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第9章「破壊の足音」




2.

 朝日が顔を出す直前くらいの時間に、ラナは目覚めた。独特の色をした瞳は、初めはまどろみの中にあったために虚ろだったが、やがてしっかりと輝きだす。軽く目をこすってから、黄土色の巻き毛を手ぐしで軽く整えた。そして、勢いよくベッドから起き上がったのだった。
 日の出前であるため、外はまだ薄暗い。天気を確かめるために窓の外を見ると、見覚えのある人物が二人、街路を歩いて行くのが見えた。ホーリス亭の宿泊客であるフェイとリースだ。
 「……?」
 先日シズクに話した通り、ラナはフェイを少しだけ警戒の目で見ていた。自分と目を一切合わさない事から、彼が自分の能力について知っている可能性が高いと思ったからだ。そんな彼とシズクの仲間であるリースが行動を共にしている。けれど、嫌な予感は不思議としなかった。逆に、一体何をしに行くのだろう、と。大きく興味を惹かれていく。
 先日の魔物事件があって以来、外出は禁止されていたが……こっそり行けば大丈夫だろう。ラナは大急ぎで靴を履くと、フェイ達を追いかけるべく、着替えもそこそこに部屋を出て行った。
 「――――」
 しかし廊下に出た途端、意外な人物を視界に留めて硬直してしまう。
 暁の闇に紛れるかのような、黒いローブを纏った男――ルダである。ここのところフェイと一緒に居る事が多い彼は、今は階段の手すりに体重を預けて、窓の外へ視線を向けているようだった。フェイ達を見ていたのだろうか。
 こつりと一歩踏み出すと、ルダはラナの存在に気づいたらしかった。ローブで覆われた顔がするりとこちらを向き、奇妙な沈黙が流れる。
 「一人で出歩くのはやめておけ」
 ぴりぴりとした空気に舞い込んだのは、低くて落ち着きのある声だった。それがルダの肉声であると気づくのに、若干の時間を要する。自分の考えが見透かされていた事に対するショックもあって、なんとも間抜けな表情でラナは呆けてしまう。ふっと、やわらかい息遣いが聞こえたのはその直後の事。笑った……ルダが?
 「やはり、似ている……」
 「?」
 続いて聞こえる呟きに、益々ラナは困惑する。
 ルダもフェイと同じで警戒すべき人間の一人だ。あまり関わらない方が良い。先日ゲイルからもそう忠告されたばかりではないか。頭ではそう思うのに、ラナの足は、見えない糸で手繰り寄せられるかのように、ルダの方へ向かっていた。不可解な発言をしたきり何も告げず、ルダはただラナが近づいてくるのを見守る。
 「…………」
 ひたり。と、黒いローブが鼻に触れるか触れないかの距離まで来ると、ようやくラナは歩みを止めた。黄土色の巻き毛を揺らして、顔を上げる。男性としても長身の部類に入るルダと目を合わせるには、このように完全に上を向く必要があった。
 フードの中にずっと隠され続けていた瞳は、爽やかな緑色をしていた。視線を逸らす事なく、彼はまっすぐこちらを見つめてくる。何かを告げられた訳ではなかったが、何故だかそうしなければいけない気がして、普段は絶対に進んでやらない事をラナは実行に移す。すなわち、人の過去を透視する能力を発動させて行く。
 真っ先にラナの意識に飛び込んできたのは、赤い……思い出のあの、空の色だった。






 (――血の匂い)

 空っぽにしていたはずの頭の中に、ぽつりと紅い点が出現する。一回これが出たら、もう手遅れだった。紅い点は次第に広がりを見せ、リースの感情を埋め尽くし始める。

 ――まず第一に力を抜く。何があっても受け流すこと。全てにおいて寛容であるように。

 フェイから受けた、アドバイスかどうかも疑わしい言葉を思い出す。だが、言うだけなら至極簡単な事でも、実際にそれを行う事はかなり難しかった。力を抜かねばならないと思うのに、逆に体中に変な力が加わっていく。その機を待っていたとばかりに、リースの中の『光』は、一気に膨れ上がった。膨張する光はふわりとおかしな浮遊感を与える。一瞬頭の中をよぎったあの時光景が、リースの体を更に硬直させていった。

 「余所見してる場合じゃないだろ?」

 耳に届いたフェイの言葉だけが、やけに現実味を帯びている。どこかに持ち去られようとしていた意識がここにきて浮上し始める。だが、既に手遅れだ。空気を切り裂く音がすぐ耳元で響く。
 「――――っ」
 「……ま、悪くはないかねぇ」
 白昼夢から覚めた視界には、怪しく光る切っ先があった。他でもない、フェイの剣だ。それをリースの喉元に突きつけた体制のまま、剣の持ち主はというと不敵に笑っている。余裕綽綽の彼の表情が気に入らなくて、リースは左手で右腕を押さえた状態のまま、切っ先もろともフェイを睨みつけた。激しく刃を弾かれたために、右腕は未だびりびりと波打っている。剣を取り落とす事だけはかろうじて避けることが出来たが、それだけだ。結局……また負けた。
 「……全く手加減なしかよ」
 「おやおや? 手加減なんてされたいのか?」
 楽しげな揶揄に、益々リースの苛立ちは増したが、反論する気力よりも疲労の方が勝っていた。へらへら笑っているフェイだが、剣先から感じる殺気は尋常ではないのだ。一体何度冷や汗を垂らしたか分からない。表情と剣筋とのギャップが、かえってリースの神経を疲弊させていた。
 すいっと鼻先からフェイの剣が引いていくと、一気に脱力感に襲われる。自身も構えを崩し、リースは大きく息を吐いた。安堵と疲労が半々で混じり合ったような溜息である。空を見上げると朝日が結構な高さまで上っている。今日はそろそろ打ち止めだろうか。
 フェイとの手合せは今日で3日目になる。
 先に述べたように、アドバイスというのも大いに疑問なアドバイスを一瞬受けただけで、後は何をしていたかというと、ひたすらに剣を交えていた。そして、一回も勝てる事なく現在に至っている。
 リースとてそれなりに腕に覚えはある。しかし、フェイはその更に上を行く。右腕に抱えた秘密をリースに暴露してからは、躊躇なくその力をこちらに向けてきていた訳だから、力量の差をまざまざと見せつけられて、さすがのリースも少々不貞腐れ気味であった。それ以前に、手合せするだけで、根本的な問題は少しも解決していない気がする。このまま続けて、一体何の意味があるというのだろうか。
 「まぁそうむくれるなって。昨日今日ですぐに身につけられるものだったら、お前は右腕の力に悩まされたりなんてしてなかっただろ」
 「それはそうだけど……」
 「心配すんな、お前は強いよ。十分すぎる程にな」
 肩をすくめると、フェイは剣を完全に鞘におさめた。今日は終了という事だろう。相変わらずスッキリしなかったが、どっと押し寄せてくる疲れのせいで、これ以上やる気になれる訳がない。大きく息を吸ってゆっくりそれを吐き出してから、リースも剣をおさめた。
 「前も言ったけど、その力を持って生まれたって事は、お前は絶対に使いこなせる器なんだよ。ただ、受け入れる勇気がないだけでな」
 「勇気って」
 まるでリースが力に怯えているような物言いである。ただでさえ不機嫌なところに、益々苛立ちが募る。そんな心中を見越したのだろう。フェイはおかしそうに笑った。
 「大きな力を手にしたら、誰でもそうなる。ましてや、そのせいで一回痛い目見た奴は尚更そう。例えるならそうだなぁ、ぐらぐらと煮え切った鍋があるとする。子供にしてみれば、あれはひどく興味をそそられる対象な訳。そんでついつい手を伸ばして……結果は明らかだろう? おかげで俺は、それ以来火が嫌いになった」
 「あんたの事かよ」
 思わず突っ込まずにはいられなかった。第一、おかしな例え話を持ってこられただけで、何が言いたいのかさっぱり分からない。
 「要するに――トラウマの克服」
 ぴっと人差し指を立ててフェイは告げる。
 トラウマ。その単語を耳に入れて、思い浮かぶ光景が一つだけあった。心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われて、思わず息を呑む。
 「……こればっかりは俺にはどうにも出来ねーよ。各々が自力で乗り越えるしかない。ってな訳で、俺があと出来ることといったら、こんな風に毎朝暇つぶしに相手してやるだけだ」
 「ちょっと待て。あんた、単なる暇つぶしだったのかよ!」
 これはさすがに聞き捨てならない。盛大にしかめ面を浮かべると、一瞬だけでもシリアスモードになってしまった自分を心の底から激しく悔いた。こんな男のために深刻な雰囲気など、使う事自体勿体ない。
 「細かい事は気にしない。お前だって、こう街道の閉鎖が続いてたら体がなまるだろ? ほら見ろよ。本日も何の成果も上げられなかった様子だぜ?」
 なおも軽口でそれだけ述べ、フェイは街路の方を顎でしゃくる。つられてリースもそちらへ視線を向けた。うまい事はぐらかされた気がしないでもないが、目に飛び込んできた光景に、あぁまたか。と胸中で零す。
 町の出口へと通じる街路を歩くのは、商人のハンスを先頭にした旅人達の集団であった。彼らのほとんどが落胆した面持ちで、足を引きずるようにして歩いている。残りの幾人かは、憤慨した様子で鼻息を荒げていた。今日も、軍との交渉は不発に終わったらしい。
 「精が出るねぇ。ま、旅人にしてみれば死活問題だよな。この町に閉じ込められて1週間くらい経つし」
 イリスピリアの12大臣の一人、ジェラルド・ガウェインが到着したという話が町中を駆け巡ったのは昨日の話だ。せめて旅人達だけでも街道を通行出来るようにならないかと、ハンス達が大臣に直訴に向かったのがそれからすぐの事。更にその数時間後、なんとも気落ちした様子でホーリス亭の扉を開けたハンスの顔を、未だに忘れられない。
 大臣は慌ただしい業務の合間を縫って旅人達と面会を行ってくれたらしい。そこで旅人達から全ての要望を耳に入れてくれた。しかし、最終的にはその要望は聞き入れる事が出来ないと、ばっさり切り捨てたのだ。
 「お前が直接乗り込めば、大臣も聞き入れてくれるかもなぁ。リース王子様」
 「んな訳ねーだろ」
 こちらへ意味ありげな視線を寄こしてくるフェイを、リースはぴしゃりと切り捨てる。
 旅人達の要求をすべて耳に入れた上でそれらを拒むのだ。ガウェイン大臣なりの考えがあるのだろう。いくら自分の身分が12大臣の上をいくものであったとしても、自分が要求しただけでその決断が覆るとは思えなかった。身分にひれ伏してばかりでは、国防は務まらない。第一、イリスを出るにあたって、自分はこの立場を放棄してきたのだ。ここぞとばかりに都合よく、それを復活させる訳にはいかない。
 「でもさ、今現在どういう状況なのか。お前にだったら、教えるくらいはしてくれるんじゃね?」
 「でも――」

 「いいわね、その案。私は乗ったわ」

 張りのある第3の声が会話に舞い込んだ事で、フェイもリースも度肝を抜かれる。慌てて声が飛んできた方角を振り返ると、予想外の人物の姿がそこにはあった。一体いつの間にやって来たのだろう。腰に両手をあてて仁王立ちの体勢で、彼女はこちらを挑戦的に睨みつけていた。肩までで切りそろえられた黒髪が朝風にさらわれてふわりと舞う。
 「アリス……何でここに」
 「二日連続連れだって早朝に出ていくんだもの。怪しい事この上ないわ。……私の目を甘く見ない方がいいわよ?」
 シズクと出かけた朝は、ぐっすり夢の中だった奴が何を言う。とリースは心の中で悪態をつく。そんなリースの胸中の独白などもちろん知らないだろう。仁王立ちの体勢を崩すと、アリスはきびきびした足取りでこちらへ歩いて来る。そして、フェイのすぐ目の前で立ち止まると、黒瞳を探るように細めた。
 「怖い姫様だなぁ。せっかくの綺麗な顔が台無しだぜ?」
 「その口ぶりだと、リースだけじゃなくて、私についてもいろいろ知ってるみたいね。フェイ。貴方は一体何者なのかしら?」
 棘がふんだんに仕込まれた言葉にもフェイは動じない。肩をすくめると、ひゅうっと口笛を吹いた。
 「そのとおりだけどな……リースにも言ったけど、俺の素性なんか知っても、あんたらにとっては何の益にもならないぞ」
 「役立つか立たないかは、全部教えて貰ってから判断するわ」
 そう告げると、アリスはにっこりと満面の笑みを浮かべる。見るものを惹き付ける極上の笑みである。しかし、表情とは裏腹に、彼女から放たれるオーラは絶対零度の冷たさを持っていた。相手に自白を強いる圧力でいっぱいである。すぐ隣で二人の会話の行方を見守っていたリースは、必殺技が出たな。と人知れず呟いた。あの師匠にして、この弟子あり、だ。
 「…………」
 視線をぶつけ合いながらの沈黙は、しばらくの間続いた。いい加減痺れを切らして、リースが何か一言発しようとした頃、先に動きを見せたのはフェイの方だった。
 「ははっ」
 それが皮切りだったらしい。おそらくずっと堪えていたであろう笑いが一気にはじけ、げらげらとフェイは笑い始める。痛いほどの沈黙を纏っていた空間が、いきなり陳腐な喜劇会場のような笑いに包まれる。こうなってしまっては、緊張感もへったくれもない。毒気を抜かれたアリスは、棘のある笑みを崩して呆けてしまっていた。
 ひとしきり笑った後で、フェイは取り繕うように灰色髪をかきあげる。
 「あはは。いやぁ悪い悪い。あんたのさっきの笑顔があまりに水神の神子にそっくりだったもんで」
 「師匠に?」
 フェイの言葉に、アリスは思い切り唇をひくつかせる。確かに、あの師匠と似ていると言われても、あまり嬉しいものではないだろう。実際どうかと聞かれると、リースの目から見ても彼らは似ていると思うのだが。
 「俺はさ、本当にあんたらには関係ない人間なんだけどねぇ。……フェイリュート・セル・L・フォード」
 「え……?」
 目を見開くアリスに、フェイはまたもや不適な笑みを向ける。一方のリースも、突然彼の口から飛び出した言葉に首を傾げていた。
 「俺の本名」
 そう言われても、リースには、フェイがどういうつもりなのか読めない。そういえば、彼の素性どころか、本名を今まで自分は知らなかった。自分の素性は完璧にばれてしまっているのに、だ。しかし、本名を知ったところで、特に変わった部分など見付ける事は出来ない。
 「"セル"……?」
 ところが、アリスはそうではないらしい。形の良い眉をひそめて小さく呟く。怪訝な表情は、すぐに驚愕のそれへと変わっていった。
 「まさか……『風』の――」
 「さて、ひとまずここまで。解答編はお前らが帰ってきてからな」
 アリスの言葉を遮って、フェイは含みのある笑顔を浮かべる。
 「帰ってきてからって……どこからだよ」
 「行くんだろ? 大臣様のところへさ」
 そういえば、そんな話になっていたのだった。ちらりとアリスを見ると、彼女は半眼でこちらを睨みつけている。お前も来い。その眼は確実にそう語っていた。
 「早く帰ってこいよ? ……今日はどうにも嫌な空気だ。何か起こるとしたらこんな日だからな」
 フェイの言葉に合わせたかのように、晴天にしては強い風が吹いた。
 うまい事話をはぐらかされたような気がするが、これ以上フェイを追及しても今は何も教えてくれないだろう。彼の不敵な笑みは、セイラのにこやかスマイルと少し似ている。こちらに沈黙を強いる笑みだ。
 仕方がないとばかりに息をつくと、反論する代わりにリースは上空を見上げた。晴れ渡った青空の先には、なんとも重苦しい灰色雲が控えていた。それを視界に入れた瞬間、背中を、ぞくりと冷たいものが走り抜ける。フェイが物騒な事を口走ったせいだろうか。それとも……これは何かの予兆だろうか。



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