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第9章「破壊の足音」




10.

 聞き覚えのある言葉に聞き覚えのある声。誰だろうと考えて、出てくる答えは一つしかなかった。
 「……あぁっ!」
 ルビーの悲鳴を聞き、ぱっと目を開くと、乳白色のローブが紅色に染まっていた。ルビーの左肩に、数本の氷の刃が突き刺さっているのが見える。シズクに振り下ろされたはずの剣も、中心部分から真っ二つに折れてしまっていた。
 歯をくいしばってルビーはシズクの後方にあたる広場の出口付近を睨みつける。振り返ってシズクも確認すると、そこには予想通り、見知った顔があった。
 「アリス……リース……」
 痺れる唇でやっとそれだけ零す。厳しい顔つきで二人はルビーとシズクの元へ走り寄ってくる。それを悟ったルビーの動きは迅速だった。

 「ダイモス! 目的はほぼ達したわ! ――撤退よ」

 アリス達がシズクに到達するよりも先に、ルビーは広場からの逃走を図るべく、地面を蹴っていた。ルダと撃ち合っていたダイモスも小さく頷き、彼女の後を追う。ルダは追跡を試みなかった。というより、出来なかったと言った方が正解だろうか。左肩をひどく負傷している。おそらく、これ以上の戦いは難しいだろう。
 「シズク!」
 険しい顔つきで駆け寄ってきたリースに肩を抱かれる。虚ろな目で彼を見上げると、エメラルドグリーンの瞳は真っ直ぐ自分に注がれていた。一瞬その色に、全てを惹きこまれそうになる。混乱する思考を必死で取り押さえる。とりあえず彼らに、伝えなければならない。
 「ラナちゃんが……ルビーに……わたし、ネックレスも渡してしまって……何も」

 ――何も出来なかった。

 言葉に出せば、それは余計に現実味を帯びた。あぁそうだ。仲間が駆けつけてくれて、命の危機を脱しても、まだ何も終わってなど居ないのだ。自分は何一つ、状況を変えることが出来なかったのだ。
 うわごとのように支離滅裂な事を呟くだけだったが、どうやらリースは状況を察してくれたようだった。ぽんと、頭の上に温かい感触があったかと思うと、視界には既にリースの顔は無かった。彼は黙ったまま立ち上がると、剣を片手に、ルビー達が走り去った方角へと走って行ったのだ。リースの足取りに合わせて、ばしゃばしゃと水たまりが跳ね上がるが、やがてその音も遠くなる。あとに残されたのは、驚くほど静まり返る広場の空気。耳に入ってくるのは、ほとんどが雨の音だけだった。
 ふらりと定まらない視線を移動させると、アリスがラナに応急処置を施しているのが目に入る。アリスは自身の衣服の一部を切り裂くと、止血のためにラナの体を縛る。傷を負ってからそれほど時間は経っていないはずなのに、ラナの顔からはほとんど生気が奪われていた。険しいアリスの表情からも、あまり良い状態ではない事がうかがえた。何で、こんな事になったのだろう。
 「アリス……ねぇ、わたし……」
 笑う膝を押さえつけながら、なんとか立ち上がると、思わずそう零していた。
 「シズク?」
 ラナへと注意を向けていた闇色の瞳が、シズクを振り返る。表情には怪訝な色が宿っている。それだけ今の自分は酷い顔をしているのだろうか。いっその事、笑ってしまいたくなった。ふらふらとぎこちない動きで、アリスへと近づいて行く。自分でも、今の自分がどうしようもなく混乱している事は理解出来た。けれど、唇から零れる言葉を止める事は出来ない。
 「ごめんなさい。ラナちゃんが……わたしのせいで、わたしの力が足りないばっかりに!」
 「シズク、落ち着いて!」
 顔面蒼白のラナの顔が、頭から離れない。腹部に深く刺さった剣。致命傷と呼べるものだ。こんな事にならないためにルビーにネックレスを差し出したのに、今のこの状況は何なのだろう。結果としてあの行動が、全ての元凶となってしまった。自分に力があれば、アリスやリースのように戦う力さえあれば、この事態は避けられたはずなのに。
 「戦う力が欲しい」
 「シズク……」
 夢遊病者のような動きで両手をアリスの肩に伸ばす。シズクが手を触れて、彼女は一瞬ぎくりと肩を強張らせたようだった。
 「お願いアリス……セイラさんの封印を解いてっ!」
 「!?」
 目を見開いて、アリスは少しの間硬直する。だがすぐに、ゆっくりと首を横に振ったのだ。瞳には深い拒絶が浮かんでいた。
 「ごめんねシズク。それだけは、出来ない」
 「嘘! アリスなら、出来るんでしょう!?」
 否と答える代りにアリスは再び首を横に振る。焦燥が胸の奥から競り上がってくる。感情の向くままに、肩を握る手に強く力を込めた。そしてそのまま力任せに彼女を揺らす。
 「お願い、ねぇ! 魔法が、魔法が使えないと……そうじゃないとわたし――」
 わたしは、どこかで壊れてしまいそうで。

 「――――」

 雨の街路に、乾いた音が響く。左頬に鋭い痛みを感じ、咄嗟にアリスの肩から手を引いていた。
 「アリ……ス」
 「ごめん。でも、こうでもしないと話を聞いてくれそうにないから」
 左手でアリスの平手を受けた頬を撫でる。痛みは未だに、ひりひりとこびりついていた。叩かれた痛みだけじゃない。心の奥深くが酷く痛んだ。だが、目の前のアリスは、シズクよりももっと苦しそうな顔をしている。
 「冷静になって、シズク。例え貴方が今ここで本来の魔力を取り戻したとして、そんな状態でまともに魔法が使えるの? 私はそうは思えない。それを可能にするのは、東の森の魔女だけだわ。だから、魔力を取り戻したければ、そう魔女に頼めばいい。でも、今は違う。今この状況で、魔法を使って一体何をするの? 貴方の魔法ではラナちゃんは救えないわ」
 今度は逆に、アリスに両肩を握られる。闇色の瞳は、懇願するようにシズクを見据えてくる。全身に氷水を被ったような気分だった。ちぐはぐだった思考が、ようやく一か所に纏まり始める。
 「魔法が使えないから何も出来ない? 違うわよね。何もしようとしないから、何も出来ないのよ!」
 アリスの言葉は、シズクの胸に深く突き刺さる。崩れ落ちそうになる意識を、気力だけでなんとかつなぎとめる。アリスが言っている事は、全て――本当の事だった。
 「わたし……わたしは……」
 がっくりと全身の力が抜けていく。沈み込みそうになった体を支えてくれたのは、アリスだった。涙目で、今の自分はきっとひどい顔をしている。けれど彼女は目をそらさない。真摯な輝きを宿して、まっすぐに自分を見てくれる。
 「ラナちゃんは死なせない。私が必ず助ける。約束するから。だからシズク。貴方は、今の貴方に出来る、精一杯の事をして」
 「――――」
 暗闇に呑まれようとしていた心に、光が差し込んだ。あれだけ降りしきっていた雨脚が、少し弱くなった気がした。






 ばしゃばしゃと水たまりをはね上げて走る。若干弱くなったものの、雨は未だにシュシュの町に降り注いでいる。壊滅に追い込まれた町の姿を横目に、興奮した様子でルビーは笑んだ。左肩の傷が酷く疼いたが、それを遥かに超える歓喜が体中を埋め尽くしていた。最早これ以上戦う必要もない、傷は後でゆっくり癒せばいい。右手に収まるネックレスを覗き見て、唇の端を釣り上げる。
 ついにやったのだ。シズクは殺し損ねたが、今回はそこまで命ぜられていない。自分は期待された以上の事を達成したのだ。なんと言っても、『石』の奪取に成功したのだから。そんな自分を、カロンは褒めてくれるだろうか。ほとんど年の変わらない、けれども年齢以上に達観したものを持つ主の姿を想って、ルビーは恍惚とした表情を形作る。
 「あまり浮かれていると失敗するぞ。最後まで気を抜くな」
 すぐ隣を走るダイモスから、呆れのこもった声が飛んできた。眉をひそめて不快感を示し、そのままルビーは彼を睨みつける。
 「何よ。心配しなくても大丈夫よ! 計画は成功したも同然なのだから」
 仲間内で最も年長者にあたるダイモスは、よくこんな風に兄貴風を吹かせてくる。確かに言っている事は正しい事ばかりだが、期待で弾んだ気持ちに水を差すなと言いたいところであった。
 今回の目的は、魔物に町を襲わせる。たったこれだけだった。別にシュシュの町にこだわった訳ではない。丁度手頃な大きさと位置で、始めに手を付けるのにいろいろと都合が良かったのだ。ところがどうだ。町で思わぬ見つけものを二つもしてしまった。一つ目は、あの翠瞳の少女。12年前に殺し損ねて以来、行方知れずになっていた人物だ。そして二つ目が『石』を持つ少女、シズク。――まさか、こうも上手く行くとは思っていなかった。
 「私達に、運が向いてきたという事よ。きっと、そうなんだわ」
 乳白色のフードを脱ぎ捨てる。血と雨をふんだんに含んだせいで、重さを増して動きにくかったからだ。姿を隠す必要も最早無い。あとは帰還するのみ。シュシュの町を出れば、それも容易い事だった。

 「――――?」

 あれこれと考えを巡らしていたルビーの隣で、ダイモスが立ち止まる。足並みに合わせて、ひと際大きな水たまりからしぶきがあがった。普段から難しい顔をしていたが、いつにも増して表情が渋い。眉間に皺を寄せて前方を見ている。視線の先は、出入り口に当たる町の門だった。争いの中で門扉自体は破壊され、今は出入りを制限する者の存在も無い。
 「……どうしたのよ?」
 「結界が、張られている」
 「え?」
 思わず目を丸くする。結界と言って浮かんでくる人物は自分の中にたった一人しか居ない。
 「クリウスが張ったの? そんな事、計画にはなかったはずだわ……」
 呟くルビーを横目に、ダイモスはゆっくりと歩みを再開させる。丁度出入り口に当たる境界に腕を伸ばすと、何もないはずの空間に、確かに触れる何かが存在しているのが分かる。しばらくの間それらを確かめるように触れ、やがてダイモスはため息をひとつ零した。
 「町の周囲に、強固な結界が張られている。我らでも突破出来ぬ程の」
 「なんですって!?」
 目を吊り上げて、大声を上げる。由々しき事態だ。要するに自分達は、シュシュの町の中に閉じ込められたという事か。それでは駄目だ。ここから出られなければ『石』を主に届ける事も出来ない。
 「だから私はクリウスと組むのは嫌だったのよ!」
 「そう興奮するな。仕方あるまい。あいつでなければ隠密に力点を設置し、町中に魔物を召喚する事は不可能だったのだから。クリウスは我々の中でもひと際魔力の制御が上手い」
 ダイモスに言われて、ぐっと言葉に詰まる。確かにその通りである。
 魔族(シェルザード)といっても、魔力の高さには個人差がある。ルビーもダイモスも、人間の魔道士を凌ぐ魔力と器を持つが、術の制御はどちらかというと苦手であった。魔法も使うが、剣や体術で戦った方が手っ取り早くてやりやすい。ダイモスなどは自分以上にその傾向がみられる。魔法を使う能力と、それを自在に使える能力というのは、必ずしもイコールで結ばれないのだ。
 その点、クリウスは魔法の才能に特化していた。仲間内で一番の制御力を持ち、魔力にしても、トップレベルを誇る。故に、今回の件でも彼に白羽の矢が立ったのだ。正直ルビーは乗り気ではなかった。イリスでも何やら暗躍していたようであるし、裏切る可能性は十分に考えられたからだ。無事召喚魔法が発動し、魔物が町を覆いつくした時は、ほっとすると同時に意外だと思ったくらいだった。だが……案の定というやつか。
 「っ……! クリウスを探すわよ!」
 大きく舌打ちして、ルビーは喚いていた。こうなったら、結界を張った張本人を見つけ出して解除させるしかあるまい。今この場には、クリウスを凌ぐ魔力を持つ者など存在しない。故に、彼以外に結界を破れる者は存在しないのだ。
 「だから落ち着け、ルビー。焦っても何の解決にもならない」
 「落ち着いていられる訳ないじゃないのっ!」
 興奮するルビーの横で、尚も落ち着き払った調子でダイモスは告げる。そんな彼の姿は、ルビーを落ち着かせるどころか、かえって彼女の苛立ちを募らせるだけだった。早く帰らなければならないのだ。主は――カロンは待っているはずだから。
 「元凶ならば、すぐ目の前に居る」
 「え――」
 ダイモスの次なる言葉に、虚を突かれて目を丸くする。それまで感じていた苛立ちもすうっとなりを潜ませててしまった。そんなルビーに益々呆れたとばかりにダイモスはため息を零す。むっとなるも今は言い返せない。彼に顎で示されて、そのまま視線を移動させた。巡らせた視線に移るのは、降り続く雨と壊れた町の姿。そして――

 「僕の事、随分とお探しのようだね。ルビー」

 涼やかなテノールを発する、銀髪の少年。乳白色のローブを身に包んだまま、彼は自分たちとは少し離れた場所に佇んでいた。一体いつの間に現れたのだろう。相変わらず神出鬼没だ。
 「クリウス。一体どういうつもり? 結界なんて話、私達は聞いていないわ」
 ありったけの警戒心を乗せ、冷たい響きで言い放つ。そう、聞いていない。今回の計画でのクリウスの役割は、町中に魔物を召喚する事。それだけだった。
 ルビーの言葉に、クリウスは悪びれもせずに肩をすくめた。それがいかにも役者然としていて癇に障る。
 「一応頼まれたよ、『町人が逃げ出さないよう、結界を張ってくれ』って、カロン様から直々にね。……尤も、ルビー達をも閉じこめてしまえる程協力な結界を張ったのは、僕個人の意思だけど」
 「……どういう事だ」
 低い声で、ダイモスが告げる。相手を威圧する、重力のある声だった。並の者は、これだけで心を折られてしまうだろう。もちろんクリウスは、並の精神力を持つ者ではないため、意味をなさないが。
 案の定ダイモスの威圧的な空気にも呑まれず、クリウスは緩く笑う。人形のように整った容姿は、今や雨に濡れて独特の憂いを呼び、ぞっとするほど美しかった。
 「取り引きをしようって事だよ」
 「取り引き?」
 訝しげに瞳を細めるルビーを見て、クリウスは尚も笑う。けれどいつしか、柔らかな笑みは、向けられた者に無言の圧力をかける笑みへと変貌を遂げていた。
 「『石』を渡してもらおう。そうすれば今すぐにでも、結界を解除するよ」
 「――――っ」
 急激に、場の雰囲気が張りつめたものへ変わっていく。右手に収まるネックレスをきつく握りしめると、ルビーは腰に下げたポーチにするりとそれを滑り込ませた。渡すわけにはいかない。せっかく念願が叶って、手に入れる事が出来たものなのだから。
 「お前は、我々と目的を共にする者だろう? 何故『石』を手に入れたがる。誰が持っていようとも同じ事だ。結局これは、我らが王の物となる」
 「違うよ。それは……シズクの物だ」
 形の良い唇からこぼれ落ちたのは、驚くほどに優しい声だった。こんな顔も出来たのかと、ルビーは瞳を細める。自分達と共通の目的を持っていたはずの、仲間としてのクリウスは、こんな穏やかな顔をしない。いつも美しい笑顔という仮面を被って、極めて冷静に主の下す命令に従ってきた。
 「ティアミストの娘に、情でも移ったか?」
 からかいの笑みを浮かべながら、隙のない動きでダイモスは剣を構えた。いつでも戦闘に入れる体勢に入ったのだ。彼はクリウスを敵だとみなしたのだろう。
 「……交渉決裂って訳だ」
 「結界が解けぬのならば、力づくで解除させるしかあるまい」
 クリウスとダイモスが地を蹴ったのは、ほとんど同時の事だった。



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