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第9章「破壊の足音」




12.

病める者に癒しと安息をもたらし 傷つきし者に安らぎと安楽を――

 杖を構え、印をきって癒しを請う呪を捧げると同時に、周囲の喧騒が一気に遠くなる。アリスの視界から余計なものは全て廃除された。今必要とするのは、治療の対象となる少女のみ。

 『――”回生”!

 ラナの腹部にかざした右手がほんわりと温かくなる。アリスが使える中で最上級ともいえる癒しの呪術だ。持って行かれる魔力も並大抵のものではない。案の定、視界がぐらりと揺れた。針を突き刺したような鋭い痛みが体に走り、額に嫌な汗が滲んだ。ここに至るまでに随分術を放って来た事が確実に災いしている。今のアリスの精神力でこれを行使するのは、はっきり言って無茶だった。だが、術を中断させる訳にはいかない。ラナの容態を思うと、こんなものなど気にする程のものではない。
 (止まって……!)
 心の中で祈る。おびただしい量の出血はラナの衣服を真っ赤に染め上げていた。急いで止血を施したが、それだけでは間に合わないくらい状態が悪い。癒しの術を施した今でも、なかなか血は止まってくれなかった。既に意識は無く、元々の整った顔立ちが、ラナを青白い人形のように見せている。師匠であるセイラですら、助けられる可能性の低さに表情を歪めてしまうレベル。
 だが、何としても助けたかった。この少女の命は、こんな理不尽な事で消えて良いものではないのだ。それに……シズクと約束したから。ラナを絶対に助けるのだと。
 (シズク)
 今はもう、走り去った少女の名前を心の中で呟く。疑う事を一切せずに、彼女は自分を信じてくれた。助けると告げた瞬間、それまで虚ろで何も映していなかった青い瞳に、確かに光が戻ったのだ。絶対に約束を破る訳にはいかない。シズクの瞳にも、ラナの瞳にも、光を宿さなければいけないのだ――。






 ネックレスを奪ったルビーを追って、リースは町を疾走していたのだ。魔法が放たれる轟音がして、その方向に足を進めた訳だったが、遭遇した光景はそれこそ、リースが予想もしていなかったものだった。何故クリウスがここに居るのだろう。更に言うと、本来敵であるはずの彼が何故ルビー達に殺されかけているのだろう。頭の中に様々な考えが浮かんだが、全ての疑問への答えは、こちらに投げて寄越されたポーチが語ってくれた。

 「それを持って今すぐ逃げなよ!」

 届いた言葉に虚を突かれるも、直ぐになんとなく状況が飲み込めてくる。目の色を変えて、ルビーとその隣に居る男の魔族(シェルザード)がこちらへ向ってきたからだ。ほとんど反射的にリースは剣を構える。

 『氷よ(レイシア)!』

 力ある言葉と共に、小さな氷の刃が空を飛んだ。それはそのまま、リースに向かってきていたルビーへと襲いかかる。咄嗟に、折れた紅の剣を使って弾くも、彼女の動きはそこで止められてしまったようだ。たて続けにもう一本、氷の矢が飛んできたからである。術を放ったのは、クリウスだった。危なっかしい動きで立ち上がると、更なる術を使うために彼は呪を紡ぎ始めていた。視界の隅でそれらを確認すると、リースは対峙するべき相手が一人となった事を認識する。そして、こちらへ大剣を振りかざしてくる赤茶髪の男を、自身の剣で迎え撃った。
 高音で空気が戦慄く。剣を受け止めた腕がびりびりと痺れた。見た目からして重量級の剣だが、その予想を更に上回る程に一撃が重い。
 「…………っ!」
 全身を使って男の剣を弾くと、間合いを取るべく一旦後方へ跳ぶ。次の瞬間には、右上からの一閃を叩きこんでいた。受け止められて、また空気が鳴く。
 胸の奥で何かがくすぶっているのを感じ、背筋に冷たいものが走った。右腕に若干の熱も宿る。まずいな、と頭の中の冷静な部分で理解していた。町中にはびこる魔物達とは格が違う。この男は、間違いなく強い。このまま剣を合わせ続けていたら、自分の中の例のものがまた、暴れ出してしまうかも知れない。
 「……?」
 内心冷や汗を流しているリースを見た男の方も、訝しげな表情に変わっていた。一体どういう心境の変化だろう。ありったけの殺意を持って突き出されていた剣は威力を潜め、リースの剣を緩く受けて流すと後方に跳ぶ。こちらを見据える男の表情には、驚きと好奇心が混在しているように思えた。
 「ああそうか……『饒舌なる右腕(ミーゼ・ノジク)』だ」
 「は?」
 戦いの場である事を一瞬忘れて、リースは呆けた声を上げる。突然男の口から飛び出した言葉が、不可解なものだったからだ。そもそもリース達が日常会話で使うような言葉の響きではなかった。しかし、聞き覚えはある。特にここ最近の旅の間でよく耳にするようになった種類の響き。――古代の魔族(シェルザード)言語である。多少はこの言語に明るいリースは、頭の中の知識を最大限活用して、男が放った言葉の意味を探し当てようとした。
 「久しいな。『(チュアリス)』の加護を纏ったイリスピリアの王子が母親を失い、力を目覚めさせてから、もう8年にもなるのか」
 しかし、リースが答えに行きつくよりも早く、目の前の男が口を開いた。嫌に核心の籠った言い方と、そのあまりの内容に、思考が強制的に停止させられてしまう。一時呆けていた表情が、瞬時に強張ったのが自分でも分かった。誰にも触れられたくない部分を、無理矢理鷲掴みにされたような感覚。ざわりと胸が大きく騒ぎ始める。
 「制御不能に陥ったはずの力を……さて、どれほど扱えるようになっているのか。見物だな」
 それまでほとんど感情を表に出さなかった男が、ここにきてあからさまに表情を変える。唇の端を引き上げると、笑ったのだ。興味深い見世物を心待ちにする観客ような。懐疑と期待がない交ぜになった笑みである。
 一方のリースはというと、益々厳しい表情に磨きをかけて、鋭い眼光を相手に突きつけていた。剣を持つ右手がいつにも増して疼く。平静は失うなと、心のどこかで警告が挙がった。
 「……何故、それを知ってる」
 古傷が急に開いて、血を流し始めたような気がした。何故今この状況で、よりにも寄って敵である男から、そのような事が語られているのか。引き上げられた唇からこぼれ落ちる話が、一部の者しか知り得ない核心にまで及んでいる事に戦慄を覚える。
 客観的な事実だけで言うと、あれはそれなりに有名な事件だろう。イリスピリア国民ならば、まず知らない者は居ない。8年前、イリスピリアの王子を庇って、時の王妃イーシャが事故死した。そう、あれは確かに『事故』だった。
 「静養先であるエラリア国の森で、王子は魔物の群れに襲われた。圧倒的な力の差だった。それを助けたのが、『剣妃』と名高かった王子の母親。彼女のお陰で魔物は全滅し、王子は助かった。彼女自身の命と引き替えに。――と、世間一般ではそういう美談という事になっている」
 「それが、一体どうした?」
 口から飛び出した声は、予想以上に低かった。まるで自分のものではないみたいだ。間違いなく自分は今、動揺している。男に内心の焦りを悟られまいと、ますます眼光を研ぎ澄まして行った。
 「……別に、だからどうしたという訳ではない。ただ客観的な事実を述べたまでだ。懐かしかったものでな」
 剣を構えながら、男は肩をすくめる。抑揚のない、静かな声だった。けれども、語られる内容には巧妙に毒が塗り込まれていた。拒む事も出来ずに、リースは毒を受け入れるしかない。
 「8年前、まだイリスの結界は強固な状態を維持していたため、我々も王家に手の出しようがなかった。だが……イリス以外の場所でなら、話は別だった。そう、ただそれだけの話だ」
 「――――」
 男の言葉は、雷のようにリースを貫く。急激に体温が下がるような感覚がする。自分が今まで頑なに信じていたものが、足元から音を立てて崩れていくのが分かった。
 (まさか――)
 嫌な予測が恐ろしい程整然と頭の中で積み上がっていく。男の含みのある言葉は、その考えをことごとく肯定しているような気がして仕方がない。予想は次々に確信へと転じて行く。
 魔物がはびこるシュシュの光景が、度々自分に与えていた焦りは、すべてはそこから来るものではないだろうか。不自然に発生した魔物と、逃げ惑う人々。それらは、あの日の自分の状況と嫌でも重なる。しかし……もし、あの日の事件を引き起こしたものと、今の現状を作り出した元凶まで全く一緒であったとしたなら。
 「まさか……」
 母は事故死などではないと言う事になってしまうのではないか。不幸な死ではなく、意図的な悪意が引き起こした死――

 「王妃の命まで奪うつもりは無かった。我らの目的は、饒舌なる右腕(ミーゼ・ノジク)を目覚めさせる事だったのだから。だが……彼女の犠牲があったからこそ、我々の望む以上の結果となった」
 「――――」

 抑揚のない男の言葉を耳にした瞬間、ぶつりと、リースの中で何かが音を立てて切れた。頭の中が急激に沸騰して行く。考える前に体は動いていた。地を蹴って飛び出す。そして全身の力を込め、敵である赤茶髪の男に剣を突き出した。リースの黒刃の剣は、今はもう本来の色を宿してはいなかった。いつかの戦いの時のように、眩しい程の白へと色を変えていた。
 ぎんと、甲高い音が上がる。一瞬、空気すらも波打った。白色の刃と鋼の大剣が火花を散らす。ぶつかった両者の視線にもまた、火花が散った。
 「……なるほど、確かに強い。並の剣では今ので体ごと両断されていただろうな」
 実際リースもそのつもりだった。先日の街路で、リースの右腕は巨大な魔物を一刀両断にした。それと同じくらいの威力が、今の一撃には込められていたはずだったのだ。だが、結果はこの通りだ。剣は受け止められ、男は、多少表情に苦渋は滲むものの、ダメージらしいダメージは受けていない。
 「しかし残念な事に、未だに力を扱えてはいないらしい。今の勢いが、果たしていつまでもつかな」
 「うるさいっ!」
 鋭く叫ぶと、一旦剣を弾いてから二撃目を繰り出していた。これもあっけなく受け止められる。続けてもう一閃。先ほどよりも激しい音で空気が鳴いた。一撃に込められる力も段違いに強い。数発撃ち合った時点で右腕が悲鳴を上げ始める。それでもがむしゃらに剣を打ち出すと、今度は体の内側が熱くなった。感情にまかせた攻撃は、剣を益々白く輝かせ、『光』は力を与える。けれども、白の剣は諸刃の剣。繰り出すたびに自分の中から大量の何かが抜け出して行くような感覚がした。街路で暴走を起こした時の感覚とそれは非常によく似ている。
 「ああぁぁぁっ!」
 それにも構わずに吼えて、リースは男に攻撃を仕掛け続ける。理解はしている。冷静になれと。だが、現状それが出来るかというとほとんど不可能に近かった。この男は、おそらく自分の母の仇なのだ。

 ――平静を保たないと、力にのまれるぜ。

 頭の中で、唐突にフェイの忠告が響く。視界が滲んだのは、その直後の事だった。たて続けに無茶な剣を振るってきた右腕がとうとう限界を迎える。先日の街路でそうであったように、体の中心から生暖かいものが込み上げてくる感覚に襲われた。思わず剣を退く。そして男がそれを見逃すはずもなく――
 「返してもらおうか――寡黙なる左腕(ミクラテ・イノジク)を」
 ハッと目を見開けば、すぐ目の前に赤茶髪の男の顔があった。鋼の大剣は大きく振りかぶられ、確実にリースを捉える。
 (やられるっ!)

 『放水(スレイジ)!』

 男の大剣がリースに届かんとしたまさにその時、ゴウッと、耳元を轟音がかすめていった。直後には大量の水が自分たちへと押し寄せてくる。そう、文字通りそれは『水』だった。だがもちろん、先ほどからずっと降りしきっている雨などではない。精霊の力が宿った、魔法とも呼べるもの。
 「……っ!」
 リースはもちろん、剣を振りおろしていた男もまた、突如押し寄せた水になす術なく、大きく体制を崩した。雨のせいでリースも男も全身びしょ濡れではあったが、それでもここまで盛大に水を被ったりはしていなかった。激戦に文字通り水を差された形で、両者は呆けて立ち尽くす。

 「まったく! 逃げろっていう僕の言葉を理解出来なかったっていうのかい? 馬鹿王子だね、君は」

 憮然とした声は、すぐ右方から聞こえてきた。姿を確かめるまでもなく、誰のものか分かり切っている。両者ほぼ同時に声の主へ視線を向けると、そこには予想通り、不敵な笑みを浮かべた美貌の少年の姿があった。先ほどルビーとこの目の前の男に殺されかけていたクリウスである。あの一瞬では確認できなかったが、こうして見てみると彼自身深手を負っている事が理解できた。腹部が赤黒く染まっている。青白い顔は、決して雨のせいではないだろう。おそらく立っている事すら苦痛になる傷だ。その事実を、飄々とした美しい微笑が見事に覆い隠している。
 「ふん……ルビーを下したか」
 「剣を失った彼女なんて、僕の敵じゃないって事だよ。今はあそこでのびて貰ってる」
 あそこと言ってクリウスが顎で示した場所は、ここより少しだけ門に近い場所だった。確かにそこに、赤髪の女は倒れている。体の一部を氷漬けにされた状態で。
 簡単に倒したような物言いだったが、これだけの傷を負いながらルビーを倒す事は、酷く難しい作業のように思える。そんな時ふと、どこか吹っ切れた表情のクリウスが気になった。悪い予感が胸を突く。もしかして彼は――
 「で? 何を突っ立ってるのさ。さっさと逃げなよ、馬鹿王子」
 「ば――っ」
 一瞬真剣にクリウスの身を案じてしまったリースだったが、完璧なまでの微笑みと共に向けられたそんな台詞に、気遣いなど一切不要である事を悟った。親指を立ててリースが走ってきた道を指し示すと、クリウスはこれでもかというくらいの不敵な笑みを浮かべる。不服を表情で示したリースにしかし、彼は無関心を装う。
 「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのさ。いいから早く逃げなって言いたいところだけど……ま、それも今は無理な話か」
 肩をすくめてから、クリウスは視線をリースから離して前方を見る。飄々とした口調の割には、この時には既に整った顔には真剣な色が浮かんでいた。何だか色々とうやむやにされた気がしないでもないが、つられてリースもクリウスの視線を追う。両者の視界の先には、赤茶髪の男の姿。既に体制を整えた男は、大剣を構えていつでも戦闘に入れる状態だった。
 「人間は嫌いではなかったのか? クリウス。お前ともあろう者が、人間を助けるために命をかけるとはな」
 「別に僕はこいつを助けたくて動いた訳じゃないよ。全ては、シズクに『石』を返すため……僕自身の贖罪みたいなもんだよ。まぁ、これで罪がぬぐえるかと言うと、かなり怪しいところだけれど」
 言ってクリウスは自嘲気味にほほ笑む。緊張感は解かずに、赤茶髪の男も瞳を細めた。心なしか寂しげな色が、その魔族(シェルザード)色の瞳には宿っていた。
 「とは言っても……確かに無茶したよね。きっと僕は、もうすぐ死ぬだろう」
 「――――!」
 淡々と告げるにしては、あまりな言葉だった。思わず息を呑む。しかし、赤茶髪の男は、特に驚くでもなく、静かに佇んでいた。言葉の代わりに突きつけられるのは、大剣の切っ先。それが合図だったのだろう。それまでしっかりと地に足を付いていたクリウスがぐらりと大きく揺れた。
 「クリウスッ!」
 ほとんど本能的な感情のままに、体はクリウスを受け止めるべく動いていた。完全に倒れこむ直前に、なんとかギリギリ手が届く。触れたクリウスの体は驚くほど冷たかった。そして直後に感じる、生き物が流すもの独特の滑り。それだけが唯一温かみを帯びていた。
 「……何て事だ。笑っちゃうよね。この世で最後に受け止められるのが、君みたいなむさい男にだなんて」
 軽口だけは、変わらなかった。たとえその表情に、一切の余裕が感じられなかったとしても。
 虚ろに空を泳いでいた青い瞳が、やがてリースの方を向く。いつもの余裕を宿した笑みを作ろうとして、見事に失敗したボロボロの顔で、彼はぽつりとこう零した。

 「力に呑まれてる場合じゃないっての。『右手に(チュアリス)の剣を。左手に(カイオス)の魔法を』……それでこそイリスピリアの王子だろう? リース・ラグエイジ」

 何故かその言葉が、リースの胸に深く、突き刺さった。



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