎるなよ。考えすぎると疲れるだけだ」
 呆れが籠った溜息とともに、そんな言葉が上から降ってくる。
 「魔族(シェルザード)達はお前のそのネックレスに執心している様子だったけど、今回は多分それだけじゃないだろ。狙いがネックレスだけだったなら、回りくどく町の結界を壊す必要なんて無かっただろうし。魔物なんて召喚してばか騒ぎを起こすより、直接あいつらが乗り込んで来る方が手っ取り早い。それよりむしろ、俺には奴らがわざと『恐怖』を煽っているような気がして仕方が無い」
 「恐怖を、わざと?」
 リースの考えには確かに説得力があった。シズクからネックレスを奪う事だけが目的であれば、これまでの彼らの行いは回りくどいと評価されても仕方のないものだったからだ。町の結界を壊したからといって、ネックレスが奪えるかというと否である。魔物騒ぎにしても、召喚された魔物たちは必ずしもシズク達を狙っていた訳ではなかった。でも――
 「それこそ一体、何のために?」
 首を傾げながら、シズクはリースを見上げていた。ぶつかった若葉色の視線はいつになく研ぎ澄まされている。
 「さぁ、はっきりは分からないけど。……あれが全てを物語ってるんじゃねーか?」
 鋭く言い放つと、リースは視線を魔方陣がある場所から少し行った部分に移した。倒壊した家屋と瓦礫のみが存在するはずのその空間に、赤黒い文字が浮かび上がっている。それを視界に入れてシズクは、背筋に冷たいものが走ったのを感じた。魔法陣に気を取られすぎていて、全く気付けなかった。白い壁に描かれたその文字の方が遥かに人の目を引くはずなのに。

 『我らは破滅を望む』

 あっさり過ぎるくらい簡潔な一言。白壁に書きなぐられた文字は、この世界の共用語で綴られていた。






 「あ、お帰りなさい」
 雨の街路を引き返し、ホーリス亭の扉を開けた瞬間、シズク達を出迎えたのはアリスのそんな一言だった。シズクが部屋を出た時は夢の中に居た彼女は、今ではすっかり身支度を整えて、営業を開始した食堂で朝食を食べていた。焼けたトーストの香ばしい匂いと、お茶が注がれたカップから立ち上る湯気がシズクの心を緩ませる。帰ってくる間ずっと強張っていた体が、ここにきてようやく解れた。
 「? ……何かあったのかい?」
 続いて声をかけてきたのは、アリスの向かいの席で、同じく朝食を摂っていた商人のハンスである。宿屋に入ってきた時のシズクの表情は、それは酷いものだったのだろう。表情の変化を目ざとく察知して、彼は怪訝な顔になる。空いているテーブルの席について、とりあえずシズクとリースもモーニングセットを注文する。運ばれてきた水を一口飲んでから、先ほど廃墟と化した街路で見てきたものの内容を二人に報告したのだった。
 昨日の魔物は誰かに召喚させられていたのだろうという事。その魔法陣を発見した事。そして、人間に読める言語で、不吉な言葉が書きなぐられていた事。
 ハンスがいるため、魔族(シェルザード)文字については深く語らなかったが、雰囲気でアリスは察したのだろう。黒瞳が真剣な色を帯びるのをシズクは確かに見た。
 「我らは破滅を望む――か。無差別犯罪を暗示するもののようにも取れるね。そっか……それでイリスピリア軍がピリピリしているのか」
 半ば独り言のように呟いてから、ハンスはうんうん頷き始める。そして、深刻そうな顔でシズク達の方へ向きなおった。
 「どうやらね、おかしな事が起こっている町はここだけじゃないみたいだよ」
 「え?」
 「イリスピリア東部を中心として、いくつかの町で同様の被害が出ているらしい。さすがに街中に魔物が召喚されたのはシュシュだけみたいだけど、町を守る結界がたて続けに消失して、現在復旧作業中なんだとか」
 ハンスの告げた内容に、シズクは目を見開いて驚きを露わにする。リースやアリスにしてもそれは同じ事だった。
 ひとつの町で起こったとしても十分異常事態であるのに、いくつかの町でシュシュの町で起こっているような事件が発生しているのだという。もしそれが本当だとして、シュシュの町の事件と関連性があるとするならば、それら全ては魔族(シェルザード)の仕業という事になるのではないか。
 「…………」
 先ほどのリースの言葉が益々真実味を帯びてきた。他の町でまで魔族(シェルザード)達が騒ぎを起こしているというのなら、シズクのネックレスが狙いという線は完全に消える。町の結界を破壊して得られるのは、町人達の不安で引き攣る表情だ。奴らの狙いは、町人達の恐怖を煽る事。そして最終的に望むのは――破壊。
 「ところで、おっさん。あんた随分と詳しいようだけど、その情報は本当に信じられるものなのか? 一体何処から手に入れてきたものだよ」
 街道は未だに閉鎖されたままなのに。と、リースは怪訝な顔をハンスへと向ける。言われてシズクも確かに。と思った。
 旅商人という職業柄のためか、ハンスは何かと情報通ではあった。だが、街道が閉鎖された状態が続く今、町の中の噂話はともかく、果たして町の外の様子を知る事など出来るのだろうか。いや、普通はできないはずである。街道の行き来が許されているのは、イリスピリア国軍か、国軍が特別に許可を下した、生活に必要な物資を輸送する馬車のみだ。
 「あぁ、それはね」
 不審顔のリースにしかし、ハンスは別段気にする様子はない。苦笑いを向けると、彼は軽い口調で語り始める。
 「酒場だよ」
 ピッと。ふくよかな人差し指を立てて、ハンスは得意顔になった。
 「酒場?」
 「そう。どうせ街道が閉鎖されているうちは身動きが取れないんだし、せめて情報収集を、と思ってね。イリスピリア兵も人の子だ。酒場で酒を飲みかわして、噂話に花を咲かせる事もあるよ。要するに俺は、そういう人たちの話に加わったんだよ」
 情報収集は酒場から。これがハンスの持論であるらしい。なるほど。イリスピリア国軍の者ならば、情報が入ってきにくい状況の今でも、イリスピリア国内の情勢に明るいだろう。酒に酔った状態ならば普段より余計に話は聞きやすいのかも知れない。ただし、これは酒が全く駄目なリースには絶対にとれない手段だな、と思う。隣で何とも言えない顔をしている彼を見ながら、シズクはそんな事を考えていた。
 「まぁなんにしても、あまり芳しい状況じゃないのは確かだよ。街中であんなことが起こったんだ。学び舎はしばらく休校。商店もほとんどが営業を見合わせるらしいし。出歩く事も極力しないよう軍から通達が来てる」
 「……そんな調子だと、当分シュシュから出られそうには無いわね。先の事件で街道の閉鎖期間は更に延びてしまいそうだし」
 暗い面持ちで言ったのはアリスだ。掠れた声には、焦りの色が滲んでいる。先を急ぐ旅であるのに、進展どころか益々の事態悪化をもってシュシュで3度目になる朝を迎えているのだ。滞在期間は更に伸びる可能性が高い今、それは無理もない事であった。
 シズクとしても、わざわざイリスを飛び出して自分に同行してくれたアリスとリースを長期間巻き込んでしまうのは悪いと思う。だが、その一方で魔女の元へ着くのがいつになるのか分からないという今の状況に、心の片隅で安堵のため息を零しているのもまた事実だった。
 イリスを発つ時、確かにシズクは決めたはずだ。魔女に会い、彼女に自分が何を望んでいるのか真っ直ぐに伝える覚悟もあった。しかし今になって、本当にそれでいいのだろうか、という疑念が湧いてきている。昨夜、ラナから告げられた言葉が引き金となり表面化した気持ちである。いや、彼女に言われずとも、その気持ちは旅の間で少しずつ大きくなり続けていたはずだ。どうすればいいのか。頭の中で葛藤は未だに続いている。
 「でも、光明はある」
 暗い思考に沈んでいたシズクの耳に、ハンスの声が届く。一瞬、自分の考えを見通されているのかとどきりとしたが、そんなはずがないと直にその考えを打ち消した。彼が光明があると言っているのは、もちろんシズクの事についてではなくて、今のこの、シュシュの町での状態に関してである。
 「これも、酒場で兵士達から聞いた話だけど。事態を重く見たイリスピリアの行政が、シュシュの町に、ある人物を派遣する事を決定したらしい」
 「へぇ、それはまた大事になったな」
 どこか他人事のようにリースは告げる。その決断を下したうちの一人は、父であるイリスピリア王だろうというのに、実に淡白な態度だ。
 「で? 一体誰が?」
 「イリスに住んでた君なら聞いた事くらいあるんじゃない? ジェラルド・ガウェイン。12大臣の一人であり、イリスピリア軍の最高司令官でもある人物だよ。12大臣直々に来訪なんて、さすがに大袈裟過ぎると思うんだけどね」
 「――――」
 苦笑い交じりでハンスが告げた内容に、ものの見事に表情を固めたのはリースとアリスの二人であった。シズクは、その重要人物とやらの名前を聞いてもいまいちピンとこなかったため、首をかしげるに留まる。二人がここまで表情をなくす理由が分からなかった。12大臣というと、例の秘密会議で自分についてあれこれと話し合っていた連中である。顔を合わせるといろいろと面倒な事になりそうだなとは思うが。
 「そこまでの権力者がこの町を訪れるんだ。旅人連中を集めて、彼に直談判してみる価値は十分にある」
 やる気満々の様子でハンスが告げても、リースとアリスの表情が緩む事はなかった。



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