+ 追憶の救世主 +

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第9章「破壊の足音」




5.

 「待って! ゲイル、お願いだから!」
 ラナの叫び声が後方から聞こえたが、ゲイルは止まらなかった。どこに向けて走っている訳でも無かった。ただ闇雲に街路を走り抜ける。全力疾走で既に大分息苦しい。酸素を求め、口からは喘ぎ声が漏れる。一体何のために走っているのか。こんなことをしても何の意味もない事は、ゲイルにも分かっていた。事実が変わるわけではない。自分はただ、逃げているだけだ。

 ――私は、行かなきゃならなくなったの。

 独特の翠色の瞳を潤ませて、ラナはそう告げた。何故と問うゲイルに対して、迎えが来てしまったからだと返す。そう言われても何の事かさっぱり分からなかった。しかし、黄緑色に輝くクリスタルを取り出し、ある一つの重大な事実を語られてしまうと、どういう事か少しずつ分かってきてしまう。
 クリスタルはラナの宝物だった。宝箱にしまいこんで、ゲイルにすら数えるほどしか見せてくれたことはない。だから、見落としてしまっていたのだ。クリスタルに刻まれた聖竜の紋章の存在を。それに気づく事が出来ていれば、もう少しゲイルの気持ちも違っていたと思う。
 聖竜は神の使いのしるし。この紋章を用いる事が許されているのは、ごく一部の者だけだ。水竜は水神の神殿。火竜は火神の神殿。雷竜は雷神の神殿。そして、風竜は――

 「きゃぁ!」

 そこまで思考が及んだところで、突然ゲイルの意識は現実に引き戻される。後方でラナの悲鳴が聞こえたからだった。
 「ラナ!?」
 逃げている事も忘れて足を止めると、反射的にゲイルは後ろを振り向いていた。視線の先で、見事に尻もちをついているラナの姿が見える。そして、彼女の斜め横あたりに、見慣れない乳白色のフードを被った人物が立っていた。街でよく見かける、旅人風の格好である。状況からして、ラナとこの人物が道端でぶつかってしまったのだろう。その反動でラナは倒れ、尻もちをついてしまった。
 「あの、ごめんなさ――」
 「あら。随分と珍しいものを持っているのね」
 フードの人物が発した声は、女性のものだった。艶のある、魅惑的な声色。けれどもゲイルは、何故かその響きに不安を覚えてしまう。瞳を見開いて硬直するラナの様子もいつもとは違う気がする。嫌な予感に突き動かされ、ゲイルはラナ達の方へと逆走し始めていた。
 「あっ……」
 フードの女性がかがみこんで何かを拾ったようだった。困惑したラナの声と、視界に緑色に輝く何かが入ったのは同時だった。ラナのクリスタルの輝きである。普段は持ち歩かない物だったが、今日だけは部屋を飛び出した時に、咄嗟に持って出てしまったのだろう。それを、フードの女性が陽光に透かしている。
 「それはダメ、返して!」
 「風竜の紋章。そして、混血の瞳ねぇ。……まさか、こんな小さな町で遭遇するとは思っていなかったわ」
 ラナの叫びに女性が耳を貸すことはない。くすりと笑い声を零してから、フードを外す。現れたのは、燃えるように赤い髪だった。
 「丁度いいわ。今ここで消しておこうかしら」






 ラナとゲイルの捜索は、予想以上に難航してしまっていた。先ほどから街路のあちらこちらを探しているのだが、一行に二人の姿は見つけられない。事件に対する町人達の気が緩み始め、出歩く人の数が増えていたという事がその一因だった。平時程までとは行かないが、開店する店も数を増やしつつある。それに伴って、客である人々も商店街に足を運ぶようになっているのだ。ガウェイン大臣がこの町を訪れて、軍による守りがより強固になったというのも原因として挙げられるかも知れない。
 「見つからないわね」
 苛立ちを滲ませた声で、シズクは呻く。簡単に見つかるものと思っていたのだが、どうやらそれは誤算だったようだ。宿屋の奥さんは心配しているだろう。出来るだけ早く見つけて二人を連れ帰りたい。そう思うと焦りは益々強くなる。
 「…………」
 隣を歩くルダの様子を見てみたが、相変わらず黒いフードに覆われて彼の表情は全く分からなかった。なんとも気まずい上にやりにくい相手である。やけに饒舌だったのは宿を出るあの時だけだったようで、二人の捜索中、ほとんどと言っていいほど彼は声を発しなかった。もっぱらシズクがこっちに行ってみようとか、ここが怪しいとか、先導する役を担い、ルダは彼女にただ着いてくるだけといった感じだ。これでは一緒に捜索を行うというより、シズクのボディガードをしているような状態だ。

 「あっちだよ」

 「……え?」
 突然声が聞こえたものだから、一瞬ルダが言ったのかと思い、シズクは目を見開いた。だがすぐに、彼の声はこんなに幼く透き通るようではないとの結論に至る。では一体誰の声だろう。そう思い、通行人が行き来する街路へ視線を向けてみる。サッと、視界に黒い何かが飛び込んできたのはそんな時だった。突然の事で、体が強張ってしまうが何のことはない、それはルダのフードの一部である。彼が、まるでシズクをかばうかのように右腕で彼女の動作を制したのだ。
 「おや、今日のお守りは王子様じゃないんだ」
 くすくすと、耳障りな笑い声が聞こえる。ルダの腕越しの視界に、乳白色のフードの人物が佇んでいるのが見えた。ルダが纏う漆黒のローブとは対照的な、優しい色合い。聞き覚えのある声だ。それだけ認識すると、心臓がおかしなリズムで鼓動を打ち始めた。
 「お探しの人物なら、多分あっちの方だよ」
 右手で街路の先を指し、残った左手で『彼』はフードを外す。乾いた音と共に現れたのは予想通りの色だった。滑らかな銀髪と、夜の湖面を思わせる涼しげな青の瞳。
 「クリウス……」
 喉が焼けつくように熱かった。何の前触れもなく自分たちの前に現れたのは、敵とも言える、魔族(シェルザード)の少年である。今まで全くという程彼の気配を感じなかった。クリウスがフードで素顔を隠していたという事もあるだろうが、いかにも旅人風といえるその格好が、違和感なく町人の中に溶け込んでしまっている。声を掛けられなければ、注目する事もなく見過ごしていただろう。
 「久しぶりだね、シズク」
 優雅な笑顔を浮かべると、まるで町で友人に会った時のような挨拶を投げかけてくる。あまりの自然さに、かえって背筋が凍りついた。
 何故彼がこんな所に居るのだろう。街路の魔物事件は、ダイモスという人物の仕業だったはずだ。おそらく彼は関係がない。イリスで遭遇した時のように、シズクに何かを忠告しに来たのだろうか。いや、それも違う気がする。危険に細められた瞳は、あの時とは異なり、戦う意思を宿していたから。
 ルダが警戒を強めたようだ。背中越しの彼の雰囲気がより威圧感を放つようになる。周囲を行き交う町人達も、シズク達三人の様子がおかしい事に気づいたらしい。あるものは好奇の、あるものは不審そうな視線を送りながら、皆関わり合いにはなりたくないとばかりに早足で通り過ぎていく様子がうかがえた。
 「シズク。残念ながら君は、僕の忠告を守らなかったみたいだね」
 クリウスの整った顔に、悲しげな色が宿る。
 「君は知ろうとしてしまった。せっかく封印されていた魔力も目覚めさせてしまった。……これがどういう事か分かる? 後戻りがきかなくなったって事だよ?」
 ぎくりと、体が軋むのが分かった。イリスで出会った時、クリウスは確か自分に、今ならまだ間に合うと言っていた。銀のネックレスを手放してイリスを去れば、この動乱から抜け出すことが出来ると言ったのだ。その彼が、悲しげな瞳でそんな事を告げてくる。
 「クリウ――」
 「手遅れだよ」
 突き放すような声色は、ざくりとシズクの心臓をえぐった。
 「どうやら逃げてばかりいるみたいだけど、本当にそんな事、出来ると思う? 君はもう、立派なパズルの一欠片になってしまっているというのに」
 「違う……わたしは」
 「違わないよシズク。イリスでのあの時点が、最後通告だったんだ。そこから先に進んでしまっただろう? 君にはティアミストの魔道士として、立ち上がる道しか残されていない。……あぁ、そう言えばもうひとつ道があったんだっけ。僕らと共に『破壊』を刻む道だ」
 「違う!」
 ありったけの力で叫ぶと、膝が笑いだす。頭から冷水をかぶったような気分だった。込み上げてくる涙を必死に押し戻そうとする。泣いてはいけない。ここで負けてはすべて終わりになってしまう。
 クリウスの言葉はどれもこれも、シズクの心の柔らかい部分を容赦なく切り付けるものだった。しかし、全て本当の事だ。違うと言葉では否定したが、シズクも本当のところは分かっていた。気づいていないふりをして、ずっと蓋をしていたのだ。
 さすがのルダもシズクの叫びには驚いたらしい。フード越しにこちらを振り返ってきた。相変わらず表情は見えないが、彼なりに心配してくれているのだろうか。ルダにまで心配をかける自分が、突然情けなくなる。小さなため息が聞こえたのは、そんな時だ。
 「……さて、シズク。問題だよ。これが一体何か、君には分かるよね」
 涙で波打つ視界に出現したのは、鮮やかな鮮紅色を放つ、ひとつの魔方陣だった。突如空間に現れた禍々しい存在に、町人達から悲鳴が上がった。当たり前だ、町の中、しかも通行人が多く居る場所で魔法を使う事など、常識としてありえない。
 空間に浮かぶ陣は、クリウスの右手を中心にして存在を成している。魔族(シェルザード)文字で綴られた条文が、複雑な模様を形成していた。シズクには魔族(シェルザード)文字は読めない。けれども、その魔方陣が何を意味するものかは本能的に悟っていた。旅の間、何度も見たことがある。そしてつい先日、作り手は彼ではないが、ほぼ同じものをこの町で見たばかりだった。
 「召喚陣……」
 苦々しげに放たれた声は、シズクのものではない。黒いフードに顔を隠したルダの物だった。ちゃきりと涼やかな金属音を上げて、彼は腰に下げた細身の剣へ手を伸ばす。
 「おっと。動かない方がいいよ。一番コントロールが難しい陣を作っているところだから。今僕に下手に手を出すと、この陣はおろか、町のあちこちに隠されている力点もろとも暴走する」
 「力点?」
 聞きなれない単語にシズクは眉をひそめる。クリウスが得意とする結界魔法ならば、魔道士見習いのシズクにも何のことか理解は出来る。しかし、『力点』という単語が何を意味するのかはシズクの知識を超えるものであった。
 「陣の効果を分散させる術の事か」
 答えたのはまたしてもルダだ。彼は剣の柄に右手を乗せ、いつでも抜刀出来る体勢を取っている。それまでにも増して険悪になる雰囲気に、さすがに町人達は危機感を覚えたのだろう。何人かが軍人を呼ぶために走り去っていく。それでもルダもクリウスも、周囲の状況など全く意に介していない様子だった。
 「イリスピリア軍もさすがだよ。生半可な警戒態勢じゃない。そんな中で、町のあちこちに召喚陣を描く訳にはいかなかったから、力点として、魔力を宿した石を町中に仕掛ける方法に出るしかなかった。でも、今回はそれで充分だろうね」
 真っ赤に輝く魔法陣は、次第に大きさを増していく。魔力が封印されているシズクでは、この陣がどれほどの魔力を放っているか感じることは出来ない。けれども、それが放つ圧倒的な禍々しさから、並大抵の魔力でない事は簡単に想像出来てしまう。そして、これから先に起こるであろう事態が頭の中に浮かんだ。
 ――駄目だ、それだけはあってはいけない。
 「この陣を発動させた途端、町中にちらばった力点が小さな召喚陣の役割を担う」
 「クリウス、やめて!」
 そんな事をすればどうなるか。誰が考えても分かる事だ。先日、例の街路で起こった事が、今度は町中で起こる。一つ一つの陣が呼び出す魔物は低級でも、魔物という時点で町のほとんどの者が対抗する術を持たない。
 「やめて……貴方は、そんな事を喜んでする人じゃない」
 シズクの言葉に、クリウスは一瞬動きを停止させ、やがて眉をしかめたようだった。はっと、嘲るような笑いが耳に届く。
 「何か勘違いしてないかい? 君に僕の何が分かる」
 「分からないわよ。だけど……貴方は、少なくともわたしを助けようとしてくれたじゃない」
 たとえそれが誰かからの指示であったとしても、あの時シズクを騒動の渦から逃がそうとしてくれたのはクリウスだった。苦しむシズクを見かねて、逃げる事を望み、その手助けしようとしてくれた。そうではなかったのか。
 「……そうだね。僕は確かに君の味方だよ。だから逃げるチャンスをあげよう。五分だ。この陣を発動してから五分後、今度は僕は、町全体に封じ込めの結界を張る。そうなる前に町から逃げ出すといい」
 「違う、そうじゃない!」
 「僕は君の味方だ。だけど、君以外の人間の味方は死んでもしない!」
 吐き捨てるような怒号に、シズクはびくりと動きを止める。クリウスがここまで感情をむき出しにしている姿など、見たことがない。しかし、そう告げられても、シズクは納得する事が出来なかった。本当にそうだと信じるには、あまりに今の彼は苦しそうな顔をしていたから。迷いなく非道な真似が出来る者はきっと、こんな表情は浮かべないだろう。
 重く張り詰める雰囲気の中で、赤い魔法陣はどんどん拡大していく。涙目でそれらの光景を見つめていたシズクの耳に、くくっと小さな笑い声が届いた。
 「……まいったな。なんで君なんだろう。迷わせないでよ。覚悟が揺らいでしまう。僕は……例えどんな行いをする事になっても、カロンの助けになりたいんだ」
 くしゃりと、陣を制御するのとは反対の手で、クリウスは銀の前髪をかきあげる。自嘲的な、痛々しい苦笑いだった。
 「シズク・サラキスが、君じゃなかったら良かったのに……」
 「やめ――」



 ――パリンッ



 陣の制御をおこなっていた右手が、力強く握られた瞬間、ガラスが弾けるような音が街路に響きわたる。それが、『破壊』の始まりを示す、合図だった。



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