第8章「異変の始まり」
9.
「シズクは、アレクサンダー・ガウェインを知ってる?」
朝食を終えて部屋に戻った途端、アリスがそのように話を持ちかけてきた。告げられた名前を頭の中で反芻するが、数少ない知り合いの中にそのような名前の人物は存在しなかった。返事を示す意味で、首をゆっくり横に振る。予想通りの反応だったのだろう。アリスは別段表情を変えることはない。
「イリスピリア国立学校に通う学生なんだけど、リースの親友の一人よ」
「リースの?」
現在この部屋には居ない彼の名前が登場したことで、シズクは目を見開く。当のリースはというと、朝食の席に突如現れたフェイによって、どこかへ連れて行かれた。リースがそれほど嫌がるそぶりを見せなかった事に少々違和感を覚えたが……あの二人、いつの間に仲良くなったのだろうか。
「イリスピリアの上位貴族であるガウェイン家の嫡男でもある。次期跡取り息子ね。で、その彼の父上がジェラルド・ガウェイン」
「あ」
そこまで来て、やっとアリスが何の話をしているのか理解できた。ジェラルド・ガウェイン。彼女が告げた名前は、シュシュの町にやってくるという12大臣の名前と同じだった。要するに、かの大臣はリースの親友の父親なのだ。なるほど、リースが表情を固まらせた訳が少し分かった。
「いくら非常事態といったって、12大臣の一人が直々に町を訪れるなんて、滅多にない事よ。それだけでも十分びっくりな事なのに、よりにも寄って一番親しい部類の人物がこの町にやって来る。王族一時放棄を宣言したリースとしては、なんともやりにくい話よね」
やれやれといった調子で、アリスは肩をすくめる。しかし、シズクは話に全く関係のない部分でどうしても引っかかる単語が一つあった。
「王族を……放棄?」
それは、リースが王子という身分を放棄したという事で間違いはないだろう。いやしかし、初耳である。そんな事は聞いていない。
目を剥いて驚きをあらわにするシズクに、アリスは一瞬しまったという顔をしたが、すぐに気を取り直したようだった。短くため息を落とすと、闇色の瞳をこちらへと向けてくる。
「リースは、今回の旅の件で、おじさまと決裂したらしいわ」
「え……?」
それも初耳だった。というか、そもそも今回の旅にリースが同行することになった経緯に関して、シズクはほとんど説明を受けていない。
「リースが好きなように動く代わりに、王族としての身分はしばらく放棄するって。おじさまも、その間はリースの手助けはしないし、彼を息子だとは思わないと告げたそうよ。端的に言うとすれば、一時的な勘当宣言よね」
あの親子ならやりそうな事だわ。とアリスは呆れた様子で呟く。しかし、シズクはそれを聞いて穏やかでいられるはずがなかった。
シズクは王族や貴族の世界がどのような仕組みで回っているのか、詳しく知らない。だが、王と王子が決裂するというのが、かなりの一大事であるという事くらいは分かる。しかもリースは、王位継承権を授かるであろう人物である。そこら辺の、ごく一般的な家庭で起こる親子の諍いとは完全に次元が違う話なのだ。もしこれが公に明るみになればどうなるだろう。12大臣をはじめとする家臣からは、王家に対する不信をかってしまうだろうし、イリスピリアの民は混乱してしまうかもしれない。
「……それって、物凄く大変な事なんじゃないの?」
冷や汗を垂らしながら、悲壮な顔で呟くシズクにしかし、アリスは苦笑いを向けただけだった。
「大変な事になるわね、普通の王家なら。でも、あの破天荒揃いのイリスピリア王家だもの。大臣たちはきっとあぁまたかって顔をしているでしょうし、もちろん当人たちも、宣言自体は大真面目だろうけど、国を乱そうとまでは思ってないわよ。約束の期間が終わればちゃんと元に戻るわ」
「そ、そんなのでいいの?」
「イリスピリア王家に限ってはね」
うろたえるシズクに、アリスは淡々と告げる。同じ王族であり、イリスピリア王家事情に詳しい彼女がそこまで言うのだから、シズクを安心させるための嘘ではなく、本当に大丈夫だという事なのだろう。
確かに、リースやリサを普通の王子王女の枠にとどめておけるかというと、一般人のシズクの目から見ても、それは不可能であると言わざるを得ない。大国イリスピリアの麗しの王子と絶世の美姫。そんな、世界中の人々が抱いているイメージを完膚なきまでに破壊尽くせるほど、彼らに王族の二文字は似合わないものだった。それは、彼らが王家の人間として相応しくない人となりであるからではない。むしろ、素養で言うと申し分ないくらいである。一般人が抱く『王族』という高潔なる立場の人々のイメージ像と、リース達の素の姿が、あまりにかけ離れているという意味だ。
破天荒揃いのイリスピリア王家。なるほど、かなり的を射た表現である。
「とはいえ、リースがあのおじさまにそこまで宣言したのには、正直私も驚いたわ」
おかしそうに笑うアリスの言葉に、シズクは真顔で頷く。
王族である事を放棄するなど、並大抵の事ではやらない。いや、やってはいけない事であるはずだ。ある種タブーとも取れる宣言書を、リースは、自分の父親であるとはいえ、イリスピリア王家のトップに君臨する人物に直接突きつけたという事になる。厳格なる威圧感を放つ国の覇者に向かって、よくもそんな事が出来たものである。極端な話、その場で首をはねられても決して文句は言えないような行動なのだから。それなのに――
「……どうして」
(何故なんだろう)
大きな疑問が心にずっしりとのしかかる。小さな呟きだったが、アリスの耳にはしっかり届いたらしい。闇色の瞳を揺らめかせると、彼女は真摯な表情でこちらを見つめてくる。胡乱だ目をシズクはその整った顔に向けた。
「リースは、今回の旅に出るためにそんな事をしたの? 何でそこまでしてくれるの? アリスだってそう。何が起こるか分からない旅なのに。いくら仲間でも、わたし達、出会ってまだ二月も経ってないんだよ? 王族っていう身分は、そんな風に簡単に放棄していいものじゃないと思う」
身分なんて関係ない。アリスやリースなら絶対にそう言うだろう。実際、イリスから旅立つ時にも一度言われている。シズクだって、アリスやリースとの間に身分や立場といった壁は作りたくないと思っている。だが、現実はきっとそうはいかないのだ。アリスとリースは、ただの一般人である自分を助けるために、身を危険にさらして良い人物ではない。
「簡単に、なんかじゃないわ」
引き締まった表情はそのままに、幾分凄みを含んだ声でアリスは告げる。
「強い意志の下で、自分が望んだからその選択をしたの。リースだって、きっとそう」
「でも……それは」
「シズクが好きだから。助けたいから。ただそれだけの理由じゃ、シズクは納得してくれない?」
懇願するような瞳を向けられて、シズクは一気にたじろいだ。アリスの黒瞳は決して嘘は言っていないと訴えかけている。だが、シズクの心のどこかが、それでも納得出来ないと叫び声を上げていた。
「だってわたしは……二人に何もしてあげられてないのに」
叫びはそのまま、言葉に変わる。
オタニアからイリスピリアまでの旅の道中、アリスやリースに助けられた事は数限りなくあった。イリスに居た頃もそうだ。そして今現在、魔法が全く使えなくなったシズクを守ってくれているのは、またしても彼ら二人である。一方自分は、二人に対して一体何が出来ただろう。果たして自分は、彼らからここまでして貰える程のものを、彼らに与えられているだろうか。――答えは、否だと思う。
「それどころかわたしは、巻き込むだけ巻き込んでおいて、二人に肝心な事を話していないのに」
シズクが魔女の下に行くと決断した理由と目的。イリスピリア王には、半ば宣戦布告のように投げかけることが出来た事を、アリスとリースには話していなかった。彼ら二人だけではない、セイラにもリオにも、リサにも告げていない。話す暇が無かったのも確かだが、どちらかというと意図的に話していなかった。余計な心配をかけてしまうからというのは、自分を守るための言い訳だ。要するにシズクは、話せなかったのだ。彼らがシズクの本心を知った後に、どんな反応をするのか。それが怖くて話せなかった。
半ば独り言のようなシズクの台詞に、アリスはほんの少しだけ悲しそうな顔をした。だがそれも一瞬のことで、すぐに不貞腐れたような、そんな微妙な笑みを浮かべる。
「シズク」
耳馴染みのある声で呼ばれて、何故か胸が締め付けられた。
「あのね。自慢じゃないけど私、友達と呼べる人って、とんでもなく少ないのよ? 数少ない友達の一人を一生懸命助けようとする事って、とても自然な事だと思うわ。第一、出会ってからの期間なんて関係ない。だって私がそうしたいって思ったんだもの、それって理屈で説明出来る事じゃないわ」
それにね。とアリスは今度は声のトーンを落として付け加える。
「シズクは何もしてないって言うけど、そんな事ないのよ。シズクはきっと気づいてないんだろうけど……まぁ、隠しごとをされているっていうのは、なかなかにショックではあるけど」
さぁっと青ざめるシズクに悪戯っ子のような笑顔を向けてから、アリスはさらに続ける。
「何でも包み隠さず話し合えるというのが必ずしも仲間という訳じゃないんだと思う。本当に一人で抱えきれなくなった時に、それを吐き出せばいい。そういう形もあってもいいと思うの。……隠し事をしているのは、お互い様なんだし」
「え……」
思わず目を見開いて、シズクはアリスを凝視してしまった。悪びれた風もなく、彼女は悠然と笑う。だが、その奥に踏み入れてはならない何かを垣間見たような気がした。
水神の神子の愛弟子であり、エラリアの王族でもある。溜息が出るほどに美人で、どんな時も強くて優しい。その肩書きと人となりだけを見ると、目の前の少女は、世の女の子達が憧れてやまないような立場にいる。事実、シズクにとってもそれはそうだった。アリスは憧れと尊敬の対象。今ももちろんそうだ。
そんなアリスにも、人に言えないような隠し事があるというのだろうか。もしそうだとしたら、ひょっとして自分は今まで、色眼鏡で彼女の事を見すぎていたのではないだろうか。
「でも……もしもよ。もし、シズクが本当にどうしようもなくなったら、その時は迷わずにぶつけて欲しい」
(アリスは、どうなの?)
儚い笑顔で告げられた言葉に、そんな疑問が浮かんでしまう。それは決してシズクの口から発せられる事はなかったが。心の中でまた一つ、灰色の感情が渦巻き始めていた。