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第9章「破壊の足音」




3.

 「嘘だ……」
 凡庸な茶色い瞳を見開くと、ゲイルは震える声でそう零した。視線の先にあるのは、複雑な輝きを見せる新緑色のクリスタルである。ラナの大切な宝物であり、彼女の両親の形見とも言えるもの。もちろん、ゲイルにとっても見慣れた代物だった。キラキラしていて綺麗。ゲイルが抱いていたクリスタルへのイメージはその程度のものだ。だから、ラナがこれを部屋の宝石箱の中にしまいこんで、決して外には持ち出さなかったのも、クリスタルを大切にするあまりの行動だと信じていた。たった今までは。
 「嘘……だよね? ラナ」
 祈るように、目の前の少女に向けて声を絞り出す。声を張り上げたわけでもないのに、からからに喉が渇いていた。頭の処理が追いつかない。絶対にこれは現実ではないのだと思った。下手な悪夢よりもずっとずっと恐ろしい、リアルな夢。――こんな夢なら、早く覚めてしまえばいい。
 「ごめんね。ずっと内緒にしてて」
 しかしラナは、ゲイルの希望をその一言で見事に打ち砕いたのだった。夢などではなく、これは紛れもない現実であるのだと、翠色の瞳をまっすぐこちらに据えて語りかけてくる。自分と同じ年なのに、少しだけ自分の方が兄であるはずなのに。真剣な顔をしたラナは、どこか神々しくもあって大人びて見えた。それが益々、彼女が語る『真実』を裏付けるようで、胸のあたりが苦しくなる。全身が――震えた。






 目が覚めた時には、太陽は大分高いところまで上がってしまっていた。街道が封鎖されている今、シズクには特にこれといってすべき事はないが、寝坊と言われても仕方のない時間だった。隣のベッドはもぬけのからで、備え付けのテーブル上にアリスからの書き置きだけ残されている。丁寧な字で、リースと外へ出掛けてくる旨が綴られていた。
 「…………」
 二人して一体どこへ出掛けたのだろう。それでなくても、ここ数日リースは朝から外出しているフシがある。寝惚け眼で考えるも、答えは出そうになかった。帰ってきてから聞いても遅くはないだろう。そう結論付けると、先に朝食と昼食を食べておいてくれという、アリスからの伝言に従う事にする。いつもそうしているように手早く身支度を整えて、シズクは部屋を後にした。
 階下から流れてくる音は比較的静かなもので、僅かな談笑以外はカチャカチャと食器を洗う音のみだ。朝食時と昼食時の丁度合間である事を実感し、シズクは人知れず苦笑いを浮かべた。やはり寝坊だ。
 後ろ手に部屋の扉を閉めて、施錠を済ませる。さて、遅めの朝食に何を食べようか。そんな事を考えていた時である。同じ階にある部屋の扉が、物凄い勢いで開け放たれたかと思うと、小柄な人影が飛び出していった。突然の事で思わず身構えたシズクだったが、悲愴な面持ちで走り去って行く人物がゲイルである事に気付いて首を傾げてしまう。
 「ゲイル!」
 ガタンと大きめの音を立てて、同じ部屋の扉が再び開く。続いて飛び出してきたのは、ラナだった。慌てた様子で彼女は扉を閉め、その時には既に一階へと続く階段を走り降りていたゲイルを追い掛けるべく走り出す。一瞬だけラナの瞳がシズクを捉えたようだが、こちらには何も声をかけてこなかった。直ぐに瞳を伏せ、気まずそうにして去って行く。喧嘩でもしたのだろうか。
 「…………」
 大嵐が去った後の廊下は水を打ったように一気に静まりかえった。徐々に元通りの時間の流れが舞い戻ってきても、しばらくの間シズクはぽかんと呆けてしまっていた。しかし、階下から流れてきたざわめきに導かれるように窓の外へ視線を移した瞬間、表情が一気に引き締まっていく。
 宿屋前の街路を、小柄な二人がほんの少しの距離をあけて駆けていくのが見えたのだ。宿の女将さんが扉を開けて出てきている。二人を呼びとめようとしているのだろう。
 「……大変!」
 魔物事件から数日が経過して、多少は町人達の警戒も緩みつつある。ガウェイン大臣がやって来てからは、警備もより強化されていたため、大きな不安を抱く者も減ってきていた。しかし、未だに学び舎は休校のままであったし、特に日が暮れてからは、皆必要時以外は出歩くのを控えているのが現状だった。そんな状況下で、たとえ日中とはいえ、子供二人が飛び出すのはあまり好ましいとはいえない。
 空腹も忘れて、気が付けばシズクは走り出していた。魔族(シェルザード)が残した不吉な殴り書きの件が頭をよぎり、焦燥が胸を焦がす。兄妹喧嘩程度なら見過ごすべきだろうが、さすがにこれは放っておけないだろう。
 階段を駆け降りていくと、女将さんが扉を出たすぐの所でうろたえているのが見えた。数少ない食堂の客達も小さくざわついている。
 「あんなに外出は控えるようにって言っておいたのに……」
 心配そうな顔で女将さんは手を唇に押し付ける。子どもたちを追いかけようかどうか、迷っている様子であった。と、そこへ視界に現れたシズクに気づき、ぺこりと会釈をしてくれる。先日の魔物騒ぎの件以降、ホーリス夫妻とシズク達の距離は他の客達よりも少しだけ近しくなっていた。
 「ゲイル君とラナちゃん、飛び出しちゃったんですか?」
 「えぇ、まったく物騒な時期だっていうのにね。軍も守ってくれている中だし、そうたて続けに事件も起こらないとは思うんだけど……用心には越したことは無いから」
 やっぱり追いかけようかしら。と呟く女将を、シズクはやんわりと制止した。用心に越したことがないのは、彼女にしても同じことだ。第一、店の仕事がある中で子どもたちを探しに行くのは大変だろう。
 「わたしが行ってきますよ」
 「でも……」
 「いいんです。どうせ暇を持て余す予定だったのだし。子供の足だから、そう遠くまでは行ってないと思いますから」
 シズクの提案にも、客にこんなことをさせるのはちょっと……と、しばしの間女将さんはためらっていた。しかし、最終的にはそうするのが最良なのだという考えに至ったようだ。申し訳なさそうにシズクに頭を下げると、それじゃぁお願いします。と呟いたのだった。

 「――私も行こう」

 シズクを呼び止める声が上がったのは、丁度彼女がゲイル達を追いかけるために駆け出そうとした時であった。聞き覚えのない低い声に、ぎょっとして振り返ると、目の前には黒いフードの人物が佇んでいる。すぐ傍で、女将さんが息をのんだのが分かった。
 「ルダ?」
 「一人だけでは、何かあった時困るだろう。それに……私にも、おそらく責任はあるだろうからな」
 「?」
 ルダにしては驚異的とも呼べる程の饒舌ぶりである。なにせ、シズクが彼に声をかけられたのはこれが初めての事だったからだ。しかし、それでも一般人レベルで考えると言葉足らずな上に、発言が意味深過ぎて不可解だった。何故彼が突然同行を申し出たりなんてするのだろう。一体どういう風の吹きまわしだ。
 不審顔のシズクに気付いていないのか、それとも単に気にしてないだけなのか。ルダはいつもと変わらぬ動作でゆったりと歩み寄ってくる。そして、シズクのすぐ隣に立つと、フードごと上空を仰いだ。ちらりと覗いた首筋は、本当に男性かと思うくらいに透き通った白色をしていたが、下顎に生えた無精ひげが、確かに彼がそうである事を告げている。
 「嫌な魔力が満ち始めているな」
 「え?」
 「感じないのか? ……まぁ、封印されていては無理な話か」
 上空を仰いでいたルダは唐突にシズクの方を向いた。向いたと言ってもフード越しの表情は全くと言って良い程読めない。相変わらず主語が抜けていて分かりづらいが、彼が言わんとしている事はシズクには的確に伝わっていた。自分の核心に触れられた事で、表情を強張らせてしまったくらいだからだ。
 「…………」
 彼はシズクが魔道士である事に気づいているのだろうか。更には、セイラに施された封印の事まで勘付いている?
 警戒を瞳に乗せて、シズクはルダを見つめ始めていた。しかし、それにも一向に動じる気配は見せない。大して興味がないとでも言うように首の向きを変えると、ルダは街路の先へ視線を移動させたらしかった。
 「何事も起こらねば良いが」



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