第9章「破壊の足音」
7.
ぽつっと。手の甲に冷たい感触が走る。戦いの手を止めて上空を見上げると、鉛色の重たげな雲が視界を覆っていた。
「降ってきたか、まいったね」
場違いに間の抜けた声を上げてから、フェイはしかめ面になる。雨は嫌いだ。兄を失った『あの日』の光景を嫌でも思い出すから。
そんなフェイの祈りも虚しく、始めのひと粒に続けとばかりに次から次へと雨粒は降ってくる。小雨になるのに大して時間はかからなかった。
血の匂いが充満していた空気が一気に清められていく。雨にもひるまず飛びかかって来た中型の魔物を、フェイはぼんやりとした表情のまま切り倒す。既に大量の魔物を片づけていた。けれども、魔物の数はあまり減った気がしない。
これ以上の召喚が行われないようにと、見つけられる限りの『力点』を壊して回っていたが、時既に遅し、である。フェイが召喚の仕組みと力点の存在に気づいたのは、十分すぎる程の数が召喚された後だった。事が起こる前に、町中に仕掛けられた石の存在に気付けなかった自分に、苛立ちを覚える。
「俺もまだまだって事かな」
軽口を叩きながら、次なる魔物に一撃を繰り出す。きゃうんと、子犬が鳴くような声を上げて、犬型をした魔物は地面に倒れ伏した。これで自分の周りに居る分は最後だろう。町人達にも全て、避難を呼びかけた。ひとまず小休止といったところか。
雨脚は更に激しくなり、街路は軽くもやがかかったようになった。いよいよ本降りという訳だ。既に全身が濡れていた。灰色髪からはぽたぽたと滴が垂れ、衣服が不快に体に張りつく。人知れず溜息を零すフェイだったが、ふと、誰かの足音を聞いて視線をそちらへ向けた。
「?」
淡い色のフードの人物が二人。体格から言って、男性と女性だろう。大混乱の中で、ばたばたと逃げ惑う町人達をよそに、彼らはゆっくりとこちらへ近づいてくる。現状を全く感じさせない、緩やかで優雅な歩みだ。
「…………」
なんとなく嫌な予感がして、フェイは目を細めた。不真面目な構えをやめて、本格的に剣を構えなおす。何かが来る。そんな気がした。
「どうやら、派手にやっているようだ」
男の方が足を止めたと同時に、隣を歩く女もまた止まる。フード越しに周囲を見渡すと、男は実に楽しそうな声で呟いたのだった。
ひやりと、背中を冷たいものが走り抜ける。どうやら只者ではない。雰囲気で警戒を抱く程に、男の存在は圧倒的なものだった。厄介な状況になった。頭ではそんな事を思いながらもフェイは退くつもりはなかった。
「もしかしなくても、あんた達がこの事件の元凶って訳?」
挑発するように告げる。その声で、ようやく男はフェイの存在に気づいたようだった。周囲の状況を確認する事にしか意識を集中していなかったようである。認識すらされていなかったなんて、随分舐められたものだ。
「直接手を下したのは私ではないが、そうだな……言われてみれば、元凶は私だ」
男が言い終わらないうちに抜き身の剣を真っ直ぐ男に向けて構える。隣に居た女がフェイと男の間に入ろうと動いたが、他ならぬ男の腕によってそれは制止された。雨の音のみが支配する奇妙な時間が流れる。ふと、フードから覗く唇から緩やかな息が漏れた。笑っているのだ。
「やめておいた方がいい。命が惜しければ」
「冗談。事件の元凶を前にして、引き下がれる程薄情ではないんでね」
「そうか……それなら仕方がないな」
ぱさり、と。濡れたフードにしては、乾いた音がした。目の前の光景に、さすがのフェイも驚きで体を硬直させてしまう。現れたのは、眩しい程の銀と――血のような色をした瞳。
飛びかかってくる銀狼に一閃を与えてから、リースは再び走り出した。後方で別の魔物に術を放っていたアリスも、すぐに追いついてくる。
はっきり言って状況は芳しくない。町中どこもかしこも魔物がはびこっている上に、雨まで降ってきた。リースもアリスも既に全身がずぶ濡れになっている。雨に視界をとられて戦いにくいが、文句を言っている場合ではない。
見渡す限り、酷い有様だった。けが人が至る所に倒れている。その中には、既に事切れてしまっている者も居るだろう。呪術師のアリスとしては、立ち止まって全てのけが人の介抱をしたいだろうに、残念ながらそれは出来ないで居た。時々、本当に命の危険が迫っている者にのみ術を施すだけで、軽傷から重症に至るまで、ほとんど横目に通り過ぎるしかなかった。一人一人に術を放っていては、さすがに彼女の体力はもたないだろうし、何より今はシズクを探し出す事が最優先だからである。けが人達の元へ軍の救護班が到着する事を祈るしかない。
「……っ!」
一方でリースも苛立ちで唇を噛みしめていた。
大臣と別れた後、ホーリス亭まで行ってみたのだが、腕に覚えのある旅人数名がその場に残り、宿泊客とスタッフ達が避難を始めていた時だった。その中に、シズクの姿を見つけることは出来なかった。どうやら悪い予感が当たってしまったらしい。宿を飛び出したゲイルとラナを探すために、シズクは外へ出て行ったようだ。ついでに言うと、ルダも一緒だそうだ。慌ただしくそれだけ言い終えると、ハンスは、子どもたちを探しに行くと言ってきかないホーリス夫妻を無理矢理に納得させて、役場へと出発して行った。
あれから町を走り回り、ずっとシズクの姿を探している。けれども彼女の姿はどこにも見つける事が出来なかった。他の町人同様、既に役場へ避難した後だろうか。だったら良いのだが、もしそうでなかったとしたら……。焦燥感がリースの足を急かしていた。
「――――っ」
リースが舌打ちをした時だ。隣を走っていたアリスがその場に立ち止まったのだ。突然の事だったのでどうしても反応が遅れてしまう。アリスよりも数歩走ったところでようやくリースも立ち止まった。
「どうしたんだよ?」
怪訝な顔でアリスを見る。彼女はと言うと、リースの言葉に返事はよこさず、目を見開いて息を飲んでいるようだった。黙ったままのアリスを不審に思ったが、リースも彼女の視線を追う。見開かれた黒瞳が向かう先には、建物を背に座り込む一人の男の姿があった。
「……フェイ!?」
街路に座り込んでいる人物が誰なのかを認識して、リースは思わず叫んでいた。灰色髪の細身の男は確かにフェイだ。だが、普段軽薄そうな笑顔を振り撒く彼は、今はしかめ面を浮かべて青白い顔をしている。腹部を押さえる右手は赤く染まっていた。
「ははっ……マズったな」
耳に届いた言葉は軽かった。けれども、駆け寄って近くでフェイの様子を確認すると、良い状態とは言い難いのが分かる。吐き出される息は熱を帯び、顔色も悪い。最も酷いのが腹部の怪我だった。尋常な出血ではない。自分で応急処置はしたようだが、それでも血は流れ続けている。雨に流されても、次から次へと血が手を紅に染め続ける。このままでは危ないだろう。
「アリス、術を――」
「いい、自分でやる」
術を唱えようとするアリスの動きを、腹を押さえる反対の手で制止させると、フェイは薄く笑った。灰色をした瞳を、強張った表情のアリスへ向ける。
「アリス。呪符持ってねーか?」
「え……」
「あいにく持ち合わせがないもんで。まさか必要になるなんて思ってもいなかったからなぁ。備えあれば憂いなしって言葉、俺の辞書には存在しないし」
相変わらず息遣いは荒いが、会話の調子はいつものフェイだった。ははっと短く笑う。顔面は蒼白で、雨に濡れて体中が震えている。笑っているような余裕なんて、無いはずなのに。
「…………」
一方のアリスはというと、フェイの言葉に一瞬動きを止めて、何かを考えている様子だった。だが、それほど時間がたたないうちに小さな溜息を零す。そして、懐から一枚の呪符を取り出して何も言わずにフェイに手渡したのだった。
呪符は呪術を使用する媒体となる使い捨てアイテムである。アリスやセイラがそうであるように、呪術師達は普通、杖などを媒体として術を行使している。しかし、戦闘の中で、いつ杖を奪われる状況に陥るか分からないため、その時の非常用として呪符を持ち歩くことが多い。呪術師の隠し札といったところか。だが、それをフェイが欲する事にリースは大いなる違和感を感じる。呪術師のみが用いるアイテムを、一体何に使うというのだろう。
『癒しの神よ 未熟な我らに――』
考えを巡らしていたリースの耳に、やけに真剣なフェイの声が届く。ほんわりとフェイの持つ呪符が柔らかな光で包まれ始めた事に、目を見張った。専門外のリースでも分かる。フェイが口ずさんでいるのは、呪術を行使するための呪である。
光はやがて、さわやかな緑色を帯びるようになる。それと共に、フェイの表情も恍惚としたそれへと転じる。その表情だけとれば、彼は剣士ではなく、確実に呪術師だった。
『――起死』
ひと際眩しい光が起こったかと思うと、力ある言葉が放たれ、直後、呪符は灰になって濡れた街路に落ちて行った。同時に呪術の光も消えてしまう。けれど、劇的な変化は確実に起こっていた。フェイの腹の出血が完全に止まっていたのだ。青白かった顔に、人間らしい赤身も帯び始める。全身の震えも止まっていた。
「リース。手ぇ貸せよ」
にやりと、いつものあの軽薄そうな笑顔がフェイの顔に戻ってきている。安心半分、呆れ半分といった感じだ。軽くため息を零すと、リースはフェイの要望に従う事にする。右手を差し出すと、フェイも右手で握り返してくる。ぐっと力を込めてやると、よっとかなんとか言いながらフェイは立ち上がった。大量出血の直後だ、いくら呪術で傷をふさいだからと言っても全回復には程遠いだろう。立ち上がったものの、すぐにふらついて、背中を倒壊した家屋の壁に預けてしまった。
「しばらく術使ってないと……鈍ってるもんだな」
「フェイ……なんであんたが呪術を使えるんだよ」
「んー。話せば長くなるから、面倒なんだけど」
「フェイリュート・セル・L・フォード――だったかしら? ”セル”は風神の神子の守人に与えられる称号名よね」
リースの質問に、いつものようにはぐらかそうとフェイが苦笑いしていた時だ。凛とした声が、有無を言わさぬ響きを持って発せられる。先ほどからずっと黙ったままだったアリスである。夜闇を思わせる瞳は、立ち上がったフェイを真剣に見つめている。彼女の気迫にさすがのフェイも表情を引き締めたようだった。
「貴方、風神の神子の守人ね」
「……さすがは水神の神子の守人さんだ。アリシア・”レム”・R・ラント・エラリアだっけか? いかにも俺は、風神の神子の守人に指名された男さ。尤も、肝心の風神の神子は未だ見つけ出されていないんだけどな」
衝撃的な言葉だった。厳しい顔つきで言葉を交わすアリスとフェイの間で、リースはぽかんと間抜けに口を半開きにするしかなかった。一体何の話をしているのだろうか。守人? 耳慣れない単語だ。
「簡単に言うとね、リース。この人は風神の神殿の重臣みたいな感じよ。神子の側に付き添い、守る役目を負う者。それが守人」
訳が分からず混乱しているリースの状況を悟ったのだろう。ちらりと視線を寄こしてくると、アリスはそのように説明してくれた。
「数年前、先代の風神の神子が亡くなったあたりから風神の神殿内は荒れてるみたい。後継者は見つからないし、人事がめまぐるしく変わって、師匠でも全て把握しきれていないくらいの状況って聞いているわ」
だから、本来ならば面識があるはずの風神の神子の守人を、同じく水神の神子の守人であるアリスは知らなかったらしい。
「俺はあんたの事を知っていたけどね。アリシア姫。……まぁ、バレちゃった訳だけど。本当に大したことない正体だろ? リース」
言って、フェイは視線をリースに寄こしてきた。
「…………」
フェイ。彼は、風神の神殿の人間であるようだ。それも、ただの神殿関係者といったレベルのものではない。風神の神子の側近に選ばれるくらいの人物である。おそらく神殿内での地位もかなり高い。確かに、現在リース達が巻き込まれている事には直接関係はなさそうだったが、大したことが無いというには、あまりにも高すぎる身分である。
それよりも。と、新たな疑問がリースの中にわき起こる。そんな身分の人物が、一体何のために旅などしていたのだろうか。風神の神殿は東のセリーズ国に存在する。間違っても大陸の中央に位置するイリスピリア国内には位置していない。後継者が見つからず、混乱している神殿を離れて一体何をしようとしていたのだろう。
「考え中のところ悪いんだけどさ。リース。悠長に立ち止まってる場合なんかじゃないぞ」
「え……?」
「お前らに俺の正体バレちまったけどな、俺の方も分かっちゃったんだよなぁ。――シズクの正体」
なんでか分かるか? と聞かれても、真っ白になった思考はちっとも回らない。首を横に振って否定を示すのがやっとだった。フェイの口から紡がれたシズクの名前に、何故だか不吉な予感が募る。
「俺をこんな風にした男が言ってたよ。『ティアミストの娘に会いに行く』ってな。言われてやっとピンときた。まさかティアミストに生き残りが居たとは思わなかったけど。……シズク・サラキス。彼女は、ティアミスト家の生き残りなんだろう?」
「――――」
何故フェイがティアミストの事を知っているのだとか、何故その男と戦う事になったのだとか、そういう事が一瞬考えの中によぎったが、今最優先すべきはそれらではないと頭の中で警鐘が鳴り響く。ティアミストの娘に会いに行く、と。意味深な発言をしたとされる男。剣士として相当な腕を持つフェイに深手を負わせる程の人物が、シズクを探している。
「銀髪に赤い瞳。間違いねーな。あいつは魔族(シェルザード)だ。しかも、その頂点に立つ人物」
吐き捨てるようにフェイが零した。
(紅い瞳――)
ぐらりと、足場が音を立てて崩れていくような感覚に襲われていた。銀髪に紅い瞳を持つ者。それは、魔族(シェルザード)の王を示す特徴であった。そして――
――紅い瞳。そう、あの魔族(シェルザード)は、紅い瞳を持っていたんだから。
ひと月ほど前、エレンダルの一件で共に旅をしていた時に、シズクの過去の話を直接彼女の口から聞いたことがある。曰く、彼女の町は、魔族(シェルザード)に襲われて壊滅したのだと。その時に出会った魔族(シェルザード)は、確かにそのような外見であったのだと。そう、シズクが語っていた。フェイと戦った魔族(シェルザード)が、シズクの故郷を襲った張本人であったのなら――
「今度こそ守るんだろ?」
フェイの言葉が、重く耳に響いた。