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第9章「破壊の足音」




1.

 イリスピリア国立図書館は、世界でも最大の蔵書量を誇る図書館である。イリスピリア城内にほぼ独立した建物として存在するこの図書館は、一般人にも開放されている数少ない場所の一つだった。しかし、来館人数は実はそれほど多くない。蔵書されている書物のほとんどが小難しい歴史の本であったり、何かの研究資料であったりと、高度な内容のものが多いからだった。
 研究者からすれば生唾を呑むような景色であるかも知れないが、それ以外の者にとってはほとんど需要のないものである。一応、話題書や多少の娯楽書も備えては居るが、こちらは国立学校や魔法学校の学生達が常に目を光らせていて、日々水面下で争奪戦が繰り広げられている。イリス町民にしてみれば、わざわざ王城に足を運んで娯楽書の争奪戦をするよりは、イリスの町の図書館を利用した方が遥かに効率が良いし、面白い書物にありつける確率も高いのだ。
 そんなわけで、イリスピリア国立図書館は広大な敷地とは裏腹に、普段から人があまり居ない。それは、図書館の奥へ行くほどに顕著になる事だった。
 今現在、リサがあれこれと書物をあさっている区画もご多聞に漏れず、人影は疎らであった。そんな場所であるからして、まさか書物の争奪戦を繰り広げる事になろうとは、夢にも思わなかったのだ。

 「――――」

 ここ数日ずっとそうしているように、放課後の空き時間を利用して、図書館で調べ物をしていた時の事だった。小難しいタイトルの背表紙の中から、とある一冊の本を発見して、リサはそれを取ろうと右手を伸ばした。そんな折、タイミングが良いのか悪いのか、全く同じ本を取ろうとした何者かの手とぶつかった訳だ。当然のごとく、両者ははじかれたように自身の手を退いた。そして、お互いを見やる。
 「…………」
 リサの視界に飛び込んできたのは、自分と同じ年ごろの青年の姿だった。焦げ茶色の髪は短く切りそろえられており、小奇麗な容姿と相まって、凛とした印象を受けた。身に纏っている服は見慣れた国立学校の制服でも、魔法学校のローブでも無かったから、彼が学生でない事だけは確かだろう。いやしかし、こんな若者が図書館の奥地とも呼べる領域の、見るからに頭が痛くなりそうな本ばかりが並ぶ区画に一体何の用があるのか。決して自分が言えた義理ではないが、それを棚に上げてリサは考える。と、その謎を解くヒントとも呼べるものに気づき、慌てて視線を巡らせた。先ほど、ほぼ同じタイミングで二人が取ろうとしていた本のタイトルだ。
 『賢王パリスの治世とその政治手腕について』
 「……随分、小難しい事に興味があるのね」
 タイトルを視界に入れるや否や、思った事をそのまま口にしていた。
 「それは、お互い様だろう」
 声を向けられた青年は、呆れた風な顔をして肩をすくめる。確かに、今しがたリサもこの本を取ろうとしていたのだから、彼女も内容に興味を持ったうちの一人という事になる。そういう意味ではお互い様だ。もっとも、彼女がこの本を選ぼうとしたのは、それ以外の目的によるものであるが。
 それにしても、どうやらこの青年は城の関係者ではないようである。リサの顔を見ても、変に畏まった言葉遣いや態度を示さないのが良い証拠だ。リサの顔を知るものであれば、彼女が王女と気づいた時点でよそよそしい行動に出るのが常である。イリスの町民だろうか。一般人がこの図書館を訪れるとは、珍しいなと思う。
 臆することなく自分に向き合うこの青年に、リサは自然と興味を惹かれていた。
 「どうやら貴方とは気が合いそうね。この本を選んだ理由を教えてもらいたいくらい」
 「こちらも同感。俺以外に、大昔に生きた王様の話を今更掘り起こそうとしてる奴が居たんだから。……課題でもあるのか?」
 窺うように首をかしげると、青年は問うてくる。国立学校の制服を着ている事から、レポート課題との考えに至ったようだ。学校で出される課題の調べ物のために、この図書館を利用する学生は数多く居る。
 「まぁ、そんなところ」
 とてつもなく重要な課題をね。心の中でそう呟くと、リサは笑った。パリス王の足取りを調べているのは、先日のリオの助言によるものだ。500年前の謎を解き明かすため、延いては石の行方を導き出すため。
 「そっか。じゃあ、この本はあんたに譲っておくことにするよ。この蔵書量だから、探せば同じような本はいろいろ出てくるだろうし」
 「それこそお互い様な事だけど、せっかくの申し出だから、ありがたく受け取っておくわ」
 別に喉から手が出るほど、この難しげなタイトルの本を読みたかった訳ではない。知識の足しになればと興味を持っただけだ。青年の口ぶりを聞く限り、彼にとってもこの本はリサと同じ程度の価値しかないのだろう。譲ってくれるというのだから特に断る理由もない。ありがとう。と告げると、リサは青年との会話のきっかけとなった本を書棚から抜き取った。
 「もっと高飛車な人物かと思ったけど、あんたみたいなのが王女様っていうのなら……悪くないな」
 「え?」
 本に落としていた視線を上げた時には、青年はもう踵を返して歩き出していた。ぽかんと呆けながら、彼が書棚の角を曲がるまで背中を見送る。
 「……気づいていたの?」
 誰へでも無い呟きは、重厚な存在感を放つ本達の間に吸い込まれて消えていった。てっきりリサの顔を知らずにフランクに接していただけかと思ったのだが、彼女がイリスピリア王女である事には気づいていたらしい。気づいても尚、その身分にひれ伏して態度を改めたりしない潔さに、リサは好感を持った。
 「名前くらい、聞いておけば良かったかしら」
 焦げ茶色の髪など、イリスではよく見る色だ。青年の顔をまじまじと見たわけではないので、瞳の色までは確認できなかったが、たとえ情報としてそれを加えたとしても、人口が多いこの町の中から探し出せはしないだろう。かといって、今から青年を追いかけるのもおかしい気がする。第一、見つけ出して何をしようという訳でもないのだ。ただ興味を惹かれただけ。
 「リサ様」
 ぼうっと思考を巡らしていたリサの耳に、聞き馴染みのある声が届く。振り返って声の主を見ると、落ち着いた笑顔を浮かべたネイラスが立っていた。
 「精が出ますな。相変わらずパリス王の事をお調べですか?」
 「まだ資料集めの段階だけどね。パリス王はその人生においてやった事が多すぎなのよ」
 そう言って、唇を尖らせる。
 リオにパリスの記録を辿れと言われたが、実際にやってみるとこれがかなり大変な作業だった。なにせ賢王として後世までその名を馳せた人物である。彼が現役を退くまでの間に行った事は数知れない。文字通り、記録を追うのがやっとの状態。それを煮詰めて吟味するなど、遠い話だ。
 「それだけ偉大な人物という事です」
 「とんだ狸だけどね。ところで、こんな所まで貴方が来たって事は、何かのお知らせなの?」
 これ以上パリス王の話をしていると、憂鬱になりそうだ。そう判断すると、リサは話題を切り換えることにする。
 12大臣の中でもリーダー的地位にいるネイラスは、実はとても多忙な人である。業務の合間を割いてわざわざ自分に会いに来たという事は、それなりの何かを知らせるためではないかと睨んだのだ。しかし、ネイラスはいいえ。と首を横に振る。
「様子を見に来るのが主な目的だったので……そうですね、これは本当についでの報告なのですが」
 そこで一旦言葉を切って、ネイラスは襟をただす。ついでと言う割には、こちらも背筋を伸ばさなくてはいけない気にさせられる真剣さである。公共の場である事を意識してか、少しだけトーンを落としてネイラスは告げる。
 「ここの所東部で不可解な事が頻発しているため、ジェラルドが派遣されました。昨日イリスを発ったので、明日には現地に到着するでしょう」
「ガウェイン氏が?」
報告の内容に、リサは眉をひそめた。
 「東部の情勢って、12大臣の一人が直接赴く程悪化しているの?」
国軍の最高司令官が動くのだ、戦争でも起こるというなら別だが、常時であれば、それは有り得ない措置である。ここ数年、特に今年に入ってから、世界中で魔物の被害が増加しているというのは知っていた。それが、イリスピリアも例外ではないという事ももちろん承知している。だがしかし、ジェラルド・ガウェイン自らが乗り込まなければいけない程に、イリスピリア東部の治安は乱れているだろうか。
 「いいえ。現在の状況だけ見れば、ジェラルドが派遣される程のものではありませんよ」
 「じゃあどうして?」
 益々訳が分からなくなって、リサは首を傾げた。目の前でネイラスは渋い表情を浮かべている。ここまで含みのある物言いをしたのだ、話す事を躊躇っている訳ではあるまい。彼のこの表情は、もっと別のところから来るものだ。直感的にそう思う。
 「……少し前にも、今と全く同じような異変があったのです。当時リサ様はまだ10にも満たぬ年齢でしたから、ご存じなくても不思議はありません」
 「異変というと、ここ最近のように、魔物の数が増えたり、おかしな事が起こったりという事?」
 リサの質問に、ネイラスは黙って頷く。そして彼は、ブラウンの瞳をどこか遠くを見るように細めるのだった。
 「異変が顕著になり始めたのは、14年程前から。真っ先に荒れ始めたのは大陸の東北部。当時、ファノス大国が存在していた地域です。その後に起こった悲劇は、貴方も知っているとおりです」
 ファノスという国は、リサにも聞き覚えがあった。13年前に国王が暗殺されたのを皮切りに、大規模な紛争を起こした国である。その結果、現在はいくつかの小国に分裂している。大陸の東西をも巻き込んだこの動乱は、ここ数百年内では最も大きい部類のものだと言われている。
 「要するにお父様達は、先のファノスの二の舞になる事を恐れて、東部の情勢に目を光らせているという訳?」
 「……納得できていらっしゃらないようですね」
 「当たり前よ。ただ状況が似通っているだけじゃない。そこまでピリピリする原因になるとは思えない」
 困り顔のネイラスに向けて、リサは思い切り不満をぶつけた。彼の話を聞く限り、今の東部の異変と、14年前の異変は非常によく似ていたようである。だが、言ってしまえば似てるだけだ。そこに何か因果関係があるかどうかと聞かれれば、リサには無いように思えた。理論派の父が、たったこれだけの事で12大臣を派遣するとは思えない。
 「似ているだけなら良かったのですがね……。気になる点が一つあるのです。ご存じですか? ファノスから始まった戦いは、丁度ティアミスト家が滅んだ直後から、急速に鎮静化したという事を」
 「ティアミスト?」
 予想もしなかった単語を突きつけられて、大きく心臓が跳ね上がる。そして脳裏には、真っ先にシズクの顔が浮かんでしまった。リース達と旅立った彼女は、今頃はもう魔女の元へたどり着いているだろうか。
 「12年前、ティアミスト家の消滅とともに、異変はすっと影を潜めた。ところがここ最近、またもや同じような異変が起こり始める。……そんな矢先、セイラ様が水神の予言をイリスに持ち込み、時を同じくしてシズク様が登場した。単なる偶然と言うには、あまりにタイミングが良すぎる。だから我々は、不安を抱かずにはいられないのですよ」

 ――世界、再び混乱せり。時同じくして、滅びの血から光と闇が落ちる。

 予言の一節が、頭に響く。どこに行っても、何に当たっても、結局行きつくのは『ティアミスト』の存在と、彼らが何らかの大きな引き金となっているという予感。それらが、まるで呪縛のように付き纏う。この事を知れば、またシズクは悲しそうな顔をするだろうか。それとも……諦めて笑うだろうか。
 (ううん。どちらの顔も見たくない)
 押し寄せてくる不安をかき消すように首を振ると、リサは大きく息を吐いた。シズクが苦しむ顔も、父が苦悩する姿もこれ以上見たくはないのだ。そのために今、出来る限りのことをやる。
 「……ネイラス」
 「なんでしょうか?」
 「本当にこれって、ついでの報告なの?」
 怪訝な顔で、リサは尋ねる。幼い頃から自分の世話を焼いてくれているこの男の、心のうちを未だによく読めない事がある。今がまさに、その時だった。リサの様子を見に来ただけとネイラスは言うが、脱線したにしては、嫌に含みのある話だった。もしかしなくても、この話こそがネイラスの本題だったのではないだろうか。
 「そのつもりですが……それ以外の何だというのです?」
 口に出した言葉と、細められた瞳が語る真意はかけ離れているような気がしてならない。はぐらかすように笑うネイラスに初めは不満げだったリサだが、やがて頬を緩めると笑ってしまった。



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