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第9章「破壊の足音」




9.

 ダイモスが繰り出した大ぶりの一撃を右に跳んで避ける。ルダのすぐ耳元を、風が切り裂かれる鋭い音と雨の水滴が通り過ぎた。流れのままに横薙ぎの二撃目が迫る。それを剣で受け止め、勢いを殺して流す。次いでルダも反撃を繰り出すも、右上からの一閃は、鋼と鋼がぶつかり合う甲高い音によって阻止された。火花を散らしそうな拮抗。剣を交差させながら、両者は黙って睨み合う。雨に濡れ、自分もダイモスも濡れ鼠同然の姿と化していた。衣服は水分を吸い、それだけでもかなり動きが鈍くなる。
 純粋に剣の腕だけを考えるとダイモスの方が上だろう。ルダは持ち前の瞬発力でその差をカバーしていた。故に傍から見た両者の力はほぼ互角。ただし、打ち合いが長くならなければの話であるが。
 「……っ!」
 クロスさせていた剣を両者同時に弾くと、ルダとダイモスはそれぞれ後方に跳んで体制を立て直す。目の前の赤茶髪の男にも若干の疲労は見てとれたが、まだまだ彼本来の動きが継続出来る事を青い瞳が告げていた。肩で息をする自分とは大きな違いである。瞬発力を使う分、ルダの方が疲弊が激しい。雨は視界を悪化させ、体力を奪い取る。そして何より、剣を持つ両腕が随分と重かった。ダイモスが繰り出す剣は比較的大ぶりである。それが故に一撃一撃の重さが相当なものになるのだ。打ち合いの中で何度となく彼の剣を受けているうちに、腕が悲鳴を上げ始めている。
 少しずつ状況はルダにとって不利に傾きだした訳だ。動きも徐々に鈍くなっているのを感じる。このままでは、まずいだろう。それに――
 「…………」
 意識はダイモスから手放さずに、ルダは視界の隅に移る噴水付近へ注意を向ける。噴水の側には、赤髪の魔族(シェルザード)の姿がある。彼女が取り押さえているのはこの町の宿屋の娘であるラナだった。紅の剣をラナの喉元に突きつけて女は笑う。迎え撃つのは、宿屋が同じになった旅人の少女、シズクだ。ダイモスとの打ち合いに集中力を使っていたために、彼女らの会話はほとんど理解していなかったが、状況からしてラナが人質に取られているのは明らかな事だった。彼女を餌にして、女はシズクに取引を申し出ているのかも知れない。
 ぎり、と強く歯をかみしめる。剣を握る手にも力が籠もった。見えていながら、彼女らの助けに入れない自分が憎い。ダイモスの出現は想定外であった。彼に足止めを食ってしまい、事が進むのをこうして横目で時折確認する事しか出来ない。
 しゃらりと視界に銀が出現したのは、そんな時だった。何だと眉をひそめる。右手を前に突き出す形で、シズクが女に見せつけているのは、何の変哲もない銀の鎖である。雨粒に煽られて、鈍い色で輝く。一体何を意味するものなのか、ルダには分からない。だが、それを見た女の歓喜の表情には、背筋が凍るものがあった。
 「あれが、寡黙なる左腕(ミクラテ・イノジク)か」
 声は、ルダのものでも、女のものでもない。剣を構えて向かい合ったダイモスのものだった。構えはそのままに、彼はその視線だけを真っ直ぐシズクへと向ける。赤髪の女程あからさまではなかったが、彼の青い瞳にも喜びが見てとれた。
 (ミクラテ・イノジク?)
 眉間にしわを寄せてルダは胸中でのみ呟く。そのような単語に、もちろん聞き覚えがある訳はない。古代の響きだ。身に流れるエルフの血が、嫌な予感を知らせてくる。
 人質だったラナは解放され、女はシズクに突っ込んでいく。獲物を捉えた猛獣のような動きである。大きく舌打ちして、ルダはダイモスとの対決を放棄する。戦闘に注いでいた全ての力を、戦線離脱のために用いて、今まさにシズクにたどり着かんとする女の元へ迫った。しかし――
 「お前の相手は俺だろう」
 眼前に現れた赤茶髪の男の存在に、緊急停止を余儀なくされる。繰り出された剣を細身の剣で受け止めると、空気が甲高い悲鳴を上げた。大きく舌打ちをして、表情を歪める。何が何でもこの男は自分の動きを阻止するつもりらしい。
 だが、次の瞬間目に飛び込んで来た光景に、ルダは今度こそ完全に動きを停止させてしまう。赤髪の女に突き飛ばされてからずっと地面にうずくまっていたラナが、息を吹き返したかの如く、物凄い勢いで立ち上がり、女の元へ突進をかけたのだ。剣を持つ者に何の武装もせず突っ込むなど、捨て身以外の何ものでもない。無茶だ。
 「ラナ!」
 もはやダイモスの存在など、意識には浮かばなかった。感情の赴くままに叫び、そして走り出していた。彼女を――ラナを、失う訳にはいかないのだ。

 「余所見が過ぎるぞ」

 「――――っ」

 左肩に鋭い痛みを感じると同時に、呆れを含んだダイモスの声が響く。本能的な判断で剣を繰り出し、攻撃を受け止めたが、致命傷を免れただけだ。左腕にぬるりとした感触が伝う。傷は深いかもしれない。
 「お前も寡黙なる左腕(ミクラテ・イノジク)を知る者なのか? それとも……あの幼子が大切か?」
 不敵な笑みを口元に浮かべてダイモスは告げる。言葉の後半部分はまさに核心をついたものだった。翡翠色の瞳に焦燥と憎悪を乗せる。
 「お前には、関係のない話だっ!」
 左肩を庇いながら、続く二撃目をなんとか弾いた。まったく迂闊だった。無我夢中だったとはいえ、考え無しな行動をとった自分に苛立ちを覚える。こんな事をしている場合では、ないのに――
 「そうか……だが、残念な結末を迎えそうだぞ」
 悲鳴が空気を切り裂いたのは、その時だった。






 紅の剣が振り下ろされる。もう駄目だと思った。だが、ルビーの剣はシズクの体を裂く事はなく、むしろかなり軌道をずらした状態で通りすぎた。
 「……え?」
 思わず間抜けな声を漏らしたのも、それだけ目の前の光景が意外なものだったからだ。
 「っ……! 放しなさいっ!」
 恐ろしい形相のルビーに、痺れたように体が動かなくなる。先ほど解放されたはずのラナが、今はすぐ近くに居た。必死の様相で、ルビーの腰辺りにしがみついている。状況からして、シズクに切りかかったルビーへ突進を仕掛けたのだ。おかげで剣の軌道は大きくぶれる事になり、シズクは救われた。だが、ラナがした事はそれだけではない。
 「返して! それは貴方なんかが持っていちゃいけない!」
 大きく叫びながら、更にラナはルビーの右手に握られた銀のネックレスを取り返そうと華奢な右腕を伸ばしていた。黄土色の巻き毛が大きく揺れる。無茶だ。相手は抜き身の剣を持っているのに。
 「! ラナちゃ――」

 『衝突(アッシュ)

 ラナに駆け寄ろうとしたところに、ルビーの力ある言葉が放たれる。しまったと思った時には遅かった。濃縮された空気の衝撃波が、雨粒を伴いながらルビーを中心として巻き起こる。
 棒でガードした部分は直撃を免れるが、結局体全体を大きく吹き飛ばされてしまう。剥がれ飛んだレンガの間にはいくつもの水たまりが出来ており、そのうちの一つに突っ込んで頭から水を被る。受け身も取れず、したたかに背中を打った。水を含んだレンガ独特の匂いに包まれる。あの日――故郷を失った日も、自分はこんな状況を経験したのではなかったか。
 「――――」
 途端にぐらりと視界が揺らぐ。体全体が軋みを上げた。だが、ここで倒れたままで居られる状況ではない。吹き飛ぶ直前に、ラナの悲鳴と、何かが空気を切り裂く音を聞いたのだ。
 棒を握る手に力を込めて、出来うる限りの速さで立ち上がる。ルビーが放った魔法のせいで、周囲には薄い土埃がたっていた。湿気に負けて、それらは驚くほどの速度で晴れていく。開けた視界の先には、先程とほとんど同じ状態の光景が広がっていた。崩れた噴水に、僅かに漂う死臭。確かにそこにあったはずの魔物の屍は、いつの間にか消えていた。事切れた事で召喚の効果が切れたのだろう。
 だが、その中に一点だけ、見逃してはならない状況が存在していた。それはほとんど重なりあう程に接近した、二つの影。

 「おね……ちゃ」

 こちらを見て、途切れ途切れでそう零すのは、ラナだった。独特の色をした翠瞳は苦痛で歪み、およそ12歳の少女とは思えない表情をしていた。無理もない。彼女の腹部には、紅の剣が深々と突き刺さっていたのだから。
 「ラナちゃんっ!!」
 声は、絶叫に近かった。刺された腹部からおびただしい量の血が流れ出している。鮮血は衣服を染め、ラナの細い両足を染め、レンガ張りの地面にこぼれ落ちる。血の流れを視線で追った後、ゆっくりと顔を上げる。
 「……やっぱり、神子は殺しておかなければいけないわね」
 いつも以上に増して、冷たい声色でルビーが告げた。ラナを貫いた剣を勢い良く引き抜くと、そのまま重力に従ってラナが崩れ落ちた。視界にまた、紅が散る。それも大量の、である。
 自分の足が自分のものではなくなったかのように重かった。鉛を引きずるような感覚がする。それでもなんとか走り出すと、ふらふらと左右に揺れながら、シズクはようやくラナの元へ辿り着いた。ルビーの存在なんて、頭の中には無かった。
 震える手で幼い体に触れる。普段陶器のように白い肌は、今は病的な青白さを宿していた。額には脂汗が浮かぶ。そして、驚くほどに肌が冷たかった。荒い呼吸を繰り返しながら、ラナは薄目を開ける。そして、シズクの瞳を見つめながら声にならない声でこう告げてきた。「逃げて」と。
 「なんでっ!」
 首を振りながらシズクは叫ぶ。なぜこの少女は、こんな状態になってまで、自分以外の者の身を案じるのだろう。そんな余裕などどこにもないはずなのに。
 沸騰する頭では、全く思考が回らなかった。目の前でラナの命が消えようとしているのに、自分は何もする事が出来ない。
 「……さて。私はもう一人、殺しておかなきゃいけない人がいるんだった」
 声のした方を見上げると、血濡れの剣を片手に、ほほ笑むルビーの姿がそこにはあった。雨に打たれてもなお、彼女の赤髪は今にも燃え上がりそうな色をしている。それはそのまま、ルビーの心情を表わしているかのようだった。焔。憎悪や嫉妬の炎が、見え隠れする。それらすべてを、シズクに向かって突き刺してくる。

 「――――」

 バチンと、自分の中の何かがはじけ飛んだ。ほとんど無意識に、シズクはその行動を起こしてしまっていた。自分の中の深いところまで意識を沈みこませる。
 以前のシズクならば、それだけで魔力は答えてくれていた。魔力に呼応して精霊も助けの手を差し伸べてくれていた。けれども、今はそれでは駄目だ。セイラによって、封印された魔力はそれでは応えてくれない。
 だからシズクは、もっと深くまで沈んでいった。そして、奥深くに隠された魔力を無理やりこじ開けようとしたのだ。それは、今のシズクには禁じ手と呼べるもの。旅立ちの前、セイラから、絶対に無理矢理魔法を使おうとしてはいけない。と忠告されていた。シズクに施された術は、犯罪を犯した魔道士を拘束するためのものでもある。故に、無理やり魔法を使おうとしようものなら、それらは苦痛を伴って、魔道士本人に制裁として返ってくるらしい。
 セイラの忠告通り、胸元に施された封印が、そこだけ火傷したような痛みを発し始める。印の抵抗は激しく、その度に体の中が波打つようだった。けれど、止める訳にはいかなかった。そうしなければ、自分を保つことが出来そうになかったのだ。
 「あら、どうしたのかしら? シズク。いよいよ覚悟を決めた――」
 余裕綽綽で笑うルビーが、一瞬で言葉を失った。シズクの深い色をした瞳が、射抜くように彼女の方を向いたからだった。真っ赤な唇を歪めて、すうっと青ざめていくのが分かる。それだけ鬼気迫る者をシズクから感じたのだろう。
 赤髪の女。この女だけは、許してはいけない。膨れ上がるのは、深い憎悪だった。どす黒い感情に心が呑まれていく。それが正しいかどうかなど分からない。ただ、自分はこの手で討ちたいだけ。力任せに魔力をこじ開けて、呪を紡ごうと口を開く。だが、飛び出してきたのは力ある言葉ではなかった。
 「……っ」
 パッと目の前に赤が散る。声の代わりに出たのは、鮮やかな色の血液だった。冷静に考えれば当たり前の事だ。この世で最高峰の技術を持つ水神の神子の印が、不安定な魔力を宿すシズクに負けるはずがない。文字通りのしっぺ返しを食らった状態で、シズクはその場に手を付いてしまう。頭が割れるように痛かった。思うように体に力が入らない。
 「……して……どうして!」
 言いようのない嫌悪感が自分の中から湧きあがってきた。俯くと、雨が下に降りてくる形で呼吸の邪魔をする。みじめだった。助けたくても助けられない。傷つけるだけ。そんな自分がどうしようもなく――情けない。
 「な、何よ。驚かせないで頂戴!」
 ちゃきりと剣を構える音が響く。シズクが何もしてこないと判断したのだろう。始めこそ警戒していたが、やがてルビーは安心しきった表情を浮かべてから、こちらを睨みつけてきた。
 「…………」
 涙目で、自分の間上で構えられた剣を見る。ラナの血は、雨でほとんど流されてしまっていたが、わずかに残る痕跡が、確かにこの剣が少女を貫いたのだという事を告げていた。同じ剣で、今まさに自分も貫かれようとしている。
 「安心しなさい。あの世できっと、ラナちゃんとも会えるわ」
 毒をふんだんに含んだ言葉が、頭を酔わす。風を切る音をたてて、剣は振り下ろされる。感覚がマヒした頭では、素早いはずの剣の動きも、ひどく鈍く感じた。
 「――――」

 『氷刃!

 諦めの感情と共に瞳を閉じたその時、凛とした声が広場に響いた。



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