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第9章「破壊の足音」




8.

 重たげな鉛色の空から、大量の雨粒が降っていた。雨脚は緩む事はない。むしろ、益々勢いを強めつつある。リースの蜂蜜色の髪も、今や水分を大量に含んでくすんだ色に変わっていた。顔や首筋に小さな水の流れが幾つも伝う。常時ならば、鬱陶しくて仕方がない状態だった。けれども今は、そんな事に気を回している程余裕もない。
 「男は町の中心に向かったみたいだぜ。急げよ」
 「でも、フェイ……せめてもう少し術を――」
 「俺ならもうしばらく休めばなんとかなるから、構わず行っちまえ」
 更なる治療を行おうとするアリスを、フェイは右手で追い払うように退けた。これ以上の助けは無用とばかりに、灰色の瞳には拒絶の色を宿らせる。
 「随分と消耗しているじゃねーか。俺なんかに術を使っている余裕なんて、ないだろ」
 確かにアリスの顔には幾分疲労の色が宿る。ここまで来る間に相当数の術を使ってきていたからだ。この先の事を考えると、魔力の消費は最小限に抑える必要がある。それに、シズクの安否を考えると、いつまでもここで立ち止まっている訳にもいかない。それは十分に理解している。けれど、この目の前の男にしても、いくら呪術で傷を癒したといっても、未だに背を壁に預けている姿を見る限り、放って行ける状態とは思えなかった。魔物は全て殲滅された訳ではない。今のフェイでは、自分の身を自分で守れるかどうかも怪しいところだ。それに……
 「…………」
 昔、今とほとんど同じような状況を経験した事がある。あの時、逃げろと言われて、リースは成す術なく立ち尽くすしかなかった。そうする事しか出来なかったのだ。けれども、結果として自分に突きつけられたのは――
 「心配しなくてもな、俺は死なねーよ、リース」
 「え……?」
 まるで、心の中を見透かしたようなフェイの言葉に、思わず間抜けな声が漏れる。しかめ面を浮かべるリースの視線の先で、フェイは笑っていた。勝ち誇ったような、いつものあの余裕の笑みだ。彼の瞳からは、諦めの色は見えない。絶対に状況に屈したりしないという、確固たる意志が燃えている。
 「ヒーローはな、死なねーんだよ。俺の側を離れるのが悲しい気持ちは分かるけどなぁ。あんまり俺にベッタリだと、シズクが妬いちまうぞ? ……まぁ、お前の場合、そっちの方が嬉しいのかもしれねーけど」
 にやりと、やけにニヒルな笑顔を浮かべて何を言うかと思えば、そんな事だった。せっかくのシリアスムードが見事にぶち壊しである。がっくりと肩を落とすリースの姿を見て、フェイは声を上げて笑いだした。隣でアリスも、心配と呆れを含んだ顔で溜息をついている。
 「それだけ冗談叩けるなら、大丈夫って事か」
 「そーゆーこと」
 本当を言うと、これもフェイの虚勢なのかも知れないと思った。けれど今は、信じるしかない。
 ふっと息をひとつ吐き出す。アリスと顔を見合わせると、視線の先で彼女も頷いていた。フェイが助けを必要としていないというのだから、自分たちは彼の言葉に従うしかなさそうである。リースとアリスの心情をフェイも悟ったのだろう。どこか安心したように、息をついた。
 「……リース。前に言ったよな? トラウマの克服が必要だって」
 出発しようと身構えたリースに、フェイはそんな事を話しかけてきた。すうっと手を前に突き出すと、リースの右腕を指さす。光神の力が宿る、リースにとっての諸刃の剣。
 「少しは出来るようになってきたんじゃねーの? ここに来るまで何体魔物を倒してきたかは知らねーけど、今のところは扱えてるだろ? 右腕の化け物」
 「――――」
 あ。と零して、目を見開く。無我夢中で何も意識していなかったが、言われてみればそうだった。初めてフェイと共に戦ったあの日は、数体の銀狼を倒しただけでガタがきたのに、今は何ともない。黒刃の剣が白色に色を変えることも、体に痛みを覚えることも無かった。
 「何かに必死になれば、出来るもんなんだよ。本当に必要な時に、お前の右腕は必ず味方になってくれる。それに……」
 そこで一旦言葉を切ると、フェイは瞳を細める。元々つり上がった瞳は、こんな風に細められると研ぎ澄まされた刃のような印象になる。どこか憂いを含んだような表情。だがやがて、フェイは彼にしては柔らかくほほ笑むのだった。
 「その黒刃の剣、闇神の力が宿ってるんだろ? 眩しすぎる光を包むのは、闇の力。お前が力の扱い方を身につけるには、もってこいの剣だな」
 バルガスに貰ったこの剣が、闇神の力を宿した物だという事まで気づいているとは。フェイに真剣な視線を向けながら、リースは内心で大いに驚いていた。そういえば、自分の右腕に関しても、ほんの一時共に戦っただけで見破られた事を思い出す。彼の洞察眼は伊達ではないらしい。
 「それと一緒だよ。いいか、しっかり守れよな。シズクはお前にとっては『闇』みたいなもんだろうから……」
 「?」
 フェイの洞察力に感心しきりだったところに、突然不可解な言葉が投げかけられる。シズクが『闇』とは……ともすればそれは、不吉な響きを持つものだった。
 しかめ面を浮かべるリースを見て、フェイはどこか遠くを見るような顔をする。
 「知ってるか? イリスピリア王家を『光』に例えるとすればな、ティアミスト家は、それを優しく包み込む『闇』なんだとよ。闇の加護を失った王家に、安息をもたらす存在。それがティアミスト。王家の影。……これ、俺のばあさんからの受け売りだけどな。そういう風に考えると、闇ってのも悪くはないだろ?」
 「…………」
 諭すような言葉に、目から鱗が落ちたような気分だった。自分は今まで、水神の予言にばかり気を取られ過ぎていたのかもしれない。あの秘密会議の夜以来、闇だ光だとやたらと言われるようになって、ただそれを表面的にしか捉えようとはしていなかった。考えようによっては、こんなにも意味が逆転してしまうというのに。
 「……フェイ」
 「なんだよ」
 思ったより落ち着いた声が出た。リースの呼びかけに、フェイも比較的真面目な顔で返してくる。両者は黙ったまま、しばしの間見つめ合っていた。黙り込むと、雨の音が途端に強くなったような錯覚に襲われる。湿り気を帯びた空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりとそれを吐く。
 「先に行ってる。後で絶対、追いついてこいよ」
 言外に、死ぬな。という気持ちをこめて、リースは言い放つ。瞳にも強い光を乗せる。それを受けて、フェイも表情を益々引き締めた。
 「ったりめーだろ! 俺を誰だと思ってるんだよ」
 ややあってから、にやりと釣りあげられた口から漏れたのは、そんな、いかにもフェイらしい言葉だった。






 (雨……)
 ぽつりと、水滴が体を打った。めまぐるしく回る思考の片隅で、雨粒の冷たさだけが妙に現実感を伴っていた。
 始めのうちは小雨だったが、雨はすぐに勢いを増して本降りに変わる。一瞬で中央の広場は、淡い靄がかかるようになった。天から降る水に、魔物の血も洗い流されていく。死臭も薄らいだような気がした。けれど、張りつめた糸のような空気は変わる事が無かった。ざわざわと胸の中で何かが騒ぎ始める。
 雨の街路。魔物と逃げ惑う人々。そして――魔族(シェルザード)。今の自分の置かれた状況は、ぞっとするほど、過去の記憶の断片と重なってしまう。体が小刻みに震えだしているのが分かった。思い出させないでと、心が悲鳴を上げている。
 「さぁ、どうするの?」
 非情な響きでルビーが告げる。その声で、シズクは俯き加減だった視線を再び前に向ける。質問するようでいて、彼女の声色はシズクに選ぶ権利を認めてはいなかった。彼女の欲する物――すなわち銀のネックレスを渡さなければ、ラナを殺すのだという。思い返せば、イリスでシズクの前に現れた時も、彼女はミレニィを人質にとり、シズクに拒否の出来ない取引を言い渡してきていた。相変わらず、やる事が卑劣である。
 ちらりと視線をルダ達の方へ向ける。雨で視界が悪い中、ルダとダイモスの打ち合いは勢いを弱める事なく続いている。否、打ち合えば打ち合う程に激しさを増しているようにも思えた。雨の音の合間に、剣と剣がぶつかり合う音が何度も響く。ルダの助けを期待する事は出来ないだろう。
 「簡単な事でしょう? それを渡せば、この子の命は助かるんだから。あまり迷っている時間はないわよ?」
 立ち尽くすシズクに嘲りの笑みを向けてから、ルビーはラナに突きつけていた紅の剣を更に彼女の首筋へと近づける。そうして、わざとらしくゆっくり横に引いていく。今は未だ本気ではあるまい。だが、白い生地の上を真っ赤な糸が垂れるように、浅く切れた首筋から血が一筋流れた。雨で霞む視界にも、血の赤は恐ろしいほど映える。途端に背中が泡立つ。
 「やめて!」
 思わず一歩踏み出し、シズクは叫んでいた。踏み出した右足は水たまりをはね上げて、下半身が派手に濡れる。だが、そんな事は気にならないくらい、既に全身がずぶ濡れだった。
 外見は仰々しい飾りが施された儀式用の剣に見えるが、ルビーの剣は紛れもなく戦闘用なのだ。その切れ味の良さは、既にイリスで体験済みである。ラナが少しでも動けば、彼女の白い首筋に致命傷と呼ばれる深さまで、綺麗に食い込んでいくだろう。
 「やめて欲しければ、早く『石』を渡しなさい」
 「お姉ちゃん、駄目だよ!」
 首に触れる近さで剣を突きつけられているにも関わらず、ラナは冷静だった。気丈にも真顔で叫び、シズクを諌める。
 「どうせこの人は、私を殺すつもりなんだから」
 不思議な輝きを宿す翠瞳を真っ直ぐシズクに据える。真剣な表情は既に少女のものではない。神々しい、セイラにも通じる、紛れもない神子としての表情だった。――風神の神子。
 「私が死んでも、風神は必ず新しい後継者を生む。でも、お姉ちゃんのそれは……この世に二つとして代わりがない物なんだよ」
 「ラナちゃん……」
 なんて、強いのだろう。今まさに自分の命が危険に曝されているというのに、何故こんな光を瞳に宿すことが出来るのだろうと思う。それは、一種の憧憬をシズクの胸に宿すと同時に、重苦しい自己嫌悪の念も呼び起こす引き金となる。シズクはただ、狼狽えて立ち尽くすしかないのに、ラナは強い。心が、意志が、芯の部分がとても強いのだ。それに比べてどうして自分は、こうも弱いのか。大事な人達を危険に晒してしまうのに、それをただ見ているしか出来ない。
 (魔力を持っても誰も守れない。でも……魔力が無くても、結局わたしはわたしなんだ。誰も守れない)
 頭の中でそんな考えが浮かんだ瞬間、愕然とした。震えは益々強くなる。ただでさえ不安定だった足場が、無情にも崩れ落ちていくような気がした。、中途半端に宙に浮いたような気分だ。青白い顔でルビーとラナを見る。
 「さぁ、ネックレスを外しなさい」
 「…………」
 ルビーの鋭い声が聞こえても、思考はうまく回らなかった。瞳を泳がしながらシズクは冷や汗を垂らすのみだ。いい加減焦れて来たのだろう。ルビーの表情が一気に険しさを増す。元々つり上がり気味の瞳が、更なる角度を付けてつり上がった。
 「今すぐこの子の瞳をくり抜いてしまってもいいのよっ! ハーフエルフの瞳は、貴重なマジックアイテムになるのだったわね。せめてものお土産に、献上するのもいいかも知れないわ」
 言って、剣を持つのと反対の手でラナの顎を掴む。あまりに乱暴に掴んだものだから、紅の剣はラナの首筋に浅く沈んで行き、もう一筋紅い川を作った。冗談ではない。くり抜くと言ったら本気で彼女は、ラナの瞳をくり抜いてしまうだろう。ハーフエルフの瞳は、闇商人達の間で国家予算並みの値段で取引されているような、恐ろしく希少価値の高いマジックアイテムだ。
 「――――っ」
 ほんの一瞬、ラナの大人びた表情が崩れて、年相応の少女の顔が現れたのを、確かにシズクは見た。仮面の下の表情は、本能の求めに忠実な、怯えを含んだものだった。
 「ルビー!」
 「ネックレスを外しなさい!」
 有無を言わさぬ響きでもう一度。最後のチャンスだとばかりにルビーは告げる。今すぐラナの元へ駆け寄りたい衝動を抑えて、シズクは動きを止める。きっと一歩でも動こうものなら、ルビーは脅し文句に使った内容を本当に実行してしまう。
 「…………」
 何も言わずに瞳を伏せると、シズクは首筋へ両手を伸ばした。細やかな鎖の感触が震える指先に触れる。そこでまたラナが制止の声を上げるが、聞こえないふりをするしかなかった。雨のせいで手が滑り、多少間誤付いたものの、割合すんなりと銀のネックレスを外すことが出来てしまう。しゃらりという繊細な音と共に、衆目の前へとネックレスは引きずり出された。雨の中でもくすむ事のない輝きに、ルビーの瞳が狡猾な肉食獣のような色を宿す。彼女が、いや、魔族(シェルザード)がずっと欲しがっていたものだ。
 いったい何なのだというのだ。こんな銀細工一つで、どうしてここまで大変な事態にならなければならないのか。出どころの分からない苛立ちが胸を焦がす。握りしめた手に、細やかな鎖が食い込んでいった。
 「……欲しかったら、取りにくればいい。わたしはここを動かないし、抵抗もしない。でも、ラナちゃんは解放して」
 精一杯出した声は少し掠れていた。情けないなと思う。けれども無理をして、必死でルビーを睨みつけていた。ネックレスを持ったまま右手を真っ直ぐ前に差し出す。シズクの心を反映するように、銀のネックレスは複雑な輝きで雨粒を受けていた。
 「…………」
 ほんの少しの間だけ、二人は視線をぶつかり合わせていた。シズクは刺すような視線を。ルビーは相変わらずの嘲りの視線を。
 雨音に混じって、ルダとダイモスが剣を打ち合う音と、それより少し離れた所から人々の悲鳴や轟音が響いてくる。こうしている間にも、魔物は町を襲い続けているのだ。震えが全身を走り抜ける。ネックレスを握る手に自然と力がこもった。何も出来ない自分に対する憤りか、それとも身に降りかかった状況への恐怖か。どちらからくる感情なのか、シズクには分からない。
 やがてルビーはシズクが微動だにしない事を確認してから、ラナの顎から手を引き、乱暴に突き飛ばす。解放、という事なのだろう。極度の緊張状態から脱出出来た事で気が抜けてしまったのだろう。ラナはその場にへたり込んでしまう。ぼんやりとその光景を見届けて、ひとまず良かったと心の中で呟いた。
 ラナを解放した直後には、突進を仕掛けるような形で、ルビーがシズクに向かってきている事が分かっていたが、対抗すべく動くような事はしない。それが一応のルビーとの約束であったからだ。違えた結果、再びラナの身に危険が迫る事は避けねばならない。
 「――――」
 目と鼻の先まで接近されると、ルビーの気迫が肌を通して直に伝わってくるようだった。殺意にあてられて、背中がちりちりと燃え上がる。今や眼前に迫ったルビーの瞳は、冷酷な色をしていた。
 「やっぱりティアミストはお人よしね」
 つりあがった瞳を細め、彼女はシズクの右手に手を伸ばし――銀のネックレスをその手に収めた。
 「…………っ」
 自分の元からルビーの元へネックレスが渡った瞬間、なんとも言えない喪失感が体中を走り抜ける。一瞬、あの日の母の顔が脳裏を過ぎった。決して渡してはならないと言って儚く笑った母の顔を。
 念願が叶ったルビーはというと、シズクとはまさに対照的な反応を見せていた。手中の銀色の光を恍惚とした表情で眺めた後で、小さく肩を震わせ始める。
 「……っはは、あははは! やっぱりあんたなんかには余る代物だったのよ。私が、私が手に入れた!」
 狂気じみた喜びを瞳に乗せて、ルビーは笑う。あまりにあからさまな彼女の反応に、シズクは戦慄を覚えた。
 「ねぇシズク。あんただって思うでしょう? ……カロン様が、あんたになんて興味を持つはず無いって」
 「え……」
 大きく見開かれたシズクの瞳には、狂気に歪んだルビーの顔が映り込んでいた。予感は確信へ変わる。紅の剣が絶妙な角度で構えられていた。それを視認しても、講じることが出来る手は今更皆無だった。そんな事を考える間すら自分には与えられていない。
 「あんたなんて、消えてしまえばいい」
 ありったけの殺意を乗せて、紅の剣は振り下ろされた。



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